第65話 甘い帰路
春の夕刻。
カーテンの隙間からこぼれる橙の光が、ゆっくりと応接間を染めていく。
光の粒が舞い、イエレナの髪をひとすじずつ撫でて――
まるで祝福のように柔らかく輝いた。
セレストは彼女の頬に触れていた手をそっと離し、胸の奥から深い息を吐く。
「……ありがとう。話してくれて。」
その声音は優しく、しかし確固たる覚悟を秘めていた。
イエレナはこくりと頷くけれど、胸の奥のわだかまりはまだ完全にはほどけない。
沈黙が静かに落ちる。
窓の外では、鳥たちが帰巣の声を上げ、空は茜から紫へとゆっくり色を変えていく。
セレストはしばし思案するように静かに目を伏せ――
やがて深く息を吸い、まっすぐな瞳で言った。
「……帝国の動きは、こっちでも追ってるから安心して」
瑠璃の瞳に、冷たい光が宿る。
“王子”の顔が、静かに戻ってきた。
その変化を感じたイエレナは、ほんの少し胸がきゅっとする。
もう少しだけ――
このぬくもりの中にいたかった。
そんな思いを飲み込み、そっとまぶたを伏せた。
そのとき。
コン、コン。
扉の外から控えめなノック音が響いた。
「――殿下。」
落ち着いたギウンの声。
いつもの軽口を抑え、どこか気遣う雰囲気が滲んでいる。
「そろそろお帰りの支度を。」
セレストは静かに息を吸い、ほんの一瞬だけ思考の海に沈む。
だが――イエレナの表情を見た瞬間、ふっと穏やかに微笑んだ。
「……そうだね。」
彼はゆっくり立ち上がり、隣にいるイエレナへそっと手を差し向ける。
「イェナ、帰ろうか。」
イエレナはふっと目を瞬かせ――
やがて、花が綻ぶような柔らかな笑みを浮かべた。
「……うん。」
夕暮れの黄金が夜の群青へ溶けていく廊下を、二人は肩を並べて歩き出した。
長く伸びた影もまた、寄り添うように並んでいる。
そのとき。
軽やかな足音が近づき、廊下の空気がぱっと明るくなる。
「――ああ、いたいた。ちょうど探してたんだよ。」
振り向いた先にはラファエル。
夕光を受けて、黄金の髪が神話のように輝く。
その後ろには、レオニスとセラフィナが並んでいた。
「今日は完全に君たちが注目の的だったね!」
ラファエルが愉快そうに笑う。
「熱い抱擁も見れたことだし、仲直りできたようで何よりだよ。」
「……えっ」
イエレナは一瞬で固まった。
耳まで真っ赤になり、小動物のように目をぱちぱちさせる。
ラファエルは追撃するように続ける。
「朝の二人を見たときは、 婚約を白紙にされるかと思って、冷や冷やしたよ。」
楽し気に笑うラファエルに、セレストが小さくため息をつく。
「……兄上、からかうために来られたのですか?」
「からかうだなんて失礼な。弟の“熱愛”を祝福しに来たのさ。」
ラファエルの悪戯っぽい笑みに、後ろのレオニスが静かにぼそっと制した。
「……ラファエル、そんな話をしに来たんじゃないだろう。」
「はいはい、真面目な弟たちには僕なりの兄弟コミュニケーションが刺さらないらしい。」
ラファエルは手をひらひらと振ってから、セレストに軽く顎を向けた。
「まぁ今日は疲れただろうし、休むといい。だが明日も登城してくれ。
呼ばれる理由はわかってるだろうから――敢えて言わないけど、すっぽかさないでね?」
セレストはためらいなく頷く。
「……承知しました。」
レオニスも静かに続ける。
「それと、書類の件で少し話がある。少しで済む。」
「はい。」
セレストが頷くと、レオニスは彼を廊下の奥へ促した。
その間、セラフィナが微笑を浮かべてイエレナへと歩み寄る。
「先ほどはご挨拶だけでしたわね。」
柔らかな微笑みとともに、優雅に首を傾げる。
「……それにしても、“あの抱擁”。私も見ていましたのよ。」
「っ!?」
イエレナは肩を震わせ、頬が一気に燃えるように熱くなる。
「お、お恥ずかしいところを……っ」
必死で頭を下げる彼女に、セラフィナはくすりと笑った。
「まぁ、あれくらい初々しい方が可愛らしいですわ。今度お茶会を開くので、ぜひ参加して?――恋のお話をしましょう。」
「え、ええっ……!」
イエレナは真っ赤になって言葉を失う。その様子にレオニスが静かに咳ばらい。
「……セラ、イエレナ嬢をからかうな。」
「まぁ失礼ね、レオ。こんな可愛らしい親戚ができたのよ? 歓迎くらいさせてちょうだい。」
セラフィナは扇を閉じてにっこり。
そしてセレストに向き直り――
「――お茶会の招待を勝手に断ったら許しませんからね?」
「……心得ておきます。」
肩を落としたセレストに、ラファエルの笑い声が明るく響いた。
その軽やかな空気に、イエレナも自然と微笑む。
つい数時間前まで胸を締めつけていた不安が、春雪のように静かに溶け落ちていく。
◇ ◇ ◇
馬車がゆっくりと動き出すと、窓の外には夜の王都の灯が、にじむ光の川のように流れた。
車内のランプがやわらかい金色を落とし、イエレナの横顔をそっと照らしだす。
「……殿下たちにまで見られてたなんて……」
両手で頬を覆い、耳まで真っ赤に染まる。その姿に、セレストは堪えきれず小さく笑った。
「そんなに気にすることないよ。誰も悪く言ったりしない。むしろ、微笑ましかったってさ。」
「ほ、微笑ましいって……っ、もう……」
イエレナはさらに俯き、声が細くなる。
そのかすかな仕草ひとつひとつが愛しくて、セレストはそっと身を寄せた。
耳元に、唇が触れそうな距離で――
「……いつでも、甘えていいよ。」
耳元へ落とされた声は低く、それでいてどこまでも優しい。
触れそうなほど近くで吐息がかすめ、イエレナの肩がぴくりと揺れた。
「……そんなこと言われたら、余計に難しいよ……」
俯いたまま零れた声は、今にも消えてしまいそうなほど小さい。けれど、その呟きはセレストの耳にしっかりと届いていた。
照れたように視線を伏せる姿がたまらなく愛おしくて、思わず口元が緩む。そうして次の瞬間には、自然と腕がイエレナの腰へ伸びていた。
「――えっ、せ、セス……!?」
ふわりと身体が浮き上がる。
驚いてセレストの肩へ手をついたときには、もう遅い。そのまま横向きに抱き寄せられ、気づけばイエレナは彼の膝の上へすっぽりと収まっていた。
突然近くなった距離に目を丸くするイエレナとは対照的に、セレストはどこか満足そうに目を細める。
「……これなら甘えやすい?」
「そういう意味じゃないよ……!」
慌てて言い返せば、くすりと楽しそうな笑い声が返ってきた。
「ふふ。遠慮しなくていいと思うと、つい構いたくなってしまうね」
「もう……」
恥ずかしさに耐えきれず胸元へ顔を伏せると、背中へ回された腕が優しく身体を引き寄せる。
冗談めかした声音とは裏腹に、その抱き方は驚くほど大切そうだった。
今までは、触れたいと思っても手を伸ばせなかった。
抱きしめたいと思っても、それが彼女を縛ることになるのではないかと躊躇っていた。
けれど、もう遠慮しなくていい。
イエレナも自分と同じ未来を望んでくれているのだと、ようやく知ることができたから。
「今日は、本当にお疲れ様」
囁きながら頬へ触れると、胸元に隠れていたイエレナがそっと顔を上げる。
視線が重なった。
ほんの少し前なら、それだけで互いに戸惑っていたはずなのに――今はもう、そこに迷いはない。
セレストは愛おしそうに目を細め、そのままゆっくりと顔を寄せた。
唇が、柔らかく重なる。
一度触れて離れたあと、もう一度。
今度は少しだけ角度を変え、確かめるように優しく口づける。
(……あ……)
胸の奥へ甘い熱がじんわりと広がり、イエレナは無意識にセレストの服をきゅっと掴んだ。
もう一度触れた唇が離れるころには、頬まで熱くなっていた。どうしていいのか分からず視線を伏せたまま、ただ彼の名前を呼ぶ。
「……セス……」
かすかに震えた声に、セレストが少しだけ眉を下げた。
「……嫌だった?」
心配そうに覗き込まれ、イエレナは慌てて首を横に振る。
嫌だったわけではない。むしろ、その逆で――離れてしまったことが少しだけ寂しいと思ってしまったくらいだった。
けれど、そんなことを言葉にする勇気はなくて、代わりにそっと腕をセレストの首へ回すとそのまま肩口へ顔を埋めた。
その仕草だけで伝わったのだろう。
背中へ回された腕が優しく身体を抱き寄せ、あやすようにゆっくりと撫でてくれる。
小さな身体がぴたりと重なれば、すぐそばでセレストの穏やかな呼吸が聞こえた。
服越しに伝わってくる体温も、肩口からふわりと漂う馴染んだ香りも、今までよりずっと近い。それがどうしようもなく心地よくて、イエレナは目を閉じたまま、ぽつりと呟いた。
「……セスの匂い、好き」
あまりにも自然に零れた言葉だった。
言ってから恥ずかしくなるより先に、背中を撫でていたセレストの手がぴたりと止まる。
「……イェナは時々、大胆なことを言うよね」
「……え?」
何のことか分からず、肩口に頬を寄せたまま顔を上げる。
きょとんと瞬く、ペリドットのような新緑色の瞳。そのあまりにも無垢な眼差しを見つめ、セレストはしばらく黙ったあと、堪えきれないように小さく笑った。
「ふふ……無自覚か。困ったね」
「……?」
困るようなことを言っただろうか。
不安になって眉を下げると、イエレナはセレストの首へ回していた腕をほんの少し緩めた。
「……嫌だった?」
「まさか」
答えは、思ったよりも早く返ってきた。
離れかけた身体を逃がさないように、背中へ回された腕がそっと引き寄せる。
「嫌じゃないよ。ただ……」
そこで言葉を切ると、セレストは何かを考えるように目を細めた。
「僕の真価が問われるだけだね」
「……???」
ますます意味が分からない。
首を傾げるイエレナを見て、セレストはとうとう声を立てずに笑った。
「分からなくていいよ」
そう言いながら、宥めるように髪をひと撫でする。
「今は、まだね」
「……?」
やっぱり意味は分からない。けれど、耳元へ落ちる声がいつもより少し低いことも、背中を抱く腕に先ほどよりほんの少しだけ力がこもったことも分かってしまって、理由も分からないまま頬が熱くなる。
それでも離れたいとは思わなかった。
イエレナはもう一度セレストの肩口へ頬を寄せ、そっと目を閉じる。
服越しに伝わる体温も、耳を澄ませば聞こえてくる穏やかな鼓動も心地いい。彼の腕の中は春の陽だまりのように温かくて、このまま溶けてしまいそうだった。
馬車は静かに王都の石畳を走っていく。
規則正しく響く車輪の音と、身体を預けた胸元から伝わってくる鼓動。その二つに耳を傾けているうちに、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきたのだろう。いつしか、首へ回されていたイエレナの腕から力が抜けていく。
「……イェナ?」
返事はなかった。
視線を落とせば、新緑色の瞳はすっかり閉じられ、長い睫毛が頬へ淡い影を落としている。胸元へ頬を寄せたまま規則正しい寝息を立てる姿に、セレストは一瞬目を瞬かせ、それから困ったように口元を緩めた。
「……寝ちゃったね」
起こさないよう声を潜め、ずり落ちそうになった身体をそっと抱き直す。
つい先ほどまで頬を赤らめていたというのに、眠ってしまえば驚くほど無防備だ。自分の腕の中でこれほど安心しきってくれていることが嬉しくて、セレストは愛おしむように背中をゆっくりと撫でた。
小さなランプが馬車の揺れに合わせてゆらゆらと揺れ、淡い光が寄り添う二人の影を重ねている。
――そのときだった。
ふ、と。
腕の中で眠るイエレナから、ほんのわずかに魔力の気配が揺れた。
「……?」
背中を撫でていたセレストの手が止まる。
瑠璃色の瞳を細め、腕の中の少女へ意識を向けたものの、感じたものはあまりにも微かだった。水面を風が掠めたような、ほんの一瞬の揺らぎ。気のせいだと言われれば、そう思えてしまうほどのものだった。
けれど――。
(……今のは、祝福……?)
セレストは眠るイエレナを見つめる。
苦しそうな様子はない。呼吸も穏やかで、先ほど感じた気配も、すでに何事もなかったように静まり返っている。
それでも、胸の片隅に小さな引っ掛かりが残った。
帝国がアストレアに何かを仕掛けようとしていること。それを止めようとしているというテオドールの存在。
彼の管理下に置かれている、旧フェルディナの領土。
そして――遺体が見つかっていないという、アズベルトのこと。
今日だけで、あまりにも多くのことが動いた。
ようやく互いの気持ちを確かめ合えたというのに、取り巻く状況まで穏やかになってくれるわけではないらしい。
セレストは小さく息を吐いた。
「……なかなか、穏やかにはいかないね」
呆れたような、それでいてどこか諦めにも似た微笑が浮かぶ。けれど、その腕がイエレナを抱く力だけは少しも緩まなかった。
今はまだ、何も分からない。
ならば一つずつ確かめればいい。
帝国のことも、テオドールの真意も、アズベルトのことも――そして、今感じたわずかな祝福の揺らぎも。
腕の中では、そんな彼の思考など知らないイエレナが穏やかな寝息を立てている。
セレストはその寝顔をしばらく見つめると、張り詰めていた表情をふっと緩めた。
「……おやすみ、イェナ」
額へ、触れるだけの口づけを落とす。
イエレナは目を覚ますことなく、心地よさそうに彼の胸元へ頬を寄せた。その小さな仕草にセレストの目元が柔らかくほどけ、再び背中をゆっくりと撫で始める。
馬車は二人を乗せたまま、夜の王都を静かに進み、窓の外では、王都の灯りがひとつ、またひとつと遠ざかっていく。
先ほど感じたわずかな揺らぎは気にかかったままだったけれど、腕の中の寝息はどこまでも穏やかだった。
セレストはもう一度だけイエレナの髪を撫で、そっと目を細める。
今は、この温もりを守るように。
馬車は二人を乗せ、静かな夜道を帰る場所へと走り続けていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第65話をもちまして、第二章は完結となります。
イエレナとセレストの関係も少しずつ変わり、物語も新たな局面へ。
第三章では、“祝福”をめぐる物語が大きく動き始めます。
引き続き、二人の物語を楽しんでいただけましたら嬉しいです。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
【 次回予告 】
白い世界で、名を呼ぶ声。
――待っているよ。
知らないはずなのに、どこか懐かしいその響き。
目覚めれば、いつもと変わらない穏やかな朝。
少しだけ遠慮をなくした彼との、甘い日常。
けれど――
彼女の奥深くで、“光”は静かに目覚め始めていた。
次話、第三章「光のうねり〜祝福の胎動〜」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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