第63話 手放せない理由
応接室の扉が静かに閉まると、外のざわめきは嘘のように遠ざかった。
柔らかな陽射しが大きな窓から差し込み、淡い光が室内を包んでいる。
先ほどまでの喧騒が信じられないほど静かで、聞こえるのはソファの布が小さく軋む音だけだった。
イエレナは力が抜けたようにソファへ腰を下ろす。
熱を持った頬へそっと触れると、まだ火照りは引いていない。
胸元を押さえながら小さく息をついた。
(……周りに人がいたのに…… なのに自分から……抱きついちゃった……)
思い返した瞬間、耳まで熱くなる。
恥ずかしさに身を縮めていると、視界へ静かに影が落ちた。
「……どうぞ。」
セレストが差し出したティーカップから、白い湯気がゆっくりと立ち上る。
その穏やかな仕草に胸が少しだけ落ち着いて、イエレナは両手でカップを包み込んだ。
そっと口をつけると、温かな紅茶が冷えかけていた身体へじんわりと染み渡っていく。まるで張り詰めていた心まで温められていくようだった。
「……少しは落ち着いた?」
柔らかな声が、静かな応接室に溶ける。
イエレナは湯気の立つ紅茶へ視線を落としたまま、小さく頷いた。
「……うん。」
けれど、鼓動だけは少しも静まってくれない。
テオドールの言葉。
冷たく見えたセレストの瞳。
そして――
『……何もなくて、良かった』
あの掠れた声が耳の奥で何度も蘇る。
強く抱き寄せられた腕の温もりも、額へ触れた優しい熱も、まだ身体に残っているようだった。
(……怒ってたけど……それ以上に、心配してくれてたんだ)
そう思った途端、喉の奥がじんわりと熱を帯びる。
同時に、ずっと引っ掛かっていた違和感も、少しずつ形になっていった。
(……距離を置かれてるって思ってたのに……違ったの?)
カップを持つ指先へ力が入る。
震えをごまかすように息を吸い込み、イエレナはゆっくり顔を上げた。
「……セス」
その一言だけで、セレストが静かに視線を向ける。
「ごめんなさい。テオドールのことも……ティータイムで責めちゃったことも……」
少しの沈黙。
それからセレストは困ったように笑った。
「イェナ、謝りすぎ。」
「……だって」
思わず視線が揺れる。
「あんなに怒ると思わなかったし……それに、最近……距離、置かれてたから」
その言葉に、セレストの表情がわずかに止まった。
指先がティーカップの縁で静かに止まり、息を呑む気配だけが部屋に落ちる。
「……気づいてたんだ。」
「……うん」
イエレナは俯き、紅茶に映る自分の顔を見つめながら、小さく笑う。
「"隣にいたい"って言ったのに……他の人、薦められた。」
拗ねるように唇を尖らせてから、イエレナは自分でも驚いたように目を伏せた。こんなふうに、胸の内を飾らず口にしたのは初めてだった。
隣に座るセレストは一瞬だけ目を見開き、やがて張り詰めていた肩から力を抜くように、小さく笑みをこぼす。
「……うん、ごめん。」
返ってきた声は弱く、自分を責めるように掠れていた。
その表情を見つめながら、イエレナは膝の上で指を固く結ぶ。
確かめたいことは、まだ残っている。それなのに、いざ口にしようとすると心臓が早鐘を打ち、喉の奥がきゅっと狭くなった。
それでも、ここで目を逸らしてはいけない気がした。
「……今も、同じ気持ち?」
震えを押し込めるように一度唇を結び、まっすぐ瑠璃色の瞳を見つめる。
「セスの気持ちが……知りたい」
声は頼りなく揺れていたけれど、その眼差しだけは逸らさなかった。曖昧な優しさに逃げ込むのではなく、どんな答えであっても受け止めようとしているようだった。
問いかけた途端、脳裏に蘇ったのは、テオドールのあざ笑うような声だった。
『それとも――お前、アイツじゃなくて俺の嫁になるか?』
(……そんなの、ありえないよ)
どれほど考えても、隣にいたいと思う相手はひとりしかいない。
けれど、イエレナがそう望んでいるだけでは足りない。セレストが自分を望んでいないのなら、この場所に留まり続けることはできないのだ。
心臓をぎゅっと掴まれたように痛み、結んだ指先にさらに力が籠もる。答えを聞きたいはずなのに、今はその答えが何よりも怖かった。
やがて静かな応接室に、時計の針が進む音だけが落ちた。
セレストはすぐには答えず、膝の上で組んでいた指をゆっくりとほどいた。深く息を吸い込んでから、逃げることなくイエレナを見返す。
「……僕が勝手に進めた“婚約”だからね。」
淡々とした声だった。
けれど、わずかに下がった眉と、膝の上で落ち着かない指先を見れば、その言葉が決して他人事ではないと分かる。
「帝国が動き始めた以上、君を隠したまま守り続けるのには限界があった。だから、婚約者として表に立たせた方が守りやすいと思って……君をここへ連れてきた」
言葉を選ぶたびに、セレストの視線がわずかに揺れる。
あの頃の自分の判断をひとつずつ確かめ、同時に悔いているようにも見えた。
「最初は、王子としてすべきことだと思っていた。アズとの約束を果たすためでもあった」
そこで一度言葉を切ると、セレストは伏せかけた目をゆっくりと持ち上げた。
「でも、今は違う」
瑠璃色の瞳が、まっすぐイエレナを映す。
「王子としての体裁でも、アズの遺志でもない。これは……僕自身の気持ちなんだ」
その声音に滲んだ熱へ触れた瞬間、イエレナの胸が大きく鳴った。
セレストは小さく息を吐き、なおも慎重に言葉を続ける。
「君を婚約者として公の場に立たせれば、もう簡単には後戻りできなくなる。僕の隣にいることを、周囲から求められ続けることになる」
膝の上に置かれた手が、わずかに握り締められた。
「それは君を守ることと同時に、僕の立場で縛ることでもある。それが……嫌だった」
静かな声だったからこそ、その奥に沈んだ痛みがはっきりと伝わってくる。
「君が選ぶ未来の邪魔だけは、したくなかった」
セレストはそう言って、痛みを隠すようにほんの少し笑った。
けれど、その笑みはあまりにも寂しく、視線はイエレナではなく自分の指先へ落ちている。その姿を見ただけで、本気で身を引くつもりだったのだと伝わってしまった。
イエレナの指先が、膝の上で小さく震える。
「それなのに……さっき、テオドールに触れられそうになった君を見たら」
そこで声が途切れた。
セレストは堪えるように唇を結び、やがて伏せていた顔を上げる。
「理屈では、手放すべきだと思っていたのに。その瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった」
それは王子として整えられた言葉ではなく、胸の奥から抑えきれずにこぼれ落ちた本音だった。
「守るためとか、立場がどうとか……そんなことじゃない」
ゆっくり伸ばされた指先が、何かを求めるようにわずかに動き、それでもイエレナには触れないまま膝の上へ戻っていく。
「ただ、誰にも……君に触れてほしくなかった」
掠れた声とともに、瑠璃色の瞳が苦しげに揺れる。
「手放した方が君のためだと思っていたくせに、いざ失うかもしれないと思ったら、耐えられなかった」
短く息を吐き、セレストは自嘲するように目を伏せた。
「勝手に距離を置いて、それで君を傷つけた。ごめん」
イエレナの喉が小さく鳴った。
目の前にいるのは、いつも静かで、何事にも動じない第五王子ではない。大切なものを失うのが怖くて、それでも相手のために手を離そうとした、ひとりの青年だった。
揺れる瑠璃色の瞳に宿っているものは、怒りでも焦りでもない。長いあいだ押し込められ、隠され続けてきた、深い恋情だった。
胸の奥にじわりと熱が広がり、気づけばイエレナの視界は滲んでいた。
「……私の望む未来は」
喉が熱くなり、うまく息が続かない。
それでもイエレナは何度か瞬きをして涙を堪え、まっすぐセレストを見つめた。
「セスが、隣にいることだよ」
ぽつり、と涙が頬を伝い、その雫を見つめたまま、イエレナは小さく息を吸った。
「……セスが――好きなの。」
静かな応接室から、音が消えた。
セレストは息を呑み、ゆっくりと目を閉じる。
こみ上げる想いを押さえるように一度唇を結び、それから穏やかに微笑んだ。
「……イェナの望む未来を、叶えないとね。」
そっと伸びた指先が、涙の跡をなぞる。
指先は少しだけ震えていた。
「……へへ。」
泣き顔のまま笑うイエレナを見て、セレストは思わず息を止めた。
どうして、こんなにも愛おしいのだろう。
守りたい。笑っていてほしい。その願いだけが、心を満たしていく。
彼はそっと顔を寄せる。
あと少しで触れられる距離で動きを止め、小さく問いかけた。
「……しても、いい?」
その声は、どこまでも優しかった。
イエレナは照れたように笑い、小さく頷く。
「……うん。」
その一言だけで十分だった。
張り詰めていた表情がふっとほどけ、セレストは安心したように目を細める。
「……イェナ……」
夢ではないと確かめるように名前を呼び、頬へ添えた手にそっと力を込める。
ずっと触れたかった。ずっと、この温もりを求めていた。
その想いを押し殺し続けてきた時間が、震えとなって指先から零れ落ちていく。
セレストはゆっくりと顔を寄せ、互いの吐息が重なり、あと少しで唇が触れる距離。
一度だけイエレナの瞳を見つめると、彼女もまた照れくさそうに微笑み返した。その笑顔に背中を押されるように、セレストはそっと唇を重ねる。
羽が舞い降りるように柔らかく。
壊れ物へ触れるように優しく。
触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが音もなくほどけていった。
――離れたくない。
そんな想いを言葉の代わりに伝えるように、一度離れてはまた重ねる。
角度を変え、小さく触れ合うたびに、互いの呼吸が混ざり合い、鼓動までも重なっていく。
世界から音が消え、春の陽射しだけが静かに二人を包んでいた。
どれほどそうしていただろう。
名残惜しそうに唇が離れても、額が触れそうな距離のまま誰も動けない。
見つめ合って、照れたように笑って。それでも離れることができず、セレストは小さく息を吐いた。
「……困ったね」
掠れた声には、少しだけ照れたような笑みが混じる。
『どうしても、離れたくない』その本音を飲み込む代わりに、もう一度だけ――羽が触れるほど淡い口づけを落とした。
短く重ねただけなのに、それだけで幸福が静かに満ちていく。
「……イェナ……」
もう一度呼ばれた名前は、先ほどとは違っていた。
ようやく届いた安堵。
失わずに済んだ幸福。
そして、これからも隣にいられるという確かな喜び。
そのすべてが滲んだ、甘く穏やかな声だった。
頬を撫でる親指が愛おしそうに涙の跡をなぞる。
触れてもいい。求めてもいい。
そんな当たり前のことが、こんなにも幸せだなんて思わなかった。
「もう少し、こうしていたいけど――」
名残を惜しむように微笑んだあと、セレストは小さく息を整える。
幸福にほどけていた瑠璃色の瞳へ、ゆっくりと王子としての静かな理性が戻っていく。
「……彼が何を伝えに来たのか――僕にも教えてほしい。」
その声にはまだぬくもりが残っていた。
恋する青年の優しさと、大切な人を守ろうとする王子の覚悟。
そのどちらも失わないまま、セレストは静かにイエレナを見つめていた。
【 次回予告 】
あの頃と同じ、ぶつかる言葉。
その奥にあった、変わらない優しさ。
けれど――
「……ゼロじゃないって」
残された可能性が、
止まっていた運命を再び動かす。
過去の想いと、今の想い。
ふたつの“優しさ”の先で、彼女が選ぶものは――
次話、第64話「優しさのかたち」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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