表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

73/75

第63話 手放せない理由


応接室の扉が静かに閉まると、外のざわめきは嘘のように遠ざかった。


柔らかな陽射しが大きな窓から差し込み、淡い光が室内を包んでいる。

先ほどまでの喧騒が信じられないほど静かで、聞こえるのはソファの布が小さく軋む音だけだった。


イエレナは力が抜けたようにソファへ腰を下ろす。

熱を持った頬へそっと触れると、まだ火照りは引いていない。


胸元を押さえながら小さく息をついた。


(……周りに人がいたのに…… なのに自分から……抱きついちゃった……)


思い返した瞬間、耳まで熱くなる。

恥ずかしさに身を縮めていると、視界へ静かに影が落ちた。


「……どうぞ。」


セレストが差し出したティーカップから、白い湯気がゆっくりと立ち上る。

その穏やかな仕草に胸が少しだけ落ち着いて、イエレナは両手でカップを包み込んだ。


そっと口をつけると、温かな紅茶が冷えかけていた身体へじんわりと染み渡っていく。まるで張り詰めていた心まで温められていくようだった。


「……少しは落ち着いた?」


柔らかな声が、静かな応接室に溶ける。

イエレナは湯気の立つ紅茶へ視線を落としたまま、小さく頷いた。


「……うん。」


けれど、鼓動だけは少しも静まってくれない。


テオドールの言葉。

冷たく見えたセレストの瞳。


そして――


『……何もなくて、良かった』


あの掠れた声が耳の奥で何度も蘇る。

強く抱き寄せられた腕の温もりも、額へ触れた優しい熱も、まだ身体に残っているようだった。


(……怒ってたけど……それ以上に、心配してくれてたんだ)


そう思った途端、喉の奥がじんわりと熱を帯びる。

同時に、ずっと引っ掛かっていた違和感も、少しずつ形になっていった。


(……距離を置かれてるって思ってたのに……違ったの?)


カップを持つ指先へ力が入る。

震えをごまかすように息を吸い込み、イエレナはゆっくり顔を上げた。


「……セス」


その一言だけで、セレストが静かに視線を向ける。


「ごめんなさい。テオドールのことも……ティータイムで責めちゃったことも……」


少しの沈黙。

それからセレストは困ったように笑った。


「イェナ、謝りすぎ。」


「……だって」


思わず視線が揺れる。


「あんなに怒ると思わなかったし……それに、最近……距離、置かれてたから」


その言葉に、セレストの表情がわずかに止まった。

指先がティーカップの縁で静かに止まり、息を呑む気配だけが部屋に落ちる。


「……気づいてたんだ。」


「……うん」


イエレナは俯き、紅茶に映る自分の顔を見つめながら、小さく笑う。


「"隣にいたい"って言ったのに……他の人、薦められた。」


拗ねるように唇を尖らせてから、イエレナは自分でも驚いたように目を伏せた。こんなふうに、胸の内を飾らず口にしたのは初めてだった。

隣に座るセレストは一瞬だけ目を見開き、やがて張り詰めていた肩から力を抜くように、小さく笑みをこぼす。


「……うん、ごめん。」


返ってきた声は弱く、自分を責めるように掠れていた。

その表情を見つめながら、イエレナは膝の上で指を固く結ぶ。

確かめたいことは、まだ残っている。それなのに、いざ口にしようとすると心臓が早鐘を打ち、喉の奥がきゅっと狭くなった。


それでも、ここで目を逸らしてはいけない気がした。


「……今も、同じ気持ち?」


震えを押し込めるように一度唇を結び、まっすぐ瑠璃色の瞳を見つめる。


「セスの気持ちが……知りたい」


声は頼りなく揺れていたけれど、その眼差しだけは逸らさなかった。曖昧な優しさに逃げ込むのではなく、どんな答えであっても受け止めようとしているようだった。

問いかけた途端、脳裏に蘇ったのは、テオドールのあざ笑うような声だった。


『それとも――お前、アイツじゃなくて俺の嫁になるか?』


(……そんなの、ありえないよ)


どれほど考えても、隣にいたいと思う相手はひとりしかいない。


けれど、イエレナがそう望んでいるだけでは足りない。セレストが自分を望んでいないのなら、この場所に留まり続けることはできないのだ。

心臓をぎゅっと掴まれたように痛み、結んだ指先にさらに力が籠もる。答えを聞きたいはずなのに、今はその答えが何よりも怖かった。


やがて静かな応接室に、時計の針が進む音だけが落ちた。

セレストはすぐには答えず、膝の上で組んでいた指をゆっくりとほどいた。深く息を吸い込んでから、逃げることなくイエレナを見返す。


「……僕が勝手に進めた“婚約”だからね。」


淡々とした声だった。

けれど、わずかに下がった眉と、膝の上で落ち着かない指先を見れば、その言葉が決して他人事ではないと分かる。


「帝国が動き始めた以上、君を隠したまま守り続けるのには限界があった。だから、婚約者として表に立たせた方が守りやすいと思って……君をここへ連れてきた」


言葉を選ぶたびに、セレストの視線がわずかに揺れる。

あの頃の自分の判断をひとつずつ確かめ、同時に悔いているようにも見えた。


「最初は、王子としてすべきことだと思っていた。アズとの約束を果たすためでもあった」


そこで一度言葉を切ると、セレストは伏せかけた目をゆっくりと持ち上げた。


「でも、今は違う」


瑠璃色の瞳が、まっすぐイエレナを映す。


「王子としての体裁でも、アズの遺志でもない。これは……僕自身の気持ちなんだ」


その声音に滲んだ熱へ触れた瞬間、イエレナの胸が大きく鳴った。

セレストは小さく息を吐き、なおも慎重に言葉を続ける。


「君を婚約者として公の場に立たせれば、もう簡単には後戻りできなくなる。僕の隣にいることを、周囲から求められ続けることになる」


膝の上に置かれた手が、わずかに握り締められた。


「それは君を守ることと同時に、僕の立場で縛ることでもある。それが……嫌だった」


静かな声だったからこそ、その奥に沈んだ痛みがはっきりと伝わってくる。


「君が選ぶ未来の邪魔だけは、したくなかった」


セレストはそう言って、痛みを隠すようにほんの少し笑った。

けれど、その笑みはあまりにも寂しく、視線はイエレナではなく自分の指先へ落ちている。その姿を見ただけで、本気で身を引くつもりだったのだと伝わってしまった。


イエレナの指先が、膝の上で小さく震える。


「それなのに……さっき、テオドールに触れられそうになった君を見たら」


そこで声が途切れた。

セレストは堪えるように唇を結び、やがて伏せていた顔を上げる。


「理屈では、手放すべきだと思っていたのに。その瞬間、そんなことは全部どうでもよくなった」


それは王子として整えられた言葉ではなく、胸の奥から抑えきれずにこぼれ落ちた本音だった。


「守るためとか、立場がどうとか……そんなことじゃない」


ゆっくり伸ばされた指先が、何かを求めるようにわずかに動き、それでもイエレナには触れないまま膝の上へ戻っていく。


「ただ、誰にも……君に触れてほしくなかった」


掠れた声とともに、瑠璃色の瞳が苦しげに揺れる。


「手放した方が君のためだと思っていたくせに、いざ失うかもしれないと思ったら、耐えられなかった」


短く息を吐き、セレストは自嘲するように目を伏せた。


「勝手に距離を置いて、それで君を傷つけた。ごめん」


イエレナの喉が小さく鳴った。

目の前にいるのは、いつも静かで、何事にも動じない第五王子ではない。大切なものを失うのが怖くて、それでも相手のために手を離そうとした、ひとりの青年だった。


揺れる瑠璃色の瞳に宿っているものは、怒りでも焦りでもない。長いあいだ押し込められ、隠され続けてきた、深い恋情だった。

胸の奥にじわりと熱が広がり、気づけばイエレナの視界は滲んでいた。


「……私の望む未来は」


喉が熱くなり、うまく息が続かない。

それでもイエレナは何度か瞬きをして涙を堪え、まっすぐセレストを見つめた。


「セスが、隣にいることだよ」


ぽつり、と涙が頬を伝い、その雫を見つめたまま、イエレナは小さく息を吸った。


「……セスが――好きなの。」


静かな応接室から、音が消えた。


セレストは息を呑み、ゆっくりと目を閉じる。

こみ上げる想いを押さえるように一度唇を結び、それから穏やかに微笑んだ。


「……イェナの望む未来を、叶えないとね。」


そっと伸びた指先が、涙の跡をなぞる。

指先は少しだけ震えていた。


「……へへ。」


泣き顔のまま笑うイエレナを見て、セレストは思わず息を止めた。


どうして、こんなにも愛おしいのだろう。


守りたい。笑っていてほしい。その願いだけが、心を満たしていく。


彼はそっと顔を寄せる。

あと少しで触れられる距離で動きを止め、小さく問いかけた。


「……しても、いい?」


その声は、どこまでも優しかった。

イエレナは照れたように笑い、小さく頷く。


「……うん。」


その一言だけで十分だった。

張り詰めていた表情がふっとほどけ、セレストは安心したように目を細める。


「……イェナ……」


夢ではないと確かめるように名前を呼び、頬へ添えた手にそっと力を込める。


ずっと触れたかった。ずっと、この温もりを求めていた。

その想いを押し殺し続けてきた時間が、震えとなって指先から零れ落ちていく。


セレストはゆっくりと顔を寄せ、互いの吐息が重なり、あと少しで唇が触れる距離。

一度だけイエレナの瞳を見つめると、彼女もまた照れくさそうに微笑み返した。その笑顔に背中を押されるように、セレストはそっと唇を重ねる。


羽が舞い降りるように柔らかく。

壊れ物へ触れるように優しく。


触れた瞬間、胸の奥で張り詰めていたものが音もなくほどけていった。


――離れたくない。


そんな想いを言葉の代わりに伝えるように、一度離れてはまた重ねる。

角度を変え、小さく触れ合うたびに、互いの呼吸が混ざり合い、鼓動までも重なっていく。


世界から音が消え、春の陽射しだけが静かに二人を包んでいた。


どれほどそうしていただろう。


名残惜しそうに唇が離れても、額が触れそうな距離のまま誰も動けない。

見つめ合って、照れたように笑って。それでも離れることができず、セレストは小さく息を吐いた。


「……困ったね」


掠れた声には、少しだけ照れたような笑みが混じる。


『どうしても、離れたくない』その本音を飲み込む代わりに、もう一度だけ――羽が触れるほど淡い口づけを落とした。

短く重ねただけなのに、それだけで幸福が静かに満ちていく。


「……イェナ……」


もう一度呼ばれた名前は、先ほどとは違っていた。


ようやく届いた安堵。

失わずに済んだ幸福。

そして、これからも隣にいられるという確かな喜び。


そのすべてが滲んだ、甘く穏やかな声だった。

頬を撫でる親指が愛おしそうに涙の跡をなぞる。


触れてもいい。求めてもいい。


そんな当たり前のことが、こんなにも幸せだなんて思わなかった。


「もう少し、こうしていたいけど――」


名残を惜しむように微笑んだあと、セレストは小さく息を整える。

幸福にほどけていた瑠璃色の瞳へ、ゆっくりと王子としての静かな理性が戻っていく。


「……彼が何を伝えに来たのか――僕にも教えてほしい。」


その声にはまだぬくもりが残っていた。


恋する青年の優しさと、大切な人を守ろうとする王子の覚悟。

そのどちらも失わないまま、セレストは静かにイエレナを見つめていた。



【 次回予告 】


あの頃と同じ、ぶつかる言葉。

その奥にあった、変わらない優しさ。


けれど――


「……ゼロじゃないって」


残された可能性が、

止まっていた運命を再び動かす。


過去の想いと、今の想い。

ふたつの“優しさ”の先で、彼女が選ぶものは――


次話、第64話「優しさのかたち」


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ