第62話 氷解の抱擁
テオドールの背が扉の向こうへ消えたあとも、テラスには張り詰めた空気だけが取り残されていた。
春風は変わらず吹いているのに、さっきまで交わされていた言葉の余韻が、まだそこかしこに溶け残っている気がする。
イエレナは小さく息を吸うけれど、腰へ回された腕は緩まない。
まるで失いかけたものを確かめるように、セレストの指先には静かに力が込められていた。
「……セス……ごめん、なさい……」
胸元へ落とした謝罪は、風にさらわれるように小さかった。
だが返ってきたのは言葉ではなく、長い沈黙だった。
セレストは目を伏せたままゆっくり息を吐く。その横顔は驚くほど静かで、だからこそイエレナの胸は不安に締めつけられた。
やがて落ちてきた声は低く、どこか疲れたように響く。
「……謝るようなことをしたのかな?」
その声音は静かで、胸の奥がひやりと冷える。
今まで向けられたことのない声音に、イエレナは思わず顔を上げた。けれど瑠璃の瞳は自分を見ているようで、その実どこか遠くを見つめている。
王子としての理性だけを纏ったような、硬く静かな眼差しだった。
「っ……」
首を振り、何か言わなければと思うのに、言葉が見つからない。
指先は震えたまま、彼の服を掴むことさえできなかった。
そんなイエレナを見つめ、セレストは一度目を閉じる。
怒りを飲み込むように。
あるいは、自分自身を落ち着かせるように。
長く息を吐いてから再び瞳を開くと、その瑠璃色は先ほどよりも少しだけ柔らかく、けれど苦しげに揺れていた。
「イェナ。彼のことは……君の方がよく知っているんだろう」
「……うん」
「けれど――彼がどれだけ誠実でも、どれだけ君を想っていたとしても……帝国は帝国だ」
空気がひんやりと沈む。
「彼の周りまで、同じだと思う?」
イエレナは俯き、返す言葉が見つからなかった。
沈黙だけが静かに落ち、その沈黙を見つめていたセレストは、ふっと表情を曇らせた。
そして自嘲するように小さく息を吐く。
「……ごめん。言い過ぎた。」
低く掠れた声だった。
謝ろうとして出た言葉ではない。ただ飲み込んでいた感情が行き場を失い、ようやく零れ落ちただけのような声だった。
君に当たりたかったわけじゃない。ただ――怖かった。
彼女があのまま連れて行かれる未来を、あまりにも簡単に想像できてしまったから。
セレストはそっと目を伏せると、そのまま抱き寄せる腕にわずかに力がこもった。
胸と胸が触れ合うほど近い距離。服越しに伝わる鼓動は思った以上に速く、自分でも抑えきれなかった感情の名残を隠しきれていなかった。
「……何もなくて、良かった。」
吐息とともに落ちたその言葉は、誰に聞かせるためでもない。ただ腕の中にいる少女ひとりへ向けられた、偽りのない本音だった。
その温度に触れた途端、イエレナの胸の奥がじんわりと熱を帯びる。
寄り添う影のあいだを春風が吹き抜け、張り詰めていた空気を少しずつほどいていった。
「……泣いたの?」
掠れた声だった。
先ほどまでの硬さはもうない。
セレストはそっと手を伸ばすと、頬に残る涙の跡を指先でなぞった。
恐る恐る触れるようなその仕草に、イエレナの胸が小さく揺れる。
もう触れてくれないのかもしれない。そんな不安を抱えていたことが、今さらのように苦しくなった。
「……大丈夫?」
優しく問いかけながら、親指がもう一度頬を撫でる。
その温もりに、胸の奥で固く結ばれていたものがほどけていく。
心配そうに細められた瑠璃の瞳は、いつものセレストの瞳だった。それだけで泣きそうになる。
「……セス……」
名前を呼んだ瞬間、セレストの肩がわずかに震えた。
そのまま逃げるように彼女の首元へ額を預け、小さく息を吐く。
「……イェナは、無防備すぎるよ。」
低く落ちた声とともに熱い吐息が肌を掠め、イエレナは思わず息を呑んだ。
首筋へ伝わるぬくもりが心地よくて、張り詰めていた胸が少しずつほどけていく。
怒っていたはずなのに。不安だったはずなのに。
それでもこうして触れてくれる優しさが、どうしようもなく嬉しかった。
しばらくそのまま静かな時間が流れる。
やがてセレストはゆっくりと顔を上げると、瑠璃色の瞳がまっすぐイエレナを映す。
「……公の場に出したの、早速後悔するとこだったよ。」
苦笑混じりに呟くと、今度はそっと額を重ねた。
額と額が触れ合い、互いの呼吸が静かに溶け合う。
「……心配かけて、ごめんなさい」
絞り出すような謝罪に、セレストはふっと息を漏らした。
張り詰めていた表情がやわらぎ、瑠璃色の瞳が優しく細められる。その眼差しを見た瞬間、胸の奥に押し込めていた想いが一気に溢れた。
あの日衝突してから、どこか遠く感じていた。
以前と変わらず優しいのに、どこか一歩だけ距離を置かれている気がして、その小さな隔たりが胸を締めつけていた。
もう以前のようには笑い合えないのかもしれないと、その見えない壁が苦しかった。
けれど違った。
セレストは壁を作りたかったわけじゃない。不器用なくらい、自分を守ろうとしてくれていただけだった。
その想いに触れた途端、どうしようもなく愛おしくなった。
同時に、そんな彼を不安にさせてしまったことが苦しくて、胸が締めつけられる。
気づけば身体が先に動いていた。
「っ……イェナ?」
驚く声が聞こえる。
それでも構わず腕を伸ばし、イエレナはセレストの首へしがみつくと、肩へ頬を押しつけ離れたくなかった。
「……セス、ごめんね……」
震える声が胸元へ落ちる。
その言葉を聞いたセレストは一瞬だけ息を止め、それからようやく力が抜けたように目を細めた。
「……もう、いいよ。」
雪解けのような声だった。
ためらうことなく彼女の背へ腕を回し、そっと抱きしめる。
髪から漂う微かな香りが胸いっぱいに広がり、ずっと抱えていた不安も焦りも静かに溶けていった。
「……イェナ。」
優しく呼んだ名前に、イエレナはさらに身を寄せる。
その小さな温もりが愛おしくて、セレストは思わず頬を緩めた。
春の光が二人を包み込み、穏やかな時間がゆっくりと流れていく。
――そのときだった。
ふと感じた視線に顔を上げたセレストは、小さく息を吐いた。
ガラス越しのサロンでは、いつの間にか集まっていた貴族たちがこちらを見ている。目が合った途端に慌てて視線を逸らす者もいれば、微笑ましそうに囁き合う令嬢たちもいる。
そのさらに奥では、レオニスが紅茶を口に運びながら見て見ぬふりを決め込んでいた。
(……これは、見られてるね)
内心で苦笑しながら、セレストは腕の中の少女へ視線を落とす。
「……イェナ?」
「いやだ」
首元へ顔を埋めたまま返ってきた即答に、セレストの呼吸が止まる。
思わず腕へ力が入りそうになるのを堪え、ゆっくり息を吐いた。
背後からは令嬢たちのくすくすとした笑い声。さらに少し離れた柱の影からは、ギウンの気まずそうな咳払いまで聞こえてくる。
「仲睦まじいわね」
「初々しいじゃない」
聞こえている。
……全部、聞こえている。
それでも腕の中の少女は気づいていないらしい。
「……イェナ」
もう一度呼ぶ。
すると胸元へ吸い込まれるような声が落ちてきた。
「……あったかい……」
胸元へ落ちた小さな呟きに、セレストはとうとう笑みを零した。
こんなふうに甘えられるのは、いつぶりだろう。
そっと背を撫でながら耳元へ顔を寄せる。
「……イェナ。みんな、見てるよ。」
その瞬間、腕の中の身体がびくりと固まる。
恐る恐る顔を上げたイエレナの耳は真っ赤で、目は泳ぎ、今にも湯気が出そうだった。
「ご、ごめんなさい……っ」
慌てて離れようとする姿があまりにも可愛らしくて、セレストは思わず吹き出しそうになる。
「……一度、休もうか」
差し出した手を、イエレナは恥ずかしそうに握り返した。
絡んだ指先を離さないまま歩き出す二人の背を見送り、ギウンはようやく肩の力を抜く。
「……やれやれ。こっちが心臓に悪い。」
ぼやく声は春風にさらわれていった。
一方サロンでは、その様子を眺めていたレオニスが紅茶を口にしながら肩を竦める。
「――あれで“静謐の王子”とは、聞いて呆れるな。」
隣のセラフィナは楽しそうに微笑み、扇で口元を隠した。
「まぁ。あれほど素直に甘えられては、平然としていられる殿方なんておりませんわ。」
「君は気楽に言う。」
「うちの方も、あれくらい真っ直ぐ想いを返してくださるなら嬉しいのだけれど?」
レオニスは危うく紅茶を吹きそうになり、咳払いで誤魔化した。
「……冗談はやめてくれ。」
周囲から小さな笑いが漏れる。
春の陽光の中、寄り添う二つの影は、ゆっくりとその先へ溶けていった。
寄り添う二つの影だけを残して。
【 次回予告 】
守るために、距離を置いた。
失わないために、手放そうとした。
――けれど。
「……好きなの」
その一言で、すべてが崩れる。
触れることを許された距離。
重なる鼓動。
もう戻れない想い。
そして、ようやく知る。
手放せない“本当の理由”。
次話、第63話「手放せない理由」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




