表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

67/75

第58話 帝国の来訪者


イエレナが涙を零したあの日から、数日が過ぎた。


叙任式を控えた王都は、春の訪れとともに華やいでいる。


城下では花屋の店先に色鮮やかな花々が並び、人々の笑い声が通りを賑わせていた。

窓を開ければ、甘い花の香りを乗せた風がやさしく頬を撫でていく。


けれど――

どれだけ陽光が降り注いでも、胸の奥の曇りだけは晴れなかった。


あの日の言葉も、溢れてしまった涙も、振り払った手の感触さえ、まだ鮮明に残っている。

まるで小さな棘が刺さったままになっているように、思い出すたび胸の奥がちくりと痛んだ。


あれからセレストとは、まともに話せていない。


いや――正確には、話せないのだ。


顔を合わせれば、彼は今までと何一つ変わらなかった。

穏やかに微笑み、優しい声で名前を呼び、何事もなかったかのように隣へ立つ。


その姿はあまりにも自然で、あの日の出来事など最初からなかったようにさえ見えた。


けれど、だからこそ苦しかった。

変わらないはずなのに、以前よりずっと遠く感じる。


手の届く場所にいるのに、心だけが静かに閉ざされてしまったみたいだった。


あと一歩。


たったそれだけが踏み出せない。

何もなかったように笑うセレストを見るたび、胸の奥がきゅっと縮こまる。


……こんなはずじゃなかったのに。


ふと、ラファエルの顔が脳裏をよぎった。


伴侶の話をされたあの日。


『そうか。良かった』


そう言って微笑んだ第一王子の表情は、どこか愉快そうで――それ以上に、弟を見守る兄の優しさに満ちていた。

まるで何もかも分かったうえで、それでも祝福してくれているような笑顔だった。


(……顔向けできないな)


小さく息を吐く。

テーブルの上の紅茶が揺れ、陽射しを受けて琥珀色にきらめいた。


その光が、不意にあの日の午後を思い出させる。


向かい合って座った時間。

胸が苦しくなるほど高鳴った鼓動。

そして、泣いてしまった自分。


窓の外では春の陽光がやわらかく揺れていた。

同じ景色のはずなのに、あの日とは少し違って見える。


(叙任式まで、もうすぐなのに……)


心だけが取り残されたまま。

そんな想いを乗せるように、窓辺を抜けた風が静かに髪を揺らした。


――けれど、穏やかな朝は、唐突に終わりを告げる。


王都の空気を震わせるように、鋭い角笛の音が遠くから響いた。

低く、長く、城門の方角から広がったその音は、波紋のように王都全体へ伝わっていく。


イエレナが顔を上げる。


窓の向こう、春霞のかかる空の下で異国の旗が風を受けて翻っていた。


深紅と黒。

威厳と力を示す紋章旗。


――グランツェル帝国。


使節団が、王都へ到着したのだ。


整然と進む騎馬の列。その中央に、ひときわ目を引く一人の青年がいた。


深いボルドーの髪が風に揺れ、黄金の瞳が鋭く光を映す。

褐色の肌を包む黒衣には、帝国の紋章が静かに刻まれていた。


グランツェル帝国第三王子、テオドール・グランツェル。


雷を従える若き将。


そして――

イエレナの知らない場所で、止まっていたはずの運命が、再び静かに動き始めていた。



◇ ◇ ◇



王城に隣接する迎賓館。

その一室で、テオドールは静かに身支度を整えていた。


いまや彼は、帝国で“最も変革をもたらす統率者”と呼ばれる男である。


だが、その金の瞳に宿るのは、勝者の光ではなかった。


深く沈んだ色――

遠い記憶に、いまも手を伸ばし続ける者の光。


支度を終えたテオドールは、机上に置かれた一枚の報告書へと手を伸ばす。

羊皮紙を掴む指先がわずかに強張り、淡い朝の光が紙面の文字を照らし出した。


『フェルディナ王族、全員死亡。遺体確認済み。』


視線が、その一文をゆっくりとなぞる。

指先に力が入り、紙の端に小さな皺が寄った。


長い沈黙ののち、彼は低く息を吐く。


怒りでも、悲嘆でもない。

あまりに長く抱え続けた痛みが、ようやく呼吸の形を取ったような――そんな吐息だった。


「……遺体がねぇのに、ふざけやがって。」


紙の端を弾く。

報告書がかすかに揺れ、乾いた音が小さな部屋に鋭く響いた。


あれから――いくつもの季節が過ぎようとしている。


戦が終わり、皇帝から「フェルディナの姫は死んだ」と告げられたあの日。


王族の遺体の中に、あいつの姿はなかった。


くまなく探した。

あいつがいる場所なら、俺が一番よく知っている。


だが、遺体も痕跡も見つからなかった。


むしろ皇帝は私衛兵を密かに動かし、フェルディナとの国境沿いを今も入念に探させている。


(皇帝は何か隠してる。)


金の瞳が細められる。


(……生きてるんだろう。どこかで。)


瞳の奥が、わずかに熱を帯びた。

その瞬間、胸の奥にこびりついた記憶がふと息を吹き返す。


『テオドールっ!』


あの明るい声が、耳の奥で蘇った。


春の光の下で笑っていた少女。


名前を呼ぶたび、嬉しそうに振り返る声。


風に揺れる淡い髪。


陽だまりみたいな瞳。


彼の世界に、初めて“色”をくれた存在。


――フェルディナの姫、イエレナ。


今もその名を思えば、胸の奥がかすかに痛み、そして温かく滲む。


コンコン、と扉を叩く音が思考を断ち切った。


副官が入室し、恭しく一礼する。


「殿下。叙任式の開会は三日後とのこと。 参加国の代表者が次々に王都入りしております。」


「……そうか。」


副官がもう一枚の報告書を差し出した。


「それと――辺境で、少々気になる報せがございます。」


「報せ?」


「はい。国境沿いの集落にて、作物が異常に実り、“傷を癒す娘”の噂が囁かれているとのこと。

 村人は“聖女”と呼んでいるようです。真偽は定かではありませんが、軍の調査官が報告に上がっています。」


「……聖女、ね。」


短く息を吐く。

だが、報告書に記された地名を見た瞬間、金の瞳の奥に、鋭い光が走った。


(……フェルディナとの国境沿いか。)


偶然のはずがない。

あまりにも出来すぎた場所だった。


(もしそれが、お前だったら。)


指先で机をトントンと叩く。

思考は冷静なままなのに、胸の奥だけが妙に騒がしい。


「……出席の準備を進めろ。それと午後は視察で王都に出る。」


「はっ。」


副官が一礼し、静かに部屋を出ていく。


再び静寂が戻る。

風がカーテンを揺らし、春の光が室内を満たした。


(ようやく……辿り着けるのかもしれねぇ。)


テオドールはゆっくりと立ち上がる。


深紅の髪が光を受け、金の瞳にわずかな熱が宿る。

それは戦場の熱ではなかった。


長いあいだ閉じ込めていた希望が、ようやく息を吹き返したような光だった。


「――嵐の前に、静寂を見ておくとしよう。」


誰に言うでもなく、低く呟く。


その声は――

長い戦の果てにようやく、“希望”という音を取り戻した男の声だった。



【 次回予告 】


春の光に整えられた朝。

亡国の姫は、ついに“婚約者”として公の場へ立つ。


呼応する青い光。

重なる指先。

それでも胸に残る、まだ埋まらない距離。


王家の威光が満ちるその場所で――

彼女は初めて、“アストレアの光”の中へ踏み出す。


次話、第59話「藍の誓い」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ