第55話 婚約者の学問書
それから――
正式に、第一王子ラファエルよりイエレナへ春季叙任式の招待状が届けられた。
王家の紋章が押された厚手の封書。
そこに記されていたのは、“第五王子セレストの婚約者”としての正式な出席要請だった。
それを境に、屋敷の空気は少しずつ慌ただしさを増していく。
出席者の顔ぶれを覚え、式典の流れを確認し、何度もドレスの最終調整が行われる。
アンネは髪飾りや装飾品を入れ替えながら「こちらの方が瞳のお色に合います」と静かに熱を込め、レーネは護衛動線を確認するように淡々と王城内の見取り図へ目を通していた。
表面上は穏やかに。
けれど確実に、“その日”へ向けてすべてが動き始めていた。
今回イエレナへ与えられた役割は、ただ一つ。
――婚約者として、セレストの隣へ立つこと。
けれど、それはイエレナにとって初めてのことだった。
母国フェルディナにいた頃でさえ、彼女は表舞台へ立つことをほとんど許されてこなかった。
王族でありながら、どこか静かに守られる側にいた彼女が、“見られる存在”として人前へ立つ。
その意味を考えるたび、胸の奥が小さく強張る。
緊張は、もちろんあった。
それでも――隣にセレストがいると思うと、不思議と怖さは薄れていく。
……はずだった。
けれど、ラファエルとのあの日の会話以来、イエレナの世界は少しずつ色を変えてしまっていた。
“恋愛的な意味で”。
あの言葉を境に、これまで自然だと思っていたものすべてが、急に意識の奥へ入り込んでくる。
やっと慣れ始めていた距離の近さ。
当たり前みたいに差し出される手。
耳元へ落ちる低く優しい声。
そして――時折ふいに触れた、唇の記憶。
思い出すたび胸の奥が熱を帯び、落ち着かなくなる。
その熱は今も消えず、小さな灯みたいに胸の奥で揺れ続けていた。
その日の朝も、本来なら“いつも通り”のはずだった。
支度を終え、部屋の扉を開ける。
すると廊下の向こうから、セレストがゆっくり歩み寄ってきた。
朝の光を受けた銀白の髪が、さらりと揺れる。
「おはよう、イェナ」
穏やかな微笑とともに、彼は自然な仕草で手を伸ばした。
指先が、イエレナの髪へそっと触れる。
乱れていた一房をすくい上げ、撫でるみたいに整えられた瞬間――肩がぴくりと揺れた。
次の瞬間、銀の髪がふわりと近づく。
覗き込むように落ちてきた瑠璃色の瞳。
近すぎる距離。
低く優しい声。
「……まだ少し跳ねてる」
くすり、と小さく笑う気配がした。
ただそれだけなのに、胸の奥が熱を持つ。
近い。近すぎる。
整えられた髪より、自分の鼓動の方がよほど乱れている気がした。
イエレナは思わず視線を逸らす。
けれどセレストは気づいていないのか、あるいは気づいた上で何も言わないのか――穏やかなまま目を細めていた。
その余裕が、ずるい。
「……イェナ?」
不思議そうに名前を呼ばれ、イエレナははっと我に返った。
目の前には、相変わらず穏やかな瑠璃色の瞳。
近すぎる距離に心臓が跳ね、彼女は慌てたように口を開く。
「っ……お、おはよう、セス……!」
返した声は見事に裏返ってしまった。
その瞬間、セレストがぱちりと瞬きをする。
いつもの朝。
いつもの挨拶。
本当なら、それだけのはずなのに。
平静を装おうとするほど、胸の奥がふわふわと落ち着かなくなって、鼓動ばかりがどんどん速くなる。
以前だって、触れられるたびに恥ずかしくはあった。
けれどその奥には、どこか安心するような心地よさがあったのだ。
セレストの隣は陽だまりみたいに穏やかで。
ただ傍にいるだけで、張り詰めていた心がほどけていく気がしていたから。
でも、今は違う。
触れられた場所が熱を持ったまま離れなくて、胸の奥がざわざわと騒ぎ続ける。
恥ずかしい。
落ち着かない。
なのに、逃げたくない。
そんな感情がぐるぐると混ざり合って、うまく呼吸ができなかった。
セレストはそんな彼女の様子を静かに見つめていたが、やがて愛おしげに目を細め、少しだけ首を傾げる。
「ふふ……どうかした?」
低く柔らかな声が、朝の静けさへ溶けていく。
その声音だけで、また胸が跳ねた。
「っ……な、なんでもない……!」
小さく震えた声でそう返しながら、イエレナはそっと胸元へ手を当てる。
服越しにも分かるくらい、心臓が忙しなく脈打っていた。
(どうして……こんなに、セスのことで胸が苦しいの……?)
耳の奥には、さっき囁かれた「おはよう」がまだ残っている。
たったそれだけで、こんなにも心が揺れてしまうなんて。
(私……本当に、セスのことが――?)
そこまで思った瞬間、胸の奥がふわりと熱を増した。
嬉しいのに、苦しい。
名前を呼ばれただけで、こんなにも感情が溢れてしまう。
自分でも知らなかった想いが、静かに輪郭を持ちはじめていた。
胸の内で零れたその答えは、まだ誰にも届かないまま。
やわらかな朝の光の中へ、そっと溶けていった。
◇ ◇ ◇
午前の支度を終えたあと――
イエレナは鏡台の前へ腰を下ろし、ぼんやりとブラシを動かしていた。
窓から差し込む春の光が、淡い銀金の髪をやわらかく照らしている。
けれどその手つきはどこか上の空で、何度も同じ場所を梳いてしまっていた。
やがて、小さなため息が零れる。
「……最近、セスと上手く話せないの」
ぽつりと落ちた本音に、背後で髪飾りを整えていたアンネとレーネが、同時にちらりと視線を交わした。
ほんの一瞬の無言。
そのあと、レーネが静かに口を開く。
「……そうみたいですね。お一人で空回ってる気はしてました」
「うぅ……そんなことまで気づかれてたの……」
イエレナはその場でへなりと肩を落とし、両手で顔を覆った。
そんな彼女を見ながら、アンネがくすくすと小さく笑う。
「何か、あったの?」
レーネが淡々と答える。
「ラファエル殿下から“恋”について突かれてから、どう接していいか分からなくなってしまったみたいよ」
「あら」
アンネが意味深に目を細めた。
「それはつまり――意識しているのね」
「イエレナ様にも春が来たわ」
珍しく微笑むように言ったレーネへ、アンネも楽しそうに頷く。
「もうとっくに来てたのよ。気づくのが遅かっただけで」
「っ――!」
その瞬間、イエレナの頬が一気に真っ赤に染まった。
「そ、そんな……違……!」
慌てて否定しようとするものの、双子の穏やかな笑みはまるで崩れない。
「ふふ、隠さなくてもいいのに」
「セレスト様が知ったら、きっと喜ぶでしょうね」
「も、もうやめてぇ……!」
真っ赤なまま両手で顔を覆うイエレナに、支度部屋の空気がふわりと和らいだ。
窓辺のレースが風に揺れ、ティーテーブルに置かれた紅茶から甘い香りが立ち上る。
その穏やかな空気の中で――
「こんな時のために、これを用意しておいたんですよ」
レーネがすっと引き出しを開け、一冊の分厚い本を取り出した。
革張りの重厚な装丁。
それを見たアンネが、ゆるやかに目を細める。
「あら……それは、まだ少し気が早いんじゃないかしら?」
「知識は大事よ」
「そうね。婚姻も秒読みですし」
「段取りは、しっかりしておいた方がいいわ」
静かな声音のまま、双子の会話はどこか妙な方向へ進んでいく。
「???」
イエレナはついていけないまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。
レーネはそんな彼女の前へ、その本を静かに差し出す。
「よく熟読して備えてください」
「え?」
戸惑いながら受け取った本を見下ろし、イエレナは首を傾げた。
表紙には、優雅な金文字でこう記されている。
《王族のための夜伽之書・上巻》
「最新改訂版です」
「図解入りでございます」
「……あっ、ラファエル殿下が仰っていた“世継ぎの儀礼”とか、“王族の習わし”が書かれた本って……これのこと?」
その瞬間。
アンネとレーネの動きがぴたりと止まった。
部屋の空気が一瞬だけ静止する。
だがアンネは、すぐ何事もなかったように優雅な微笑を浮かべた。
「えぇ、まぁ……“そういった類”の本ですね」
若干引きつった笑顔で返すアンネの横で、レーネが小さな声で付け加える。
「知識は力です」
「まぁ、知らないままよりはマシでしょう」
双子の会話の意味を半分も理解できないまま、イエレナは真面目な顔で本の表紙をそっと開いた。
――そこに描かれていたのは、繊細な筆致の人体図だった。
筋肉の構造。
神経の流れ。
男女による感覚反応の違い。
思っていたより、ずっと学術的だ。
「……へぇ……すごい。まるで医学書みたいだけど……儀礼に関係あるの?」
興味津々といった様子でページをめくるイエレナは、完全に“学問書”として読み始めていた。
繊細な図解を真面目な顔で追いながら、「なるほど……」と小さく頷いている。
その様子を見下ろし、レーネはそっと額へ手を当てた。
「……冗談が、冗談ではなくなってしまったわ」
「えぇ……」
アンネも静かに天を仰ぐ。
「殿下、どうかお許しを……」
どこか祈るような声音だった。
だがレーネはすぐに真顔へ戻り、小さく肩をすくめる。
「けれど、無知すぎるのも危険だもの。これは教育の一環……ということで」
「……開き直ったわね」
「現実を受け入れただけよ」
淡々と交わされる双子の会話の横で、イエレナだけが純粋そのものの眼差しを本へ向けていた。
「“相手を思いやる心が大切”……うん、確かに……」
嬉しそうに頷くその姿に、双子は同時にこめかみを押さえる。
支度部屋には、しばし奇妙な静寂が落ちた。
紅茶の甘い香り。
ページをめくる微かな音。
窓辺を揺らす春風。
穏やかな空気のはずなのに、アンネとレーネだけが静かに疲弊している。
――そんな“静かな地獄”を破ったのは、控えめなノックだった。
「イェナ、入っていい?」
その声を聞いた瞬間。
レーネとアンネの背筋が、ぴしりと凍りつく。
「どうぞ」
当の本人はまったく気づかないまま、無邪気に返事をした。
視線はまだ本から離れていない。
静かに扉が開き、セレストが部屋へ入ってくる。
春光を背にした彼は、いつものように穏やかな微笑を浮かべていた。
そのまま自然な足取りで歩み寄り――ふと、イエレナの様子に気づいて足を止める。
「……そんな真剣な顔して、何読んでるの?」
覗き込まれたイエレナは、ぱっと顔を上げた。
「これね、医学書みたいで面白いの!」
嬉しそうに、本を両手で掲げる。
そしてセレストの視界へ飛び込んだ、金文字のタイトル。
《王族のための夜伽之書・上巻》
――その瞬間。
セレストの微笑が、ぴたりと止まった。
部屋の空気が、一拍だけ静止する。
アンネとレーネは無言のまま視線を逸らした。
やがてセレストは、ゆっくりとまばたきをしてから、わずかに視線を落とす。
「えー....と……どこまで読んだ?」
「? 読み始めたばかりだから、一章の“身体の仕組み”!」
「……そう。」
短い返答。
声音は穏やかなままだった。けれど、その奥には静かな圧が沈んでいる。
セレストはゆっくりと顔を上げた。
柔らかな微笑は戻っている。
けれど、その瞳だけはまったく笑っていなかった。
「レーネ、アンネ。後で執務室に来るように。」
にこやかな声音なのに、双子の背筋は同時に伸びた。
「……承知いたしました。」
「……はい。」
どこかぎこちなく一礼しながら、二人はそっと目を逸らした。
そんな空気など気づいていないイエレナへ、セレストは再び穏やかな視線を向ける。
「イェナ、それを読む前に――確認したいことがあるんだけど。」
そう言いながら、自然な動作で彼女の手から本を抜き取った。
抗う暇もなく、《王族のための夜伽之書》はぱたん、と静かに閉じられる。
そして何事もなかったように、机の端へ置かれた。
「叙任式の段取り、もう聞いてる?」
「え? あ……まだ、細かいところまでは……」
「じゃあ、今のうちに話しておこうか」
流れるように話題を切り替えるセレストに、イエレナは少しだけ名残惜しそうに本を見つめる。
けれどすぐ姿勢を正し、「うん」と真面目に頷いた。
その背後で――
双子が同時に、小さく息を吐く。
「……もう駄目ね」
「次の休暇は……諦めましょう」
静かな声だった。
けれどその響きには、すべてを悟った者だけが持つ静かな諦観が滲んでいた。
ふたりの肩が、そろって静かに落ちる。
そのやり取りに気づいていないのは――当のイエレナだけだった。
【 次回予告 】
ただ隣にいるだけで、満たされていたはずなのに。
触れたい。
触れてほしい――
その想いが、距離を遠くする。
変わってしまったのは、自分か。
それとも――彼か。
揺れる心のまま、伸ばしかけた手は届かない。
次話、第56話「午後の微熱」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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