第58話 帝国の来訪者
イエレナが涙を零したあの日から、数日が過ぎた。
叙任式を控えた王都は、春の訪れとともに華やいでいる。
城下では花屋の店先に色鮮やかな花々が並び、人々の笑い声が通りを賑わせていた。
窓を開ければ、甘い花の香りを乗せた風がやさしく頬を撫でていく。
けれど――
どれだけ陽光が降り注いでも、胸の奥の曇りだけは晴れなかった。
あの日の言葉も、溢れてしまった涙も、振り払った手の感触さえ、まだ鮮明に残っている。
まるで小さな棘が刺さったままになっているように、思い出すたび胸の奥がちくりと痛んだ。
あれからセレストとは、まともに話せていない。
いや――正確には、話せないのだ。
顔を合わせれば、彼は今までと何一つ変わらなかった。
穏やかに微笑み、優しい声で名前を呼び、何事もなかったかのように隣へ立つ。
その姿はあまりにも自然で、あの日の出来事など最初からなかったようにさえ見えた。
けれど、だからこそ苦しかった。
変わらないはずなのに、以前よりずっと遠く感じる。
手の届く場所にいるのに、心だけが静かに閉ざされてしまったみたいだった。
あと一歩。
たったそれだけが踏み出せない。
何もなかったように笑うセレストを見るたび、胸の奥がきゅっと縮こまる。
……こんなはずじゃなかったのに。
ふと、ラファエルの顔が脳裏をよぎった。
伴侶の話をされたあの日。
『そうか。良かった』
そう言って微笑んだ第一王子の表情は、どこか愉快そうで――それ以上に、弟を見守る兄の優しさに満ちていた。
まるで何もかも分かったうえで、それでも祝福してくれているような笑顔だった。
(……顔向けできないな)
小さく息を吐く。
テーブルの上の紅茶が揺れ、陽射しを受けて琥珀色にきらめいた。
その光が、不意にあの日の午後を思い出させる。
向かい合って座った時間。
胸が苦しくなるほど高鳴った鼓動。
そして、泣いてしまった自分。
窓の外では春の陽光がやわらかく揺れていた。
同じ景色のはずなのに、あの日とは少し違って見える。
(叙任式まで、もうすぐなのに……)
心だけが取り残されたまま。
そんな想いを乗せるように、窓辺を抜けた風が静かに髪を揺らした。
――けれど、穏やかな朝は、唐突に終わりを告げる。
王都の空気を震わせるように、鋭い角笛の音が遠くから響いた。
低く、長く、城門の方角から広がったその音は、波紋のように王都全体へ伝わっていく。
イエレナが顔を上げる。
窓の向こう、春霞のかかる空の下で異国の旗が風を受けて翻っていた。
深紅と黒。
威厳と力を示す紋章旗。
――グランツェル帝国。
使節団が、王都へ到着したのだ。
整然と進む騎馬の列。その中央に、ひときわ目を引く一人の青年がいた。
深いボルドーの髪が風に揺れ、黄金の瞳が鋭く光を映す。
褐色の肌を包む黒衣には、帝国の紋章が静かに刻まれていた。
グランツェル帝国第三王子、テオドール・グランツェル。
雷を従える若き将。
そして――
イエレナの知らない場所で、止まっていたはずの運命が、再び静かに動き始めていた。
◇ ◇ ◇
王城に隣接する迎賓館。
その一室で、テオドールは静かに身支度を整えていた。
いまや彼は、帝国で“最も変革をもたらす統率者”と呼ばれる男である。
だが、その金の瞳に宿るのは、勝者の光ではなかった。
深く沈んだ色――
遠い記憶に、いまも手を伸ばし続ける者の光。
支度を終えたテオドールは、机上に置かれた一枚の報告書へと手を伸ばす。
羊皮紙を掴む指先がわずかに強張り、淡い朝の光が紙面の文字を照らし出した。
『フェルディナ王族、全員死亡。遺体確認済み。』
視線が、その一文をゆっくりとなぞる。
指先に力が入り、紙の端に小さな皺が寄った。
長い沈黙ののち、彼は低く息を吐く。
怒りでも、悲嘆でもない。
あまりに長く抱え続けた痛みが、ようやく呼吸の形を取ったような――そんな吐息だった。
「……遺体がねぇのに、ふざけやがって。」
紙の端を弾く。
報告書がかすかに揺れ、乾いた音が小さな部屋に鋭く響いた。
あれから――いくつもの季節が過ぎようとしている。
戦が終わり、皇帝から「フェルディナの姫は死んだ」と告げられたあの日。
王族の遺体の中に、あいつの姿はなかった。
くまなく探した。
あいつがいる場所なら、俺が一番よく知っている。
だが、遺体も痕跡も見つからなかった。
むしろ皇帝は私衛兵を密かに動かし、フェルディナとの国境沿いを今も入念に探させている。
(皇帝は何か隠してる。)
金の瞳が細められる。
(……生きてるんだろう。どこかで。)
瞳の奥が、わずかに熱を帯びた。
その瞬間、胸の奥にこびりついた記憶がふと息を吹き返す。
『テオドールっ!』
あの明るい声が、耳の奥で蘇った。
春の光の下で笑っていた少女。
名前を呼ぶたび、嬉しそうに振り返る声。
風に揺れる淡い髪。
陽だまりみたいな瞳。
彼の世界に、初めて“色”をくれた存在。
――フェルディナの姫、イエレナ。
今もその名を思えば、胸の奥がかすかに痛み、そして温かく滲む。
コンコン、と扉を叩く音が思考を断ち切った。
副官が入室し、恭しく一礼する。
「殿下。叙任式の開会は三日後とのこと。 参加国の代表者が次々に王都入りしております。」
「……そうか。」
副官がもう一枚の報告書を差し出した。
「それと――辺境で、少々気になる報せがございます。」
「報せ?」
「はい。国境沿いの集落にて、作物が異常に実り、“傷を癒す娘”の噂が囁かれているとのこと。
村人は“聖女”と呼んでいるようです。真偽は定かではありませんが、軍の調査官が報告に上がっています。」
「……聖女、ね。」
短く息を吐く。
だが、報告書に記された地名を見た瞬間、金の瞳の奥に、鋭い光が走った。
(……フェルディナとの国境沿いか。)
偶然のはずがない。
あまりにも出来すぎた場所だった。
(もしそれが、お前だったら。)
指先で机をトントンと叩く。
思考は冷静なままなのに、胸の奥だけが妙に騒がしい。
「……出席の準備を進めろ。それと午後は視察で王都に出る。」
「はっ。」
副官が一礼し、静かに部屋を出ていく。
再び静寂が戻る。
風がカーテンを揺らし、春の光が室内を満たした。
(ようやく……辿り着けるのかもしれねぇ。)
テオドールはゆっくりと立ち上がる。
深紅の髪が光を受け、金の瞳にわずかな熱が宿る。
それは戦場の熱ではなかった。
長いあいだ閉じ込めていた希望が、ようやく息を吹き返したような光だった。
「――嵐の前に、静寂を見ておくとしよう。」
誰に言うでもなく、低く呟く。
その声は――
長い戦の果てにようやく、“希望”という音を取り戻した男の声だった。
【 次回予告 】
春の光に整えられた朝。
亡国の姫は、ついに“婚約者”として公の場へ立つ。
呼応する青い光。
重なる指先。
それでも胸に残る、まだ埋まらない距離。
王家の威光が満ちるその場所で――
彼女は初めて、“アストレアの光”の中へ踏み出す。
次話、第59話「藍の誓い」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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