第54話 応えた言葉~前編~
レオニスの執務室には、静かな午後の光が落ちていた。
窓辺から差し込む淡い陽射しが、白い卓布と琥珀色の紅茶をやわらかく照らしている。
ラファエルはカップを手に取り、ひと口だけ静かに紅茶を含んだ。
その向こうで――揺れる瞳のまま、それでも逃げずにこちらを見返してくるイエレナを見つめ、彼はふっと目を細める。
「……あの弟はね、君のことをとても大切にしている。」
やわらかな声音だった。
責めるでもなく、試すでもない。ただ静かに、事実を置くような声。
「けれど、そういう話は――きっと君本人にはしないだろう。
君が望んで婚約者になったわけでもないと、彼はわかっているからね。」
その言葉が落ちた瞬間、イエレナの胸が小さく鳴った。
ラファエルの声には、相手を見極めるような鋭さと、弟を知り尽くした兄としての温かさが同時に滲んでいる。
「……セレストは、君の未来を縛らないようにしている。公の場へ立たせないのも、そのためだろう」
静かな声が、ゆっくりと続く。
「もし君に、本当に“添い遂げたい誰か”が現れたとき――自分が邪魔にならないように、ってね」
イエレナは、言葉を失った。
視線がゆっくりと落ち、テーブルの上の紅茶へ向かう。
淡い琥珀色の液面が、かすかに揺れていた。
その揺らぎを見つめるまま、指先が小さく震える。
(……やっぱり、そうだったんだ。)
胸の奥で、ひとつ息が詰まった。
王都へ来てからも、ずっと守られていた。
公務への同席も、社交の場への出席も、理由をつけては避けられてきた。
“婚約者”でありながら、その役目を果たす機会は、一度も与えられていない。
それはセレストの優しさなのだと、ずっと思っていた。
そうしてもらえることに、どこか安堵していたのも本当だ。
けれど――
ラファエルの口から、その理由をはっきり聞かされた今。
胸の奥へ、小さな痛みが静かに広がっていく。
守られていたのだと理解すると同時に、自分はどこか遠くへ置かれていたのだと気づいてしまったから。
イエレナがわずかに俯いた、そのときだった。
背後に控えていたレーネの指先が、ほんのわずかに動く。
重ねた両手の中で、静かに力が込められた。
けれど彼女は何も言わない。
ただ、視線を伏せたまま静かにそこに立っていた。
「……セスは、そんなことまで考えて……」
思わず零れた声は、かすかに掠れていた。
ラファエルはそんな彼女を見つめ、静かに目を細める。
「あの子は不器用だからね。きっと、何も伝えていないだろう」
低く落ち着いた声音に、イエレナは小さく頷くことしかできなかった。
その様子を、レーネは微動だにせず見守っている。
けれど淡い青の瞳には、確かな静けさと気遣いが宿っていた。
短い沈黙が落ちる。
紅茶の湯気だけが、静かに揺れている。
ラファエルは一度だけ目を伏せ、それからゆっくりと続けた。
「でもね。謁見のあと、君は言っていた。“セスの隣にいたい”と」
その言葉に、イエレナの肩がかすかに揺れる。
ラファエルは穏やかな眼差しのまま、静かに続けた。
「私は兄として――その言葉を信じたいと思っている。“あの弟”を選んだ君をね」
心臓が、強く脈打つ。
小さく息を吸う音だけが、静かな執務室に響いた。
背後では、レーネが静かに目を伏せていた。
その表情は変わらないまま、ただ主の言葉を聞いている。
ラファエルはそんな空気ごと見守るように、静かに息を吐く。
「……セスも君を尊重しようとしている。だから、私も君を“尊重”しよう」
その声音は穏やかだった。
けれど、そこには王太子として相手の意思を尊ぶ重みが確かにある。
ラファエルはゆっくりとイエレナを見据えた。
「――君は、これからのことをどう考えている?」
静かな問いが落ちる。
イエレナはすぐには答えなかった。
膝の上で重ねた指先を見つめたまま、言葉を探すように小さく息を吐く。
やがて――ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、迷いと覚悟、そのどちらも静かに宿っている。
「……私は、亡国の姫で……本当は、生きていたらいけなかった存在です。
他国から見れば、“異端”で……魔力以外の力を持つ私は、きっとただの異物です」
言葉を紡ぐたび、胸の奥が少しずつ痛む。
それでもイエレナは視線を逸らさなかった。
ラファエルもまた、静かに彼女を見つめ返している。
「でも――セスがいてくれたから、この世界を諦めずにいられました。」
その瞬間、ラファエルの目がわずかに細められる。
イエレナは胸の前でそっと両手を重ね、ひと息置いて続けた。
「セスのおかげで、私は立っていられるんです。だから……隣に立って、力になりたい。どんな形であっても」
その言葉が静かに落ちた瞬間――
背後で控えていたレーネのまつ毛が、わずかに震えた。
普段なら微動だにしない彼女の肩が、ほんの一瞬だけ息を吸うように揺れる。
(……イエレナ様が、自分の口で“過去”を――)
セレストから“事情”として聞かされていた内容。
けれど今の言葉は、あのどこまでも静かで優しい少女が、自分の意思で生き方を選んだという証だった。
レーネはそっとまぶたを伏せる。
胸の奥に、淡い誇りのような温かさが広がっていた。
(――この方が、セレスト様の隣に立つ方なのですね。)
再び顔を上げる。
何も言わず、ただ静かにイエレナの背を見守る。
その瞳にはもう、ただ守るべき存在を見る色ではなく――
共に歩む者を認めた光が宿っていた。
しばしの沈黙。
紅茶の湯気が、ゆるやかに二人のあいだを漂う。
やがてラファエルの口元に、やわらかな笑みが浮かんだ。
「……なるほど。」
短く頷くと、ラファエルは少しだけ肩の力を抜いた。
「じゃあ――答えは“OK”ってことでいいのかな?」
「……セスが、いていいって言ってくれるなら。」
「ふふ。そうか。良かった」
ラファエルが愉快そうに笑う。
そしてわざとらしく紅茶をひと口含みながら、何気ない調子で続けた。
「伴侶になるってことは、いずれ“世継ぎ”の話も出てくるだろうけど……そっちは大丈夫?」
その一言で、室内の空気がぴたりと止まった。
壁際に控えていたレーネの指先が、わずかに動く。
そして次の瞬間――
後方で書類を整理していたレオニスの手が止まり、無言のまま兄の後頭部を軽く小突いた。
「センシティブだろ。」
「……痛っ。まぁ、確かに。」
ラファエルが眉を下げながら頭を押さえる。
その横で、レーネは何事もなかったかのように静かに姿勢を戻した。
イエレナだけが、ぱちぱちと目を瞬かせている。
「……あの、しきたり……のことですか?」
不安そうに首を傾げ、小さく続けた。
「もし儀礼の段取りや決まりごとのお話でしたら……その、まだ詳しくは知らなくて……」
無垢すぎる返答だった。
ラファエルとレオニスが同時に固まる。
紅茶の湯気だけが静かに揺れ、妙な沈黙が落ちた。
「……」
「……」
ラファエルがひとつ咳払いをし、レオニスはこめかみを押さえた。
その瞬間。
背後から、短く小さな笑い声が零れる。
「……っふ」
レーネだった。
自分でも意外だったのか、すぐに口元へ手を添えて表情を引き締める。
けれど瞳の端には、消えきらないやわらかな笑みが残っていた。
イエレナが不思議そうに振り返る。
ラファエルは肩を揺らしながら笑いを堪え、レオニスは深いため息を吐いた。
「……いや、そういう“形式”的な話じゃないんだけどね。」
「ラファエル。余計なことを言うな。」
イエレナは困ったように二人を見つめる。
「……あの……やっぱり、私じゃ……役不足でしょうか?」
その健気すぎる反応に、ラファエルはとうとう吹き出した。
「いや、むしろ完璧だよ。セスがまた悩むのが目に浮かぶ。」
楽しげに肩を揺らす兄の隣で、レオニスが呆れたように息を吐く。
その音が静かな執務室へ溶けていき、窓辺のカーテンがやわらかく揺れた。
春の光が、ほんの少しだけ差し込む。
イエレナは胸の奥に芽生えたあたたかな感情の正体を――まだ知らなかった。
【 次回予告 】
「……わかりません……!」
問いかけられた想いに、
揺れ動く心と、初めて知る感情。
触れた温もりが、
胸の奥で名前を持ち始める。
けれど――その答えを待たずして、
彼は静かに手を引いた。
そして動き出す、王家の決断。
亡国の姫は、
“影”ではなく、“光”の中へ――
次話、第54話「応えた言葉~後編~」
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物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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