序章 グッパイ現世
終電が駅へ滑り込む。
扉が開き、吐き出されるように人が降りていく。
男もその流れに混ざっていた。
二十三歳。入社一年目。擦れた革靴。
皺だらけのスーツ。
目の下には濃い隈が沈んでいる。
今日も残業だった。
いや、“今日も”ではない。
定時で帰れた日など、入社してから一度もなかった。
先輩が投げた仕事。
上司が忘れていた資料。
明日の会議用の修正。
「悪い、新人やっといて。」
その一言で積み上がる。
気づけば、終電だった。
改札を抜けた瞬間、冷えた夜風が頬を撫でる。
男はコンビニへ入った。
明るすぎる白色灯。
無機質な入店音。
弁当コーナーの前で数秒止まり、
一番安いハンバーグ弁当を取る。
カゴにはエナジードリンクと煙草も入れた。
会計中、店員が何か言っていたが聞き取れなかった。
外へ出る。街は静かだった。
遠くで救急車のサイレンだけが鳴っている。
男はぼんやりと、
マンションへの道を歩いた。
築何十年かも分からない古いアパート。
二階。
鍵を回し、ドアを開ける。
湿った空気が流れ出た。
脱ぎ捨てた服。
潰れたペットボトル。
積み上がったコンビニ容器。
カーテンは閉め切られ、部屋には昼も夜もなかった。
男は電気もつけず、
コンビニ袋を床へ落とす。
弁当を温める気力もない。
ネクタイだけ外し、そのままベッドへ倒れ込んだ。
スプリングが軋む。
身体が沈む。
スマホの通知が震えた。
『明日朝イチで修正版お願いします』
上司からだった。
男は薄く目を開ける。
暗い天井を見た。
何かを考えようとして、
やめた。
疲れすぎて、感情が動かなかった。
呼吸だけが、浅く続く。
やがて、その呼吸すら静かになっていく。
窓の外では、始発前の街が眠っている。
誰にも知られないまま。
男は、
死んだように眠り――――
◇◇◇
――風の音がした。
草の匂い。
柔らかな感触。
男は重い瞼をゆっくり開く。
青空だった。
雲が流れている。
眩しいほど澄んだ空の下、
蒼く発光する草花が一面に広がっていた。
風が吹くたび、草原が波のように揺れる。
男はしばらく動けなかった。
頭がぼんやりする。
最後の記憶を探る。
終電。
コンビニ。
暗い部屋。
ベッドへ倒れ込んで――
そこから先がない。
「……なんだ、ここ。」
掠れた声が漏れる。
身体を起こす。
土の冷たさ。
草の感触。
夢にしては、
妙に現実だった。
その時、視界の先に人影があることに気づく。
少女だ。
少し離れた場所に、
静かに立っている。
長い白髪。
風に揺れるたび、
銀色にも見えた。
だが、
その淡い金色の瞳だけが、
不思議なほど静かだった。
少女はただ、
こちらを見つめている。
男は眉をひそめる。
「……誰?」
少女は数秒沈黙し、
静かな声で答えた。
「目、覚めた。」
感情の薄い声だった。
抑揚がほとんどない。
男は周囲を見回す。
草原。
空。
知らない景色。
「ここ、日本じゃないよな……。」
「ええ。」
少女は小さく頷く。
「あなたのいた場所ではない。」
男は乾いた笑いを漏らした。
「いや、誘拐って感じでもないし……。」
立ち上がろうとして、
足元がふらつく。
少女が一歩近づいた。
「まだ安静にした方がいい。」
その声音は穏やかなのに、
どこか温度がない。
男は額を押さえる。
「……俺、どうなった?」
少女は少しだけ視線を伏せた。
風が白髪を揺らす。
「あなたは、一度死んだ。」
男の思考が止まる。
「……は?」
「過労による心停止。」
あまりにも淡々とした口調だった。
男は言葉を失う。
否定したかった。
けれど、最後の記憶を思い返した瞬間、
妙に納得してしまう。
重い身体。
浅い呼吸。
暗い天井。
「あー……そういうパターンね。」
掠れた笑いが漏れた。
「マジかよ。」
怖さはなかった。
実感が薄い。
少女はそんな彼を静かに見ている。
「あなたをここへ連れてきた。」
「……なんで?」
「必要だから。」
短い返答。
男は顔をしかめる。
「いや、説明になってないよ」
少女は少し考えるように沈黙した。
その仕草すら、
妙に静かだった。
「この世界は、長く変化を失っている。」
風が吹く。
蒼い草花が揺れる。
遥か遠く、森の向こうに白い巨大な影が見えた。
塔にも、
岩山にも見える何か。
男は目を細める。
「……あれ何?」
少女もそちらを見る。
「昔のもの。」
それだけだった。
男はさらに困惑する。
「ここ、どこなんだよ。」
少女は静かに彼を見る。
淡い金色の瞳。
感情はほとんど見えない。
それでも、その視線だけは妙に強かった。
「あなたの知っている世界とは、
少し違う場所。」
そして彼女は、
ほんの僅かだけ目を細める。
「だから、
あなたを迎えに行った。」




