13,君はいい男
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「うきゅぅぅぅぅ!」
わんわんと泣いている小さな白い守護獣が帰宅早々、わたしに向かって突撃してやると言わんばかりの勢いで突っ込んでくる。その目からぼろぼろ涙がこぼれているから攻撃の意思がないことは解っているけれど、泣いている子どもが母親に甘えるような、涙を訴えるような行動には肩を竦めたくなってしまう。
勢いよくやってきたその子を尻尾で受け止め、ひしりとしがみついているのを好都合として腰下へと戻した。
「おかえり。ギルベール」
「……ただいま」
守護獣のあしらい方になんとも言えない顔をしている。これでいいから気にしないでほしいものだ。
「随分と疲れ切った顔だな」
「……半分はあなたが原因だ」
「おや。では話を聞こうか」
ため息をついたギルベールは「着替えてくる」と一度自室へと戻る。去っていこうとする姿に、泣いていた守護獣ははっとした様子でギルベールの肩に飛び乗る。本当にあの子はギルベールから離れるつもりはないようだ。それを見ているとどうにも微笑しく笑みがこぼれてしまう。
ギルベールは談話室に連れてくるようハインに言伝を頼み、わたしは一足先に談話室へ向かうことにした。
一家のプライベート空間である談話室。ここもまた屋敷全体と同じで財を示す物が一切ない。あるのは屋敷が建築されたときに付属している彫刻や繊細で荘厳な意匠だけ。
公爵家にしては質素であるが、わたしとしては落ち着く空間だと思っている。
リアンが淹れてくれた茶を先に飲んでいると、ギルベールがやってきた。守護獣はすっかり泣き止んでいるようだ。
わたしの前に座ったギルベールにリアンが茶を出す。それを口にしてからギルベールは息を吐いてわたしを見た。
「あなたが……毎日騎士団や近衛隊への見学に行っているせいで広まっている噂は知っているか?」
「わたしが男漁りをしているというやつだろう?」
控えるリアンがぎょっとした顔をして、ハインがやっぱりと言いたげな顔で息を吐く。
見学予定を組んでわたしが提示した申請を見てハインは思い切り眉を顰めていた。「毎日ですか……。いらぬ噂にでもなればどうなさるのですか」と遠慮なく言ってくれたのも耳に新しい。
ギルベールの胸中はハインに似ているだろう。とはいえ、謝る気はないけれど。
「知っていてやめないのか……」
「しないからな」
「しているのは敵情視察だと?」
「ははっ。よく分かってる」
「嬉しくない!」
非常にショックを受けたような、最早言葉など出ないというような様子だ。背もたれに身を預けてだらりとする姿に守護獣が首を傾げている。
「こういう機会でもないと、騎士団や近衛隊の実力というものが把握できない。使える機会を使うだけのことだ」
「そういう狙いで見学に行く者がまずいない。……間者かと思われるぞ」
「その可能性を持つ者ならな。――む。わたしもそうみられる可能性はあるのか。安心しなさい。君の障壁になる可能性を見にいっただけだから」
「……可能性が高い場合、どうするつもりだ?」
「今後の動き次第で潰す」
「今すぐにやめろ!」
ぐわりと身を乗り出す勢いで止めにくる。不意を突かれた守護獣が倒れそうになっている。
そうは言われてもわたしにだって譲れないものがある。そのための行動がある。ここはきっと平行線をたどるだろう。
心を落ち着けるためにギルべールは紅茶を口にし、息を吐く。
(とはいえ、間者紛いにみられるのはさすがに困る。……まあ、王都に獣人はいないし、シルティもファルダ国に手紙を送ってはいないようだが)
おそらくシルティはそうみられることを危惧していたんだろう。他国から王族や有力者が嫁ぐとなると、どうしてもそういった疑いの目は向けられる。ファルダ国からも手紙は一切送られていないようだ。シルティの日記にそんな様子は書かれていなかった。
(日記から感じ取る範囲で言えば、もしシルティがファルダ国へ手紙を送るとしてもギルベールに検閲してもらうだろうな。ギルベールはさらにそれを陛下に確認してもらう可能性も高い。……互いの安全策だな)
シルティは独断で送ることはしない人だろう。わたしでもこの状況下ではそうする。
とはいえ、わたしは間者ではない。ギルベールの疲弊した様子を見て肩を竦める。
「分かった」
「……素直だな。なにか企んでいるか?」
「君も君だな。とくになにも企んでなどいない。粗方把握は終えたというだけだ」
「……噂が俺の耳に入ったのは今日なんだが?」
「わたしの耳には三日前から届いている。その日数で終えられたのはアランとゼノンも見にいかせたからだ」
「……」
乗り出していた身が背もたれに逆戻りした。
鍛練見学へと足を運ぶ数日前にゼノンとアランの山修行は終了させた。最後のほうはまあ少々荒かったかもしれないが、二人はそれを乗り越えて成長してくれた。
鍛練見学では、第九師団の素力を基準に他の師団や騎士たちを評価してもらった。三人で手分けすれば早いし、二人は素直に評価を下してくれた。
そして今は王都中を走り回って情報収集を行っている。二人が動いてくれることでわたしも非常に助かっている。
「行動が早すぎる……」
「のんびりしていては後手に回るぞ」
「あなたは一体何をしたいんだ。戦闘でもしたいのか……? 何を想定しているんだ」
「君の幸せ。それを邪魔する者」
非常に明白だろうに。
ギルベールのそこまでの疲弊具合の理由が分からない。首を傾げるがギルベールは項垂れているし、その肩に乗る守護獣はわたしの真似をして首を傾げる。
項垂れていたギルベールの頭がもそりと動き、黒い前髪の下からわたしをじろりと見る。
「……まさかと思うが。御前試合で何かするつもりではないだろうな?」
「なにも? 君の勇姿をじっくり見ることができる機会をなぜ潰さなければいけない? わたしだって御前試合は非常に楽しみにしているんだ。普段の生活では君の繊細さや面白い面がよく見えるが、ひとたび剣を持つとやはり空気が変わる。張り詰めた糸のような様は少々心配にはなるが、君がどれほどの鍛錬を重ね、その実力を身につけ、そして今なおどれだけの鍛錬を重ねているか……君が剣を持てばよく分かる。堂々とした凛々しい様も、どこか危うげな様も、目を惹いてやまないものだ」
「……っ」
ギルベールにとってもやはり御前試合は心構えの違うものになるだろう。陛下の御前でギルベールが本気で試合して勝ち進んでいくとは思わないが、だからといって手を抜けるものではないはずだ。
守護獣のいない落ちこぼれであったせいか。それとも剣を持って重ねた鍛錬の時間のせいか。ギルベールが剣を持つ姿は美しく、どこか脆さを感じさせる。目が離せなくなりそうで困る。
なにやら控えるリアンとハインが対照的な表情を浮かべているが、問題はなさそうなので放っておく。
ギルベールはわたしから視線を逸らし、複雑な表情をしていた。
「……そんなふうに言われるほどのものではない。俺はただ……それしかなかっただけだ。だから鍛錬した。今も……変わらない」
「腐らせなかったのは君の行動と積み重ねの賜物だ」
「そんなことは……俺はただ――」
「君は――」
ギルベールは少々困る男だ。ほら。守護獣だってなにやら言いたげに見ている。
目の前の姿に内心息を吐く。ギルベールの言葉を遮れば、その視線がちらりとわたしに向けられる。
複雑に揺れる黒い瞳。それをしっかり捉えて、単純明快に言い放つ。
「わたしは君に惚れ直していると言っている。君にとってそれは己の卑下に劣る言葉か?」
「…………は?」
「心外だ。まったく。困った旦那様だな」
目の前のぽかんとした顔がその驚愕を語っている。室内から音が消えた。
控えている二人のうち片方から悶えるようなうめき声が聞こえるのは気のせいだということにして、非常に愉快な目の前の表情を笑みを浮かべて余すことなく堪能する。
動かなくなってしまったギルベールの頬をぺちぺちと叩いている守護獣に、わたしは同感を求めることにする。
「守護獣。君にとってもギルベールは自慢の男だろう?」
「きゃう」
「頑張る姿はずーっと見ていたいだろう? 他の者など目じゃないくらい一番だろう?」
「きゃーう!」
当然であると言いたげに胸を張って答えてくれる正直な様は非常に好ましい。
音が耳に届いたのか守護獣の動きが視界の端で見えたのか、ギルベールが瞬いた。
「……なにを言っている?」
「君が一番いい男であるという話だ」
「……。――…こいつが頷いた意味とあなたのそれは同じだと思っていいのか……!?」
「ん? 違うな」
「ちがっ……俺を揶揄うのも大概にしてくれ!」
「はははっ!」
ギルベールにとっては己を卑下することも、己の立ち位置も、そうあることを望まれたもの。心を縛る鎖であり、生涯消えることのない呪いであり戒め。周りをよく見ているからこそ、自分の立場を理解しているからこそ、誰かに言われることもなく在るべき姿勢を察している。
それを消すなどということは気安くは言えない。消すにはギルベール自身の心が変わることも必要だ。――わたしにそこまでの力はない。
だが、少しくらいは他者とは違うものを与えることはできるはずだ。
なんといっても、わたしは一応はギルベールの妻だ。そして――憂鬱そうに、複雑に、寂しげに、揺れるその黒い瞳を見ていると感じるこの胸の鈍い痛みを、少しは軽くしてやりたいとも思う。
(二年分の痛みを晴らすのにも苦労しそうだ)
それでも、この身に今こうして宿っている以上、日記で知ってしまった以上、この想いと感情を無視はしない。
(『シルティ』がいたこと。思っていたこと。抱いていた情。望んでいたもの――。決して無視はしない。その上で、わたしのやり方で、わたしの生き方で、これからを生きる)
脱力して気力も失っているギルベールの肩で、守護獣が「なんでそんな顔するの?」と言いたげに首を傾げている。まったくだ。




