33,忘れられない微笑み
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『ありがとう。アリシャ嬢』
そう言ってくれた言葉も、万感の思いをのせた泣きそうな表情も。今もはっきり憶えている。
(なのに、私は――……)
いつも、いつまでも、してしまった後悔が胸に残っている。消えない痛みはまるで私を責めるように。
(どうして、こんなことに……)
催した茶会でロザロス夫人に毒が盛られた。そのこと自体は私とロザロス夫人、夫人の二人の従者、診てくれた医者と信頼できる私の侍女だけで共有することにした。
旦那様やロザロス公爵様にはそれぞれから伝えることになっている。招待していた令嬢たちは詳細は知らない。……だけれど。
(隠しとおすのは難しい)
少人数で共有しても、茶会に参加した令嬢たちの中にはカフカント家の令嬢がいる。
カフカント令嬢であるリティア様は反獣人派との交流があるから、皆さまもリティア様から情報を得ようとする。
それがまた、私の気を重くさせる。
毒が混ぜられたと分かった時点ですぐに厨房を調べた。だけれどなにも出てこなかった。
ついで侍女に私の体調を心配された。……今は、気が重いくらいで他に症状は出ていない。
私のことなんていいの。私なんかよりも――……。
倒れてしまったロザロス夫人の姿が、今も脳裏から消えない。
(どうして、こんなことに……)
もう何度も何度も考えて、だけど答えなんて出てこない。
項垂れて拳を握るしかない。ソファに座ったまま、まるで罰を待つように、ただ時間がすぎるのを待つだけ。
「アリシャ」
「っ!」
沈み込む私を引き上げる、穏やかな声。
部屋の扉を開けて入ってきた、その声の主。
弾かれたように頭が跳ね上がって、薄暗い室内に明かりが灯って少しだけ目がくらむ。
明るさに目が慣れて、視界に見えた光景。
「だんな、さま……」
カフカント侯爵。私よりもずっと年上の御歳六十になる、カフカント家の当主。
ぴんと伸びた背筋、整えられた白髪交じりの髪、小奇麗な身なりはとても紳士的な印象を与え、その印象どおりの為人であられる御方。
一年前、私はカフカント侯爵様と婚姻を結んだ。そのせいでいろいろな噂が流れたけれど、旦那様はそれには一切動じずに社交界では堂々とされている。
――この御方も、私が苦しめた一人。
ロザロス夫人のことがあったせいか、旦那様を前にしてどうしても視線が下がってしまう。だけど、立ち上がって、頭を下げる。
「おかえりなさいませ。お迎えもせず――…」
「構わない。……それより、先ほど報告を受けた。詳しく話を聞かせてもらえるかい?」
「はい」
カフカント邸で起こった問題は当然、その責任は当主である旦那様が負うものになる。私も同じだけのものを背負う覚悟はできているけれど、それによって生じるさまざまなところに影響を及ぼすだろうことを考えるだけでも、苦しい。
旦那様はゆっくりとやってきて、私の隣に腰を下ろす。そして優しく自分の隣を示して、私に座るよう促した。
なんとか、ゆっくりと座りなおす。
だけど緊張が増す。旦那様が隣にいることで、私がカフカント家に与えてしまった問題の大きさを痛感させられる。
(わたし……私は、いつも――…)
どうしようもない、馬鹿で間抜けな女。
視線が下がって仕方ない。泣く資格なんてないから、泣かないようにするだけで精一杯。
そんな私の頭に、ぬくもりが落ちた。
少しだけ息を呑んで、おずおずと頭を上げる。
「アリシャ。大丈夫だから、話してごらん」
そう言って優しく微笑んでいる。私の頭に手を置いて、落ち着かせようとするように。
そんな優しさに喉が急激に狭まる。熱くて、それでも必死に言葉を絞り出す。
「きょ、今日……開いた、お茶会で……ロザロス夫人が、ど……毒に、倒れて……」
「うん。毒は茶かい? それとも菓子?」
「こ、紅茶、です……。ロザロス夫人が……持参した茶葉で、淹れたもので……。辺境領で、親しまれているものだそうで……。ですが……他の皆さんは、庶民的だと言って、飲まなくて……。私とロザロス夫人で、飲もうということに……」
「他の者のカップを回収させた?」
「はい。ですが、私も少し、慌ててしまって……ロザロス夫人と一緒に他の方々のカップを回収したんです。そのとき……おそらくカップが入り乱れてしまって、ロザロス夫人が手に取ったカップが私のものだったのです。それで――……」
「ロザロス夫人が倒れた」
旦那様の確認に私は頷いた。
最初はつっかえつっかえだった言葉も、話していれば少しずつ落ち着く。旦那様は茶会の主催者として不甲斐ない私を責めることなく、ただゆっくりと話を聞こうとしてくださる。
それが嬉しくて――苦しい。
私の頭から手をどけた旦那様はソファにゆったりと身を預ける。その表情をうかがうようにちらりと見るけれど、とても真剣なもので、それを見て一層に私がしてしまったことに緊張が増す。
「旦那様。私――」
「君の体調に問題は?」
「い、いえ……。今はなにも」
「少しでも不調が出たならすぐ言いなさい」
旦那様は怒るでもなく、そうするようにと私に言う。
旦那様も、すぐに解ってしまったのでしょう。――その毒が、誰を狙ったものなのか。
だからこそ、ロザロス夫人が倒れたことが、苦しい。
「状況から見るに、屋敷の者が怪しい」
「そ、それは……」
「他の招待客である令嬢のうち誰かが細工をしたのなら、飲まないという選択は取らないだろう。そして、ロザロス夫人もそうされることは予想できていたはずだ。これまでも獣人というだけでいろいろあっただろうからね。少なくとも、私には夫人が君を狙う理由に心当たりはないし、ロザロス公爵とも狙い合うほどの関係がない。……君には、心当たりがあるかな?」
「ありません!」
そう答えてすぐ、頭をよぎったあの出来事。
だけど、同時に浮かぶ、今も忘れられない言葉と、泣きそうな微笑み。
(そんなこと、ない)
「そ、それに、もしロザロス夫人だとするなら、ご自分で飲むわけがありません。夫人にはどうしてもメリットがあるとは思えません」
「そうなると、最も怪しいのは屋敷の者だ。すぐに調べるよう伝えてあるから、少し待ってくれるかい?」
「はい。……その、ロザロス夫人になにか、お見舞いをしたいと思うのですが……」
「そうだね。私も行こう。医師と治療代もこちらが受け持つ。すぐに手配するよう君も言ってくれたんだろう?」
感謝するような褒めるような、旦那様の声音に私は静かに頷いた。
当然のことをしただけ。だって、目の前で倒れたんだもの。それに――……。
頼んだ私に屋敷の執事もすぐに応じてくれた。
「――……私……侯爵家にとても、ご迷惑を……」
「そんなことはないよ。君はこの屋敷の者で、家族だ。それを迷惑に思うなど、そんなことはない」
「ですがっ……これが表に出れば旦那様やオリヴァン様にご迷惑を――」
口にして、思い出す。
招待した令嬢たちが帰宅し、ロザロス夫人も帰宅した後――
『あなたがあんな獣なんて招待したからよ! どうしてくれるの!? ただでさえあなたなんて我が家に泥を塗ってるいらない存在なのにとんでもなく迷惑だわ! やっぱりおじい様にあなたなんて入れないようにってもっと言うべきだった。ほんっと最低!』
甲高い声でそう叱責されるのはもう慣れている。
実際に私はこの家に嫁いでからずっと迷惑ばかりかけている。なのに、旦那様もご子息のオリヴァン様も、なにも言わない。
(社交界でずっと、私のせいで迷惑をかけているのに……)
私が望まれていないことなんて、私がよく知ってる。
だから、言わないと。
そう思うのに、口が震えて仕方がない。
「……だ、旦那様」
「うん?」
「わ……私と、離縁を――……」
――してください。
そう言いかけて、言葉が途切れた。
旦那様は解っているように、じっと私を見つめている。その眼差しを見て、心がどこか理解する。
「しない。こんな中途半端に君を放り出すなんて、私にはできない」
「っ……ですがっ」
「それに、この家を出てどうするんだい? また、逆戻りだろう?」
言われて、否定が出てこない。
旦那様のおっしゃることは事実だ。この家を出て実家に戻ることはできる。だけど、その先は婚姻前よりもきっとひどくなる。
私にも解る。婚姻前のことが脳裏をよぎって、また、泣きそうな微笑みが浮かんだ。
唇を噛む。
私にできることはなにもないのだと突きつけられるようで、苦しい。
「アリシャ。君にいろいろなものを背負わせてしまっていることは、私も理解している。すまないね」
「そんな…こと……」
「まずは、ロザロス夫人を見舞いにいこう。明日一番に公爵家に使いを出す。それでいいかい?」
「……はい」
膝の上で拳をつくる。……今日は、眠れそうにない。




