第57話 優しさの線引き
静かな午後だった。
叙任式の準備で慌ただしい日々が続くなか、ようやく訪れた束の間の休息。
レース越しの陽光がティールームへやわらかく差し込み、淹れたての紅茶の香りが静かに広がっている。
叙任式まで、あと少し。
彼女を――公の場へ立たせる。
それは、本来なら僕が一番避けたかったことだった。
この王都へ彼女を連れてきたのは、隠すためじゃない。光の下で生きられるようにするためだ。
……けれど。
光の下へ立つということは、同時にもう後戻りできないということでもある。
王家の名の隣に刻まれれば、“婚約者”という肩書きは否応なく彼女へついて回るだろう。
たとえ始まりが形式的なものであったとしても、それが彼女の未来を狭めるのなら、本当は避けたかった。
(……本当は、怖いんだ)
この手で、彼女の未来を決めてしまうことが。
だから今まで、あえて表舞台には立たせなかった。婚約という鎖の外側に、いつでも選び直せる自由を残しておきたかったから。
――そう思っていたはずなのに。
あの日、彼女の涙に触れた瞬間、その理屈はあっけなく意味を失った。
どれだけ自分へ言い聞かせても、もう手放せそうにない。
守りたい。幸せになってほしい。
それなのに、彼女の隣を譲りたくないと思ってしまう。
――矛盾している。
けれど、そのどちらも偽りのない本音だった。
ゆっくりと目を閉じる。
紅茶の香りを吸い込んでも、胸の奥のざわめきは少しも鎮まらない。
指先には、まだあの日の温もりが残っている気がした。
思い出すだけで、心が静かに揺れる。
そのときだった。
すぐ隣のソファがわずかに沈み、小さな気配が落ちる。
「セス、私も一緒に読書していい?」
柔らかな声に目を開く。
「……ん、どうぞ」
顔を上げると、いつの間にかイエレナが隣へ腰を下ろしていた。
ひとり掛けではなく、二人掛けの長椅子。
以前なら何も思わなかったはずの距離だ。けれど今は、肩越しにふわりと花の香りが届くだけで意識してしまう。
イエレナはそんなことに気づく様子もなく、懐から一冊の本を取り出した。
膝の上へ置かれた本の表紙が、午後の陽光を受けてきらりと光る。
その金文字が視界に入った瞬間、セレストは静かに瞬きをした。
《王族のための夜伽之書・上巻》
――……。
思わず目を閉じる。
見間違いかと思った。だがもう一度見ても、やはり夜伽之書だった。
「イェナ、それを読むの?」
「うん。読む時間なかったから……今のうちに。」
無邪気な笑顔とともに本が開かれる。
本人は完全に学問書のつもりなのだろう。
真剣な眼差しでページを追う横顔に、セレストは小さく息を吐いた。
「……そう。真面目だね。」
そう答えながらも、胸中はまったく穏やかではなかった。
手元の書を開き、静かにページをめくる。
視線は文字を追っているのに――意識の半分は、隣から聞こえるかすかな紙の音に引き寄せられていた。
――しばらくして。
ぴたり、と音が止まる。
違和感に視線を上げると、イエレナがあるページを開いたまま固まっていた。
「……イェナ?」
「…………っ……」
返事はない。
肩が小刻みに震えている。
耳の先まで赤く染まり、呼吸まで浅くなっていた。
セレストが身を乗り出して覗き込むと、涙目になったイエレナが顔を上げる。
その視線の意味を察して、彼は小さく息を吐いた。
そして、視線を本へ落とす。
挿絵には――
男女が抱き合う姿と、その接合部の構造が丁寧に描かれていた。
細かな解説文まで添えられている。
「……あぁ、なるほど。」
穏やかな声音で呟いた瞬間、イエレナの顔がさらに真っ赤に染まる。
「~~っ……!」
小さな悲鳴とともに、本をばたんと閉じて胸に抱きしめた。
「っ、ち、ちがっ……! いえ、あの、これは……っ!」
そっと頬に触れようとして手を伸ばす。
けれど――
イエレナはびくっと身体を震わせ、一歩だけ身を引いた。
その反応に、セレストの手が空中で止まる。
ほんの一瞬の沈黙。
だが次の瞬間、彼はわずかに目を細め、
彼女を落ち着かせるように、もう一度ゆっくりと手を伸ばした。
「……大丈夫だから、落ち着いて」
穏やかな声とともに、指先がそっと頬に触れた。
壊れものに触れるような、あまりにも慎重な手つきだった。
その温もりに触れた瞬間――
張り詰めていた呼吸がわずかに揺れる。
「っ……こ、これ……本当に……?」
イエレナの声は震えていた。
潤んだ瞳が揺れ、わずかに開いた唇から息が漏れる。
セレストは小さく苦笑し、視線をそっと逸らす。
「……そうだね。」
ひと呼吸置いて、静かに続けた。
「子をなすためには――必要な過程かな。」
淡々とした声音だった。
その言葉に、イエレナの頬がさらに熱を帯びる。
「~~~っ……!」
両手で顔を覆っても、鼓動は少しも収まらない。
指先のあいだから漏れる熱が、自分でもどうしようもなかった。
セレストはその様子を見つめながら、静かに言葉を継ぐ。
「こういうことはね、誰かの“望み”でしていいものじゃない。」
声音は柔らかく、けれど揺るがない。
「イェナが――心からそうしたいと思えない限り、誰にも触れさせちゃいけない。」
わずかに間を置いてから、続ける。
「……もちろん、僕もだよ。」
その言葉に、イエレナの指先がぴくりと震えた。
セレストは気づかないふりをするように視線を落とす。
胸の奥では、別の言葉が暴れそうになっていた。
本当は違う。誰よりも触れたいと思っているのは、自分の方だ。
けれど――だからこそ。
「――だから、婚姻も同じだよ。イェナがいつか、本当に一緒にいたいと思える相手を見つけたなら――その人を選ぶべきだ。」
イエレナは黙ったまま彼を見つめていた。
その視線に気づきながら、セレストはあえて微笑む。
「イェナが選ぶ人だから、変な人はいないと思うけどね。」
柔らかな言葉だった。
けれどイエレナには、その笑みの奥にあるものがどうしても遠く感じられて、胸の奥が小さく軋んだ。
(……なんで……そんなこと、言うの)
鼓動が痛いほど鳴っていた。
掠れた息の奥で――
ふいに、誰かの声がよみがえる。
『……セレストは君の未来を縛らないようにしている。君がもし、本当に“添い遂げたい誰か”が現れたとき……自分が邪魔にならないように、ってね。』
――その言葉が、今になって胸の奥で重く響く。
セスの声が、少しずつ遠くなっていく気がした。
ああ。最近、距離があるように感じていたのは――やっぱり気のせいじゃなかったんだ。
まるで水の底へ沈んでいくみたいに、音も、色も、やさしい言葉さえも、ゆっくりと霞んでいく。
気づけば視界が滲んでいた。
「……せ、セスは……」
喉が震える。
声がうまく出ない。それでも、どうしても聞かなければいけない気がした。
聞かなければ、このまま取り返しのつかないところへ行ってしまう気がして。
「……私が、隣にいること……望んでないの?」
震える声だった。
その言葉に、セレストが息を呑む。
「……違う。そんなこと――」
けれど、もう止まれなかった。
胸の奥に押し込めていた不安が、一気に溢れ出してしまう。
「……迷惑だった? 守られてばかりいるから……?」
言葉がこぼれ落ちる。
「こんなことも知らない、世間知らずだから……?」
涙が滲み、視界が揺れる。
それでも、どうしても知りたかった。
「わたしは……セスの、婚約者じゃないの……?」
堰を切ったように言葉が溢れる。
止めたいのに止まらない。
苦しくて。怖くて。それでも、彼の本当の気持ちが知りたかった。
なのに――口から出るのは責めるような言葉ばかりだった。
「私はっ……セスの隣にいたいって言ったのに……叙任式だって、一緒に行くって決めたのに……」
胸が痛い。
どうしてこんなに苦しいのか、自分でも分からない。
ただひとつだけ分かるのは、彼に拒まれることが――怖かった。
「……あんな風に触れてきたくせに……」
震える唇から言葉が零れる。
「抱きしめて……キスして……優しくしてくれたくせに……なんで今さら、他の人を選べなんて言うの……!」
セレストの手が止まり、表情が揺れる。
けれどイエレナは止まれなかった。
「婚約者にしたのは、セスだよ……!」
涙で滲む視界の向こうにいる彼を、まっすぐ見つめる。
頬は熱く、胸は苦しくて。
大粒の涙がこぼれ落ち、止まらなかった。
それでも、この気持ちだけは嘘じゃない。
「私は――セスの隣にいたいって言ったのに……!」
声が震える。
けれど、その言葉だけは揺るがなかった。
「……なのに、なんでそんなこと言うの……」
最後の言葉は、ほとんど泣き声だった。
その瞬間。
頬へ触れようと伸びてきた手を、反射的に振り払う。
「っ……!」
イエレナはそのまま立ち上がった。
翻ったスカートが揺れ、逃げるように扉へ向かう。
「イェナ――!」
呼び止める声。
けれど振り返れなかった。
今振り返ったら、きっとまた泣いてしまう。
扉が閉まる。
残された部屋に、重い静寂が落ちた。
セレストは伸ばしかけた手を宙で止めたまま、ゆっくりと握りしめる。
指先には、まだ彼女の温もりが残っていた。
「……君を自由にしたかっただけなのに」
掠れた声が、紅茶の香りの中へ沈んでいく。
苦い笑みが浮かぶ。
「……どうして僕は、君を傷つける言い方しか出来ないんだろうね」
午後の陽射しだけが、何も知らない顔で揺れていた。
残されたのは――
彼女のいない隣の席と、もう触れられなくなった温もりだけだった。
◇ ◇ ◇
イエレナは自室へ戻ると、扉を閉め、そのまま背を預けた。
力が抜けたようにずるずると床へ座り込む。
震える指先を見つめながら、小さく唇を噛んだ。
「……どうして……」
ぽたり、と涙が落ちる。
セレストの優しさは分かっている。分かっているのに。
胸の奥が苦しくて、息がうまく吸えなかった。
「……好きなのに……」
かすれた声が零れる。
「……セスが、離れてっちゃう……」
その瞬間、堪えていた涙があふれた。
肩を震わせるイエレナのもとへ、淡い光がふわりと舞い降りる。
「イェナ……」
現れたリリュエルが、心配そうに肩へ寄り添った。
小さな手が髪に触れるけれど、胸の痛みは消えない。
イエレナは膝を抱え込み、静かに顔を埋めた。
午後の光だけが、泣きじゃくる少女と小さな精霊をやさしく照らしていた。
【 次回予告 】
触れられないままの距離。
交わせない言葉。
すれ違う想いを残したまま、
時だけが静かに進んでいく。
けれど――
王都に響いた角笛が、その停滞を打ち破る。
訪れるのは、帝国の使節団。
そして――ひとりの王子。
止まっていた運命が、再び動き出す。
次話、第58話「帝国の来訪者」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




