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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第56話 午後の微熱


静かな昼下がりだった。


叙任式を間近に控えた王都は、どこか浮き立った空気に包まれているというのに――

セレストの私邸だけは、外の喧騒とは別世界のように穏やかな静けさに満ちていた。


やわらかな陽光がレース越しに差し込み、

ティールームの空気を淡く染めている。


その光の中で、書きものに没頭するセレストの横顔だけが、

ひどく現実離れして美しかった。


整った指先が紙の上をなめらかに滑り、長い睫毛が静かな影を落とす。


肩から流れ落ちた銀白の髪が光を受けて揺れるたび、

胸の奥がじん、と熱を帯びた。


(……こんな光の中にいるセス、ずるいくらい綺麗)


知らないうちに呼吸が浅くなる。

胸が重くて、くすぐったくて、少しだけ苦しい。


ただ隣に座っているだけなのに。


ほんの少し体を傾ければ触れてしまう距離。

以前なら何とも思わなかったはずの近さが、今は妙に意識に引っかかる。


その数センチが、どうしようもなく遠い。


視線は自然とセレストへ向かう。


書類へ落ちる長い睫毛。

ペンを握る白い指先。

考え事をするとき、わずかに伏せられる瑠璃色の瞳。


何気ない仕草ばかりなのに、目が離せなかった。


ほんの少しだけ、こちらを見てほしい。


名前を呼んでほしい。


できるなら――もう少しだけ近くにいたい。


そんな気持ちが、胸の奥で静かに膨らんでいく。


自分でも気づかないうちに、視線を追いかけてしまうほどに。


そのとき。


セレストがふとペンを置き、小さく息を吐いた。


たったそれだけの仕草なのに――

イエレナの心臓は大きく跳ねた。


セレストの耳元へ流れた銀白の髪が、さらりと頬にかかる。

いつもなら気にも留めなかったはずなのに、その髪を見つめたまま視線が離せなくなった。


(……直した方が、いいのかな)


そんなことを思った瞬間、自分でも驚く。


ただ髪が乱れているだけだ。

それなのに――指先がむずりと落ち着かない。


そっと手を伸ばしかけた、そのとき。


「……イェナ?」


瑠璃の瞳がこちらを向いた。

不意に視線が重なり、心臓が大きく跳ねる。


「っ……!」


慌てて手を引っ込める。

胸の前でぎゅっと握りしめた指先は熱く、頬まで一気に火照っていくのがわかった。


セレストは不思議そうに目を細める。


「……どうかした?」


優しい声だった。

それだけなのに、胸の奥が苦しくなる。


「な、なんでも……ない……!」


誤魔化すように紅茶へ口をつける。

けれど揺れたカップが小さく音を立て、余計に落ち着かなくなった。


(……何してるの、私……)


恋を知らなかった頃は、こんなことなかった。

隣にいても平気だったし、触れられても自然に受け止められた。


なのに今は違う。


目が合うだけで胸が跳ねる。

声をかけられるだけで嬉しくなる。


そして――触れたい、と思ってしまう。


その気持ちに気づいた瞬間、イエレナは小さく息を呑んだ。


(……セスのこと、好きになっちゃったから……?)


胸の奥がじんわりと熱を帯び、嬉しいのに落ち着かない。

近くにいるのに、前より遠く感じる。


そんな矛盾した感覚に戸惑いながら、ふとあることを思い出した。


(……最近、セス……あんまり触れてこない気がする)


以前はもっと自然だった。


髪を整える指先も。

頬を包む手も。

すぐ近くで向けられる瑠璃の眼差しも。


あまりにも当たり前で、深く考えたことなんてなかった。

けれど今になって思い返すと、そのどれもが優しくて――胸の奥が少し痛む。


もう一度、あの温もりに触れたい。


そう思ってしまう自分に気づき、イエレナは視線を伏せた。


今は少しだけ遠い。


髪に触れる手も。

頬を包む指先も。


まるで以前より、一歩だけ距離を取られているみたいで。


(……セスが変わった……?)


胸がちくりと痛む。


けれど、すぐに首を振った。


違う。彼は何も変わっていない。

優しいまま、変わらず隣にいてくれる。


距離だって、本当は以前と同じはずなのだ。


なのに、こんなにも遠く感じるのは――


(……変わったのは、私の方だ)


恋を知ってしまったから。


ただそれだけなのだと、自分に言い聞かせるようにイエレナはそっと指先を握りしめた。


触れたくて、触れてほしくて、

ほんの些細な仕草にさえ、心が勝手に期待してしまうから。


ただ隣に座っているだけで、十分だったはずなのに。


私だけが――

あの温もりに恋をしてしまったから。


恋なんて知らなかったころは、

ただ隣にいられれば、それだけで幸せだったのに。


今は、“普通”が苦しくてたまらない。


自分の心が、勝手に変わってしまったせいで。


胸の奥が、じん、と軋んだ。


――きっと、私のせい。


その言葉が心の底へ落ちた瞬間、紅茶の表面に映る光がかすかに揺れた。

まるで震える心音が、水面へ映り込んだみたいに。


そのときだった。


書類へ落としていた視線を上げ、セレストが静かに息を吐く。

さらりと銀白の髪が肩を流れ、その何気ない仕草ひとつに、イエレナの胸はまた落ち着きを失った。


視線が合う。それだけで心臓が跳ねる。


「……イェナ? 本当にどうしたの?」


穏やかな声。

いつもと同じはずなのに、その優しさが今はひどく眩しかった。


「~~っ……!」


慌てて視線を逸らすけれど、誤魔化せていないことくらい自分でもわかっていた。


沈黙が落ちる。


紅茶の香りだけが静かに漂い、午後の光が二人のあいだへ柔らかな影を落としていた。


セレストはそんな彼女を見つめたまま、ふっと目を伏せる。

伸ばしかけた指先を、無意識に止めるように。


瑠璃の瞳がわずかに揺れた。

その揺らぎに気づく者は誰もいない。


やがてセレストは静かに息を吐き、何事もなかったように微笑む。


「そういえば――招待された叙任式は、どうしようか?」


「あっ参加することにしたよ。 セスとこういうの参加するの、初めてだね。」


その言葉に、セレストの指先がわずかに止まった。


ほんの一瞬。

何かを掴みかけて、自ら手を引くような――そんな微かな迷いが、その仕草の奥をよぎる。


瑠璃の瞳がわずかに揺れた。


嬉しいのか。それとも迷っているのか。

本人ですら整理しきれていない感情が、深い青の底をかすめていく。


「……そう。」


返ってきた言葉は短かった。

あまりにも短くて、かえってその奥に飲み込まれた想いを感じさせる。


その様子に。イエレナはただ不思議そうに首を傾げた。


「……受けない方が、良かった?」


その問いに、セレストは静かに息を吐く。

白い指先がカップの縁をなぞり、視線がゆるやかに落ちた。


普段と何も変わらない穏やかな仕草だけれど、その横顔には、一瞬だけ遠くを見るような影が差していた。


「……いや、イェナが決めたことなら、構わないよ。」


声は優しく、どこまでも丁寧だった。


止める理由はない。

止めるつもりもない。


それが彼女自身の意思なら、なおさらだ。


――それでも。


胸の奥では、別の感情が静かに疼いている。


まだ表へ出すべきではない想い。


王子としても。

婚約者としても。


そして、一人の男としても。


言葉にならない本音の欠片が、ほんの刹那だけ瑠璃の奥に滲んだ。


イエレナはそれに気づかず、安心したように微笑み、小さく肩の力を抜く。


その笑顔を見つめながら、セレストは静かに目を伏せた。


――触れたら、壊してしまいそうだった。


ようやく前を向こうとしている彼女を、自分の欲で囲い込んでしまいそうで。


だから伸ばしかけた手を引く。


優しくありたいと願うほど、

その距離だけが少しずつ遠くなっていくことに――

セレスト自身も気づいていなかった。


【 次回予告 】


守りたい。

縛りたくない。


それでも――手放したくない。


優しさのはずだったその距離は、

いつしか、触れられない“線”になる。


すれ違う想い。

零れた言葉。

そして、初めての涙。


その優しさは――本当に、彼女のためだったのか。


次話、第57話「優しさの線引き」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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