序章5 港町でのアンビリーバブル
黒い海を見つめながら、悠真はしばらく黙っていた。
波の向こうにあるはずの中央大陸は、霞んで見えない。
それでも、あの先に“別の世界”があるのだと分かる。
ユキナが肩を竦めた。
「着いたら港の食堂でちゃんと飯食いなよ。」
「移動中は保存食ばっかだったし。」
「食堂あるのか……」
「あるに決まってるでしょ。ここ、港町だよ。」
ノアは黒い海から目を離さないまま、小さく言った。
「潮が濃い。」
「……潮の濃さなんてあるの?」
「ある。」
それだけ言って、また黙った。
そのとき、遠くで汽笛が鳴った。
港のどこかで船が出入りしている。
荷揚げの音。
クレーンが軋む音。
人の怒鳴り声。
鉄と海の匂いが混ざった空気が、胸の奥にまで入り込んでくる。
港町は東区画とはまるで違っていた。
壁の内側にあるのに、ここだけは外に向かって開いている。
人が多い。
物が多い。
声が多い。
そして何より、“明日”があるように見えた。
悠真は思わず周囲を見回した。
露店の並ぶ通り。
積み上がった木箱。
干された魚。
研磨中の刃物。
布を被せられた大型機械。
それから、港へ続く坂道の向こうに見える、さらに大きな停泊地。
「……すげえな。」
ぽつりと漏れる。
ユキナが少しだけ笑った。
「でしょ。」
「北方最大の港町だからね。」
「本土から物が来る場所って、こんなに賑わうんだ。」
悠真はその言葉に、妙な実感を覚えた。
食材。
武器。
機械獣の燃料。
旧文明の部品。
人が生きるためのものが、ここに集まっている。
つまりこの街は、前線ではない。
生き延びるための、結節点だ。
その夜。
三人は港の一角にある宿兼食堂へ入った。
分厚い扉を開けた瞬間に香ばしい油の匂いがした。
厨房では魚を焼く音がしている。
酒を飲む声。
旅人らしい風体の男達。
武装した船乗り。
工具箱を抱えた整備士。
東区画よりずっと雑然としていて、それなのに活気があった。
悠真はカウンターの前で立ち止まる。
「なんか……人がちゃんと生活してる感じがする。」
「そりゃそうでしょ。」
ユキナが言う。
「ここは港なんだから。」
ノアは椅子に座るなり、水を一口飲んだ。
そしてふいに言う。
「明朝、船が出る。」
「え、もう?」
「中央行きの定期便。」
「荷物の積み替えが終われば、乗れる。」
悠真は少し身を乗り出した。
「中央って、そんな簡単に行けるのか?」
ユキナが呆れた顔をする。
「簡単じゃないよ。」
「便の数は少ないし、海でも機械獣も出るし。」
「でも、ここから先は港の仕事。」
そのとき、店の奥で誰かが声を上げた。
「おい、北方から来たのか?」
振り向くと、年配の船乗り風の男がこちらを見ていた。
日焼けした顔。
太い腕。
港で長く働いてきた人間の目だった。
ユキナが軽く手を上げる。
「そう。中央便に乗せてもらおうと思って。」
「その黒髪の坊主、見ない顔だな。」
男の視線が悠真に向く。
悠真は少し肩をすくめた。
「……迷子みたいなもんです。」
「ははっ。」
男は笑った。
「中央へ行くなら、目立たねえ方がいい。」
「港の連中は気にしないが、向こうは違う。」
その一言で、店の空気が少しだけ変わった。
悠真はその“向こう”という言い方に引っかかる。
中央大陸。
まだ見ぬ場所。
だが、この港の人間たちにとっては簡単に笑って済ませられる場所ではないらしい。
ノアが静かに言った。
「明日、出る。」
「……ああ。」
悠真は頷いた。
窓の外では、夜の港が灯っている。
黒い海の向こうに、何かが待っている気配がした。
◇◇◇
食堂の空気は騒がしかった。
酒の匂い。
焼いた魚の煙。
鉄靴が床を鳴らす音。
その喧騒の中で、悠真はふと壁際の地図へ目を向ける。
巨大な大陸図だった。
北方地域。
中央本土。
西海域。
古びた紙の上に、
複雑な航路と都市名が書き込まれている。
何気なく視線を流したその瞬間――
悠真の動きが止まった。
「……は?」
地図の北方区域。
港町の現在地付近に、
かすれて消えかけた旧文字が残っていた。
「トマ……コマイ」
悠真は目を細める。
その少し上。
さらに薄れた文字。
「サッ……ポロ」
心臓が嫌な音を立てた。
さらに視線を動かす。
巨大な北の島。
その形。
見覚えがある。
ありすぎた。
「……北海道?」
掠れた声が漏れる。
ユキナが振り返る。
「ほっかい……?」
悠真は地図へ近づいた。
指先が震える。
港町。
北の大地。
海峡。
本州。
そして中央部。
黒く塗り潰された超巨大都市圏。
「……日本だ。」
頭が真っ白になる。
異世界じゃなかった。
いや、異世界ではある。
だがここは、自分の世界の“未来”なのか。
悠真は思わず後退る。
「うそだろ……。」
千年。
あるいはそれ以上なのか。
文明が滅びた後の日本。
その事実が、急に現実味を持って押し寄せてくる。
ユキナは不思議そうな顔をしていた。
「何それ。」
「知ってる場所なの?」
悠真はすぐには答えられなかった。
代わりに、地図中央へ視線を向ける。
そこだけ、異様だった。
旧東京近郊。
無数の円形都市と建築物が幾何学的に広がっている。
まるで、都市そのものが一つの巨大機械みたいだった。
船乗りの男がジョッキを傾けながら言う。
「中央領域。」
「今の世界の中心さ。」
「法律、物流、軍事。」
「全部中央が管理してる。」
男は少し声を潜めた。
「中央には“統治者”がいる。」
悠真は顔を上げる。
「統治者?」
「名前は色々ある。」
「執政官。」
「管理者。」
「中央の王。」
男は苦笑した。
「でもまあ、一般人からすりゃ“人類代表”みたいなもんだ。」
ユキナが嫌そうな顔をする。
「中央は窮屈よ。」
「移動許可。」
「登録管理。」
「配給制。」
「北方みたいな自由はない。」
「へえ……。」
悠真は再び地図を見る。
東京。
そこだけ文明レベルが違う。
他地域が“滅びた世界の都市”なら、
中央だけは“文明を維持している都市”だった。
ノアが静かに呟く。
「中央管理塔。」
「現存最大都市。」
悠真は聞き返す。
「その統治者って、どんな奴なんだ?」
船乗りが肩を竦める。
「見たことある奴なんてほとんどいねえ。」
「でも噂じゃ、黒髪赤目の若い男らしい。」
「若い?」
「何十年も姿が変わらないとか。」
「病気もしないとか。」
「撃たれても死なないとか。」
酒場の別の男が笑う。
「馬鹿、そんなの作り話だろ。」
「中央の連中が神格化してるだけだ。」
だが、ノアだけは否定しなかった。
金色の瞳が、静かに揺れる。
悠真はその横顔を見る。
「……ノア?」
少女は小さく呟く。
「中央は、壊れていない。」
意味深だった。
その時、別の船乗りが地図の北東を指差した。
「中央行くなら東北通るだろ。」
広大な緑地。
本州東北区域。
そこには、巨大な白い円形都市が描かれていた。
まるで、月そのものみたいな都市。
「月都。」
「東北最大都市。」
「宗教都市」
悠真が聞く。
「ああ。」
「月を信仰してる。」
船乗りは少し嫌そうに笑った。
「まあ実際は、最高司祭が全部管理してるけどな。」
「最高司祭?」
「銀髪の女神だと」
「東北全域の食料と物流を握ってる。」
その瞬間。
ノアの視線が、ほんの僅かに動いた。
一瞬だけ。
本当に、一瞬だけだった。
船乗りは続ける。
「表向きは慈善都市。」
「孤児も病人も受け入れる。」
「だが東北の人間は、みんなあそこを通る。」
「配給。」
「農地。」
「信仰。」
「戸籍。」
男はジョッキを置いた。
「結局、本土はどこ行っても“誰かの管理下”ってわけだ。」
悠真は黙って地図を見る。
北海道。
本州。
東京。
全部、知っている名前だった。
だがそこにあるのは、自分の知る日本ではない。
滅びたあとも、なお続いてしまった世界だった。
窓の外では、
巨大艦船の汽笛が低く鳴り響いていた。




