第64話 優しさのかたち
初めて会った日のことを――今でも、はっきり覚えている。
最初に目を奪われたのは、陽の光を映したような金色の瞳だった。
真っすぐで、少し怖いくらい鋭い眼差し。
近寄りがたいのに、なぜか何度も目で追ってしまうほど綺麗で、不思議な存在だった。そして、その第一印象はきっと間違っていなかったのだと思う。
「名前は?」
そう尋ねても、返ってきたのは素っ気ない一言だけだった。
「教える必要ある?」
まるで面倒だと言わんばかりの声音。
アズベルトみたいに優しく笑ってくれるわけでもなければ、気遣うような言葉をかけてくれるわけでもない。
こんなふうに真正面からぶつかってくる相手なんて、それまで一人もいなかった。
だから悔しくて。会うたびに、つい言い返してしまう。
「脳内お花畑かよ。」
「花畑じゃないもん!ちゃんと考えてるもん!」
「考えてるやつが、相手の言葉にそんな簡単に流されるか。」
「だって、本当かもしれないじゃん!」
頬を膨らませて睨み返す私に、テオドールは呆れたように鼻で笑う。
「はっ……話にならねぇ。」
その態度がまた癪に障って、余計に意地になった。
言い返して、悔しくなって、最後は決まって泣かされる。
アズに泣きつけば味方してくれると思っていたのに、返ってきたのは優しく頭を撫でる手と、少し困ったような笑顔だった。
「イェナ。相手の気持ちを汲み取れるのは、君の長所だ。でもね、譲れないものまで相手に合わせちゃいけないよ。」
その言葉に、私はむっと頬を膨らませた。
(悪いのは絶対テオドールなのに……)
そう思っていたはずなのに、翌日にはまた顔を合わせて、また同じように言い合っている。
「……言い過ぎた。」
珍しく素直な声に振り返ると、テオドールは居心地悪そうに頭をかいていた。
「――でも、お前の考えはやっぱり現実味がない。」
「……何それ。謝りに来たの? 喧嘩しに来たの?」
「はぁ!? 謝ってんだろ!」
「そんな態度で分かるわけないもん!」
結局その日も、最後は言い合いになって終わる。
腹を立てたまま背を向けても、不思議なことに翌日になれば、何事もなかったような顔で隣にいる。
そんなことを、何度繰り返しただろう。
泣かされて、悔しくて、「もう嫌い!」と頬を膨らませる。それでも本当に嫌いになったことは、一度もなかった。
周りのみんなは、私が泣けば困ったように笑って、優しく頭を撫でてくれる。
『イェナは優しい子だから』
『姫様は、相手を想ってのことでしたものね』
『仕方ないね』
周りには、そんなふうに私の気持ちを受け止め、優しく守ってくれる人ばかりだった。けれど、テオドールだけは違った。
私が泣いたからといって言葉を引っ込めることも、機嫌を取るように慰めることもない。
「だからお前は甘いんだ」
そう言って、私が納得するまで何度でも言葉をぶつけてくる。
姫だからと遠慮することも、子どもだからと手加減することもなく、ひとりの人間として真正面から向き合ってくれた。
だから悔しかったし、腹も立った。
それなのに、彼とぶつかり合う時間を嫌だと思ったことはなかった。
怒って、言い返して、ときには泣くほど感情的になって。それでも、あんなふうに遠慮なく本音をぶつけ合える相手は、ほかに誰もいなかったから。
やがて私は、少しずつ気づいていった。
きつい物言いの奥にも、棘だらけの言葉の向こうにも、形こそ違えど、不器用なほど真っ直ぐな優しさがあることに。だからいつしか、言葉の強さだけではなく、その先に隠された想いを見るようになっていた。
もちろん、だからといって喧嘩がなくなるわけではなかったけれど。
「それじゃ伝わらない!」
「気づかない奴が悪い!」
「駄目だよ! それじゃテオドールが悪い人になっちゃうもん!」
「はぁ? 好きに言わせておけばいいだろ。能無しはいらない」
「そんなこと思ってないくせに!」
「うるさいな。わーわー騒ぐな」
また睨み合って、負けじと言い返す。
けれど、どちらからともなく吹き出してしまえば、さっきまでの険悪な空気など嘘だったようにほどけていった。
あの頃は、それが当たり前だった。
どれだけ言い合っても、翌日にはまた隣にいる。
何度ぶつかっても、それきり離れてしまうことはない。そんな毎日がずっと続くものだと、疑いもしなかった。
そして私はきっと――あの遠慮のない距離が、たまらなく心地よかったのだ。
◇ ◇ ◇
(……懐かしいな)
目を閉じれば、あの頃の風の匂いも、くだらないことで言い合った声も鮮明に蘇ってくる。
真っ直ぐで、不器用で、思ったことを綺麗な言葉に包むことなんてできない。それでも、大切なことでは決して嘘をつかない人だった。
昔も今も、その根っこの部分は少しも変わっていない。それが――テオドールという人なのだ。
(……言葉の形は違っても、あの頃と同じ優しさがある)
今日だってそうだった。
フェルディナが滅びた理由を尋ねたとき、彼は「自意識過剰だ」と鼻で笑った。けれど、あれが本当に何の関係もないという意味ではないことくらい、今のイエレナには分かる。
余計なものまで背負わせないように、わざと突き放すような言葉を選んだのだ。
昔から、ずっとそうだったから。
だからこそ――分かってしまう。
ふと脳裏に蘇ったのは、別れ際に向けられた金色の瞳だった。
『――それとも、お前、アイツじゃなくて俺の嫁になるか?』
冗談めかした口調だった。
いつものように「何言ってるの」と笑って受け流してしまえそうな言い方だったのに、あのときの瞳だけは、少しも笑っていなかった。
テオドールは不器用だけれど、大切なところで嘘をつく人ではない。
だから、あれもきっと――。
(……本気だったんだ)
気づいた途端、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
嬉しいわけではない。迷っているわけでもない。
自分が誰の隣にいたいのかは、もう分かっている。それでも、幼い頃から大切だった人の想いを知ってしまったことが、ただ苦しかった。
そして何より――。
(……セスには、言えない)
あの言葉をそのまま伝えることはできなかった。
つい先ほどまで、テオドールに触れられそうになっただけであれほど揺れていたセレストに、今度は「本気で求婚された」なんて言えるはずがない。
隠し事をしたいわけではないけれど、伝えたところで傷つけるだけの言葉なら、今は胸の内にしまっておきたかった。
イエレナは唇をきゅっと結び、ひとつ息を飲み込む。
それでも――彼が伝えに来たことまで黙っているわけにはいかない。
「……テオドールが言ってたの」
ぽつりと零れた声が、穏やかな応接室へ溶けていく。
「旧フェルディナ国は、今は彼の管理下にあるって。いくつか条件はあるけど……返還する意思もあるみたい」
セレストは何も口を挟まず、ただ隣で耳を傾けていた。急かすことも、先を促すこともない穏やかな瑠璃色の瞳に見守られ、イエレナは一度息を整えてから続ける。
「……それに、帝国はアストレアに何か仕掛けようとしてる。テオドールは、その動きを止めようとしてるみたいで……全部は話してくれなかったけど、私が関係してるって」
最後の一言だけが、喉の奥で頼りなく揺れた。
テオドールは『自意識過剰だ』と笑って否定してくれたけれど、今になって思えば、あれも彼なりの気遣いだったのだろう。
本当に関係がないのなら、わざわざあんな言い方はしない。きっとこれ以上、自分に余計なものまで背負わせないようにしてくれたのだ。
その迷いを感じ取ったのか、セレストの手がそっと重なる。いつの間にか冷えていた指先を大きな手に包まれ、イエレナはようやく自分が強張っていたことに気づいた。
「……イェナ。」
優しく名前を呼ばれ、それだけで少し息がしやすくなる。
それでも、まだ言わなければならないことが残っていた。伏せた視線の先で、重なった二人の手を見つめ唇を開いては閉じるイエレナを、セレストは急かさなかった。
ただ包んだ手を離さず、言葉が出てくるのを待ってくれている。
やがてイエレナは小さく息を吸った。
「……それと、もう一つ。気になることがあるの。」
その声音に何かを感じたのだろう。セレストの表情から、わずかに笑みが消えた。
短い沈黙のあと、イエレナは意を決して口を開く。
「……アズの遺体が、見つかってないって。」
ぴくりと、重ねられたセレストの指が動いた。
その小さな反応を感じた途端、胸の奥へ押し込めていた期待が一気に膨らみそうになって、イエレナは慌てて息を飲み込む。
期待してはいけない。まだ、生きていると決まったわけではない。
そう何度言い聞かせても、「もしかしたら」という願いだけは消えてくれなかった。
「私と同じように、“死亡報告処理”されてたらしくて……期待しすぎるなって言われたけど――ゼロじゃないって」
言い終えたあと、二人の間に沈黙が落ちた。
セレストもすぐには答えない。ただイエレナの手を包んでいた指先に、ほんの少しだけ力がこもった。驚きも、希望も、それを信じてしまうことへの恐れも――きっと彼の中にもあるのだろう。
「……もし、本当にそうなら……」
そこから先は続かなかった。
生きているなら、会いたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
そんな願いを口にしてしまえば、本当に期待してしまう。けれど期待した先で、やはりいなかったと知らされることが怖くて、喉の奥にせり上がった言葉をどうしても声にできなかった。
俯いたイエレナを見つめていたセレストは、やがて包んでいた手をそっと離した。そのまま伸びた指先が髪に触れ、乱れた一房を耳へかけるように優しく梳いていく。
イエレナはその手へ甘えるように、ほんの少し頬を寄せた。
「……セス。」
泣いてしまうと思っていたのに、不思議と涙はこぼれなかった。
髪を梳く指先がゆっくりと動くたび、乱れていた呼吸が少しずつ整っていく。その温もりに頬を寄せながら、イエレナは胸の奥で何度も繰り返していた言葉を、そっと噛みしめた。
――アズが、生きているかもしれない。
ほんのわずかな可能性でしかない。
遺体が見つかっていない。ただ、それだけだ。それなのに、一度芽生えてしまった希望は簡単には消えてくれなかった。
会いたい。生きていてほしい。
もう一度、あの優しい声で名前を呼んでほしい。
そんな願いが次々と胸の奥から溢れてきて、少しでも気を抜けば、たったひとつの可能性にすべてを預けてしまいそうになる。
もし今、ひとりだったなら――きっと冷静ではいられなかった。
今すぐ探しに行きたいと訴えて、確かめる術もないまま答えを求め続けていたかもしれない。期待してはいけないと分かっていても、「生きているかもしれない」という言葉だけに縋りついて、都合の悪い現実さえ見えなくなっていただろう。
それほどまでに、アズベルトはイエレナにとって大きな存在だった。けれど、髪に触れるセレストの手が、揺らぎそうになる心を何度も今へ引き戻してくれる。
イエレナはそっと目を開けた。
すぐ隣には、何も急かさず自分を見守る瑠璃色の瞳がある。その静かな眼差しを見つめているうちに、胸の奥で暴れていた感情の向こうから、少しずつ今の自分が戻ってくるような気がした。
もう、兄の帰りを待つだけだった幼い妹ではない。
国を失っても、フェルディナの王女であることに変わりはない。そして今は、アストレア第五王子の婚約者として、多くの者の前に立つ身でもある。だからこそ、希望だけに縋って我を忘れるわけにはいかなかった。
頭では、ちゃんと分かっているのに――ひとりだったなら、きっとその理性さえ簡単に飲み込まれていた。
今こうして踏みとどまっていられるのは、隣にセレストがいてくれるからだ。
「……セス。」
もう一度呼んだ声は、先ほどよりもほんの少しだけ穏やかだった。
セレストはそんな変化に気づいたのか、小さく目を細めると、安心させるようにもう一度イエレナの髪を撫でた。
「……この話は、こっちで預かっていいかな。」
穏やかな声音だったけれど、その奥には揺るぎない意志が滲んでいる。
「テオドールの話も、アズのことも、ちゃんと真意を確かめたい。君に関わることだからね」
イエレナは小さく目を見開いた。
自分ではきっと、期待も不安も切り離せない。けれどセレストなら、そのどちらにも流されることなく、一つずつ確かめてくれる。
――一人で抱えなくていい。
そう言われたような気がして、張りつめていた肩からようやく力が抜けた。
「……うん。」
ゆっくり頷くと、セレストの手へ甘えるように頬を寄せる。
その仕草に彼は何も言わず、ただ親指でそっと頬を撫でた。
窓の向こうでは春風が木々を揺らし、葉の隙間から零れた陽射しが、二人の足元でゆらゆらと揺れている。
アズが生きているのかは、まだ分からない。
テオドールが何を知り、帝国で何を止めようとしているのかも分からない。
それでも今は、答えのない不安に一人で呑み込まれることはなかった。
頬に残る温もりを感じながら、イエレナは静かに息を吐く。
失ったと思っていた過去に、ほんのわずかな光が差している。そして傍らには、これからを共に歩みたいと願った人がいる。
まるで遠い過去と未来が、今この場所で静かに結ばれていくようだった。
【 次回予告 】
ほどけた想いの先に、残るぬくもり。
「……帰ろうか」
重なる影、寄り添う距離。
やわらかな夜に溶けていく、ふたりの時間。
甘く、静かに――深まっていく関係。
けれどその帰路に、
まだ誰も知らない“気配”が紛れ込む。
――これは、束の間の安らぎか。
それとも、新たな波乱のはじまりか。
次話、第二章最終話「甘い帰路」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




