第59話 藍の誓い
叙任式――当日の朝。
窓から差し込む陽光が、淡く金の粒となって揺らめきながら舞い落ち、部屋の空気を静かに満たしていた。
まるでこの日を祝福するかのように、やわらかな光が床や壁をなぞっていく。
イエレナは鏡の前に立ち、アンネとレーネが整えてくれた姿を、しばらく黙って見つめていた。
瑠璃と白を基調としたドレス――
深い青はセレストの瞳を思わせ、重ねられた純白の布は、彼の静謐な気配そのもののようだった。
裾に縫い取られた金糸の蝶は、光を受けるたびに今にも羽ばたきそうに揺れ、胸元に飾られた宝石はアストレア王家から贈られた証として静かに輝いている。
髪はレーネが丁寧に編み込み、アンネが選んだ香草の香りがほのかに揺れた。
衣装も、香りも、髪も――すべてが整えられている。
なのに鏡の中に立つ自分は、どこか現実から切り離されたように見えた。
まるで――舞台の上に立たされた、知らない誰かのように。
「……本当に、きれいです。」
背後でアンネが息をのむように呟く。
レーネも静かに頷き、誇らしげな視線を向けていた。
「イエレナ様、緊張してますね。」
「……少しだけ。」
微笑んだつもりだった。
けれど胸の奥のざわめきは、隠しきれなかった。
セレストとは――あの日以来、どこかぎこちないままだ。
彼はいつも通り穏やかに微笑み、変わらぬ声で名を呼び、変わらぬ距離で隣に立ってくれる。
それでも、その優しさの奥に触れてはいけない境界があるような気がしていた。
かつては迷いなく触れてくれた手も、そっと寄せられた肩の温度も、今はどこか控えられているように感じられるのだ。
壊れものに触れるような、慎重すぎる優しさが、かえって胸を締めつけた。
イエレナは鏡の中の自分を、もう一度まっすぐ見つめる。
(……距離を置かれても、立ち止まっていられない。)
今日、自分は――
アストレア王国第五王子セレストの“婚約者”として、公の場に立つ。
彼の隣に立つと決めたなら、決して恥をかかせるような姿は見せられない。
どれほど胸が痛んでも。
どれほど心が揺れていても。
恋の迷いで足を止めるわけにはいかなかった。
(ちゃんとしなきゃ――公務は公務。それが今の私の役目。)
胸の奥に沈んだ痛みを、そっと押し込める。
イエレナは静かに背筋を伸ばした。
瞳に灯ったのは、揺らぎながらも消えない決意の光。
唇には、柔らかな微笑が浮かんでいた。
――そのとき。
鏡台の上で、小さな光が揺れた。
視線の先にあったのは、銀の細工が施された小さなペンダントだった。
蓋の内側では、淡い青の魔石が静かに脈を打っている。
光を受けるたび、水面のように揺らめき、まるで呼吸をしているかのようだった。
(……アズ。)
あの日――
フェルディナ国が穏やかな昼下がりを迎えていた頃。
襲撃など夢にも思わなかった、あの時間の中で。
兄は少し照れたように笑いながら「成人の祝いに」と言ってこれを渡してくれた。
護りと共鳴の術式。
家族の絆。
そして――兄の願い。
すべてが込められた世界でいちばん大切な贈り物は、王都へ来てからも肌身離さず身につけていた。
不安な夜も。
兄を思い出して泣いた日も、ひとりでは前を向けなかった日も――
その温もりだけが、確かに家族との繋がりを教えてくれたからだ。
イエレナはそっと目を伏せ、銀の蓋に指先を触れた。
淡い光がふわりとこぼれ、胸の奥のざわめきが、優しく撫でられるように静まっていく。
「……大丈夫。私は、私の選んだ道を歩くから。」
深く息を吸い込み、自分に言い聞かせるように紡いだ声はわずかに掠れていた。
けれどその瞳には、もう先ほどまでの迷いだけではない光が宿っている。
叙任式まで、あと数時間。
怖くないと言えば嘘になるけれど、それでも逃げたくはなかった。
そのとき、静かな部屋に控えめなノックの音が響く。
「イェナ、準備はできてる?」
扉の向こうから聞こえた聞き慣れた声に、胸の奥が小さく跳ねた。
「うん……今、行く。」
ゆっくりと目を閉じ、乱れそうになる心を静かに整えると、イエレナは小さく息を吐いて扉へ向かった。
――その瞬間、息が止まった。
扉の向こうに立っていたのは、王子として正装に身を包んだセレストだった。
朝の光をまとったその姿は、まるで彫刻のように静謐で美しく、肩までの銀髪はひとつに結われ、澄みきった瑠璃の瞳はいつもより深い色を宿している。
白と瑠璃を基調とした礼服は整った輪郭をいっそう際立たせ、穏やかな佇まいの奥に王族としての威厳を静かに纏わせていた。
そして――胸元で揺れるペンダント。
銀の蓋の内側に納められた淡い青の魔石が、朝の光を受けて静かに輝いている。
その瞬間、イエレナの胸元に下がる魔石が、まるで呼びかけに応えるように淡く瞬いた。
まるで、ふたつの光が重なり合うように脈を打ち、空気の奥で静かに共鳴するかのように。
視線を逸らせない。
ただそこに立っているだけなのに、どうしてこんなにも胸が苦しくなるのだろう。
時が止まってしまったみたいに、目を奪われる。
(……やっぱり、かっこいい……)
思わず零れそうになった本音を慌てて飲み込む。
熱を持った胸を押さえるように息を整えても、視線だけは勝手に彼を追いかけてしまった。
(ちがう、今は公務。ちゃんとしないと……!)
セレストはイエレナを見るなり、ふっと表情を和らげた。
その穏やかな微笑みに胸の奥が小さく揺れたが、イエレナはその感情を胸の奥へそっと押し込めるように、微笑み返した。
けれど胸の奥には、触れればまた痛みそうなほど生々しいままに、あの日の言葉がまだ残っていた。
セレストが静かに手を差し出す。
一瞬だけ視線がその手に落ちた。
あの日、振り払ってしまった手。
ほんのわずかな躊躇いのあと――イエレナはそっとその手に自分の指を重ねた。
指先が触れた瞬間、胸元のペンダントが淡く瞬く。
呼応するようにセレストのペンダントも光を帯び、二つの魔石が静かな脈動を刻んだ。
まるで互いの存在を確かめ合うように。
「行こうか、イェナ。」
「……はい。」
小さく頷くと、二人は並んで歩き出した。
扉の向こうでは、春の光がやさしく揺れていた。
◇ ◇ ◇
王城の奥――式典前の控え室。
大理石の床には金糸で織られた王家の紋章が走り、壁には歴代の王と精霊を描いた重厚なタペストリーが掛けられている。
焚かれた香の煙がゆるやかに揺れ、高窓から差し込む光は絹のように淡く広がり、部屋全体がまるで儀式そのものの“聖域”のようだった。
その場には――アストレア王家の王子たちが整列していた。
誰もが正装に身を包み、ただ立つだけで空気が張り詰める。
王家に連なる者だけが纏うことを許された、血の威厳と魔力の気配が、静かに満ちていた。
最前に立つのは第一王子・ラファエル。
陽光を受ければ淡く輝くアッシュブロンドの髪。
深い瑠璃の瞳には穏やかな光が宿り、白と金の礼装がその存在をひときわ神聖なものへと引き上げている。
彼はまるで――この場の中心に立つために生まれてきた、陽光そのものの化身のようだった。
その隣には、第二王子・レオニス。
青紫の長髪は静かに束ねられ、氷のような瞳が冷静に場を見渡している。
銀青の礼服は無駄なく研ぎ澄まされ、彼の知性と静かな権威を象徴するようだった。
その隣に立つ妻セラフィナが、薄いシルバーブルーのドレスで氷の光を思わせる柔らかさを添える。
少し後方――
炎の気配をまとう第三王子・ダリアス。
乱れ気味の漆黒の髪、鋭い金茶の瞳、深紅と黒を基調とした礼装。
右頬の傷跡が彼の“戦場の王子”としての生き様を物語る。
その隣では、婚約者のリアナが楽しげに声を弾ませていた。
日焼けした肌に栗赤の髪を三つ編みに束ねた彼女が笑うたび、金茶の瞳が陽光を弾く。
豪胆な王子の鋭い空気を自然と和らげられるのは、おそらく彼女だけだろう。
そして――壁際。
静かに佇む第四王子・アルベリク。
整えられた黒髪に、白衣に近い正装には金の縁取りが施されている。
細身の立ち姿は影のように静かで、深い闇を思わせる瞳が光を受けてわずかに揺れた。
まるで――知の深淵そのものが、人の姿を取ったようだった。
そして部屋の中央には、第五王子セレストの姿があった。
胸元で淡く揺れるペンダント。
その魔石はイエレナの胸元の宝石と同じ青を宿し、ふたつの光は呼応するように静かな脈動を刻んでいる。
そのぬくもりを胸に感じながら、イエレナはセレストとともに歩みを進めた。
――その瞬間。
王子たちの視線が、一斉に二人へ向けられる。
空気がわずかに張り詰めた。
王家が持つ血の威圧。
絶対王権を背負う者だけが纏う、冷たく眩しい光。
並び立つ王子たちを前にして、イエレナは思わず息を呑んだ。
(……すごい……)
こうして並ぶと、本当に別の世界の人たちみたいだ。
自分も王族の血を引いているはずなのに、彼らの前に立つとひどく小さな存在になったような気がして、胸の奥がきゅっと小さく縮こまる。
そのときだった。
隣に立つセレストの指先が、そっと寄せられる。
驚くほど視線な仕草で、触れるか触れないかの距離を埋めるように、静かに彼女の手を包み込んだ。
その温もりは確かで、強張っていた肩から少しずつ力が抜けていく。
気まずいままの今でも、彼の気遣いだけは変わらずやさしく向けられていた。
胸が締めつけられる。
嬉しいのに、こんなにも近いのに。
それでもまだ、手を伸ばした先に見えない壁がある気がした。
その痛みを振り払うように、イエレナは静かに背筋を伸ばす。
するとセレストが穏やかな声で口を開た。
「皆、揃っているんですね」
ラファエルが軽やかに微笑んだ。
「式典はもうすぐ始まる。――心の準備はできているかい?」
「ええ。」
セレストが短く答えると、ラファエルの瑠璃の瞳がわずかにイエレナへ向けられた。
「……そして君もだね。 ようこそ、イエレナ。――アストレアの光の下へ。」
その言葉に、胸の奥が小さく震えた。
(……私、本当に、ここにいるんだ)
亡国の姫だった自分が、こうして王家の人々の前に立っているという事実が、緊張と誇らしさが胸の奥で静かに混ざり合う。
緊張で指先は冷たいのに、不思議と逃げ出したいとは思わなかった。
その瞬間、胸元の青い魔石が淡く光を返した。
――まるで兄が、大丈夫だと背中を押してくれたように。
【 次回予告 】
王都の光の下、
亡国の姫は“婚約者”として立つ。
降り注ぐ無数の視線。
揺れる胸の奥。
それでも、彼女は前を向く。
けれど――
その先で待っていたのは、忘れられない金の瞳。
止まっていた運命が、
再び大きく動き出す。
次話、第60話「光の下で」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




