第47話 調和の森
【セレストside】
リリュエルの「集まってきてる」という言葉どおり――
屋敷の中には、いつしかやわらかな風が流れるようになっていた。
廊下の隅を撫でる風には、かすかな温もりが混じり、
陽の差す窓辺では、光がどこか柔らかく滲む。
目には見えない。けれど確かに、そこに“何か”が息づいていた。
朝の廊下で、使用人たちが小声で囁く。
「……あの方のお傍にいると、不思議と心が軽くなるのです」
「ええ。庭の花の咲き方も、どこか違いますね。色が、より鮮やかに見える気がして……」
それはもはや同情ではない。
憐れみでも、好奇でもなく――
“セレスト殿下の婚約者”として、この屋敷に根づきはじめた静かな敬意。
彼女がいれば空気が澄み、微笑めば場がほどける。
祝福の影響か、それとも彼女自身の在り方か。
けれど――
(……このままでは、力が溢れる)
セレストは胸元のペンダントへ触れ、静かに窓の外へ視線を向けた。
庭では、リリュエルが花びらを抱えてくるくると舞い、
それを見上げて、イエレナがやわらかく笑っている。
朝の光に染まるその姿は、あまりにも穏やかで、あまりにも愛おしい。
――だからこそ。
守らなければならない。
(……彼女が“恐れ”に呑まれる前に)
祝福が、彼女自身を傷つけるものにならないように。
(今のうちに、扱いを覚えさせておこう)
強制でも恐怖でもなく、理解と意志で。
セレストは小さく息を吐き、静かに立ち上がった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
朝食の席は、いつもと変わらぬ穏やかな空気に包まれていた。
差し込む光が白いテーブルクロスをやわらかく照らし、湯気の立つ茶器からは、ほのかに甘い香りが立ちのぼる。
その静けさの中で――セレストが、ふと口を開いた。
「少し、出かけようか。
君の祝福――今のうちに、きちんと扱えるようにしておこう」
穏やかな声音。
けれどその奥には、迷いのない決意が静かに宿っている。
イエレナは一度だけ視線を落とした。
カップの中で揺れる紅茶を見つめながら、ほんのわずかに息を整える。
けれど次の瞬間、ゆっくりと顔を上げたその瞳には――
確かな光が宿っていた。
「……うん、行きたい。私の祝福が、どういうものなのか知りたい」
その言葉に、不安の色はない。
守られるだけで終わりたくない。
自分の力を、自分の意思で知りたい。
そんな静かな願いが、まっすぐに滲んでいた。
セレストは一瞬だけ目を細める。
その決意を確かめるように見つめて――やがて、ふっと微笑んだ。
「……いいね」
短く頷いたその声には、わずかな安堵と、そしてどこか誇らしさが滲んでいた。
そうして二人が向かったのは、王都の北方――
精霊が集まりやすいとされる保護林、〈ノルヴィアの森〉。
大森林から細く伸びた地脈がこの地に流れ込み、整えられた自然の中で精霊たちが穏やかに留まる場所。
森に一歩足を踏み入れた瞬間、外界とはわずかに異なる、澄みきった気配が肌を撫でた。
「……」
イエレナは息を呑む。
胸の奥が、すうっと静まっていく。
まるでここにいることが当然であるかのように、呼吸するたび、見えない何かとやわらかく重なっていく感覚。
それに応じるように、空気がかすかに揺れた。
――精霊たちが、集まりはじめている。
その様子を確かめるように、セレストが静かに手を掲げた。
淡い光が指先へ集まり、やがて地へと流れ落ちると、足元に円環の術式が描かれていく。
薄金の紋様は静かに広がりながら空気へ溶け込み、やがて見えない膜となって森の一角を包み込んだ。
外へ漏らさぬために。
そして――内を乱さぬために。
静かに閉じられた結界の中で、セレストはゆるやかに視線を向ける。
「これで外には漏れない。ここなら、どんな形で力を使っても大丈夫だよ」
そう告げる声に、イエレナは小さく頷いた。
胸の奥でわずかに息を整えたその瞬間、肩の上でリリュエルがくるりと楽しげに回る。
「イェナ、精霊も見守ってるよ~!」
「……うん、がんばる」
その声は、もう震えていなかった。
木漏れ日の中、イエレナはゆっくりと目を閉じ、静かに息を整えていく。
(……風の声、木々の囁き、精霊たちの鼓動――)
世界のざわめきが、波のようにやわらかく胸の奥へ流れ込んでくる。
ひとつ、呼吸を重ねるたびに、森の鼓動が自分の心臓と重なっていった。
これまで、この祝福を“扱おう”としたことはなかった。
精霊たちの力だから。
その好意に、ただ身を委ねるものだと思っていたから。
けれど――
(……違う)
薄々、感じていた。この力は、ただ受け取るだけのものじゃない。
私が、響かせている。
私が、選んでいる。
そっと、気配へ手を伸ばす。
押さえつけない。奪わない。
ただ、呼吸を合わせるように。
……ずっと、無意識では出来ていたこと。
それを今、初めて“自分の意志で”なぞっている。
すると、掌の上に――小さな光が灯った。
揺らぐそれは偶然ではなく、確かに自分の意志で生まれたもの。
「そう、そのまま」
背後から届くセレストの穏やかな声に、イエレナはわずかに頷き、さらに深く呼吸を重ねる。
次の瞬間――
風が森を駆け抜け、木々の葉が一斉にざわめいた。
淡い金の光がふわりと舞い上がり、空気そのものが祈りを奏でるかのように震える。
「……できた……のかな?」
「うん、上出来。コツ掴むの早いね」
セレストの柔らかな笑み。
返ってきたのは、やわらかな笑みと、迷いのない肯定だった。
その声にほっとしたように息を吐き、イエレナは胸へ手を当てる。
けれど――
ふと視線が落ちる。
自分の掌。
そこに残る、まだ消えきらない光の余韻。
それを見つめたまま、小さく息をこぼした。
「……ねぇ、セス」
少しだけ迷うように、言葉を選ぶ。
「この力……本当に、私が持っていていいものなのかな」
セレストは静かに目を細め、問い返した。
「どうしてそう思うの?」
イエレナは少し黙り、風に揺れる光を見つめながら呟く。
「……ラファエル殿下に言われたの。 “祝福なんて言葉じゃ足りない”って」
その瞬間、森のざわめきがふっと途切れた。
彼女の声だけが、柔らかく響く。
「……自分の力なのに、何も知らないの。それが怖くて……だから、知りたいの。
それに――セスに守ってもらってばかりだから。隣にいられるように、私も強くなりたい」
風が静かに吹き抜ける。
金の光が髪を揺らし、瞳の奥に決意が宿る。
その言葉に、セレストはゆっくりと歩み寄った。
光の中、彼女の髪を一筋、指で掬い上げる。
「……君がそう思えるなら、心配ないよ。
“怖い”と思えるのは、ちゃんと見ている証拠だから」
「見ている……?」
「うん。無知な人間は、恐怖すら感じない。
恐れは、理解の入口なんだ。君の祝福が優しいのは――君が優しいからだよ」
その言葉に、イエレナの瞳が揺れる。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
セレストはそっと手を差し出した。
「……もう一度、やってみようか」
差し出されたその手を、イエレナはそっと取り、胸いっぱいに息を吸い込む。
触れ合った指先から、セレストの魔力と、イエレナの祝福がゆるやかに重なり合い、波紋のようなやさしい揺らぎが森へと広がっていった。
光が枝のあいだをすり抜け、木漏れ日の粒と溶け合うようにきらめく。
呼応するように精霊たちがふわりと舞い上がり、楽しげに空を巡った。
「……綺麗」
思わず零れたその一言に、リリュエルがくるりと宙を回りながら笑う。
「ねぇねぇ見て!森じゅうがイェナの色になってる!」
その声に、イエレナはふっと微笑んだ。
やわらかな表情の奥に、確かな決意の光が静かに灯っている。
その横顔を見つめながら、セレストは胸の内でそっと呟いた。
(――この力を、恐れではなく希望に変えられるように。そのために、僕が隣にいる)
木々の間を渡る風がやさしく頬を撫で、森全体が祝福を受けたように淡く輝いた。
それから何度も、同じ動作を繰り返す。
呼吸を合わせ、意識を澄ませ、森のざわめきと自分の鼓動を重ねていくたびに、少しずつ感覚が形になっていった。
掌に生まれる光は、揺れて、満ちて、やがて静かに消えていく。
そのたびにイエレナの肩が小さく上下し、息がわずかに乱れた。
「……はぁ……扱うって、こんなに疲れるんだね」
膝に手をついて息を整える彼女に、セレストは小さく笑みを浮かべる。
「今までは、イェナの流れに精霊が“共鳴して”動いてたからね。
力を使うってことは、それだけ世界と関わっているってことだよ」
「……それってなんだか、不思議だね。」
「そうだね。ただイェナの祝福は――“支配”じゃなく、“調和”のためにあることを忘れないで」
穏やかな声でそう告げながら、セレストはそっと彼女の頭に手を置く。
触れられた瞬間、張り詰めていた力がやわらかくほどけていくようだった。
けれどすぐ隣で、リリュエルが小さく首をかしげる。
「ん~……“調和”とか“制御”とか、言葉はきれいだけどさ」
ふわりと宙に浮き、羽をひとつ揺らす。
「イェナの力って、本当は“自然に流れてる”ときが一番きれいなんだよ。
押さえたり導いたりするより……風みたいに、ただ“ある”だけでいいの。」
その言葉に、セレストはほんの少し目を細めた。
「……流れるままに、か。」
「うん。でもね、セスの言ってることも間違いじゃないよ~。
イェナが“怖くなく”この力と一緒にいられるなら、それが一番だから。」
思いのほかまっすぐなその言葉が、静かに場へ落ちる。
リリュエルはふわりと舞い降り、イエレナの肩へちょこんと腰かけると、小さな手でその頬にこつんと触れた。
あたたかく、やさしい感触。
まるで祝福そのもののように。
イエレナは目を細め、くすりと笑う。
胸の奥で、ふたつの言葉が重なった。
――“調和”と、“流れるまま”。
「……ありがとう。どっちも、ちゃんと覚えておくね」
小さく紡いだその声は、もう迷っていない。
光がゆるやかに舞い、木々のあいだを渡る風が、三人の間をやさしくすり抜けていった。
【 次回予告 】
王城にて――交わされる静かな対話。
“祝福”とは何か。
力か、それとも共鳴か。
揺れる価値観の中で、
彼女は自らの在り方を問われる。
「――なら、試してみようか」
その一言で、空気が変わる。
確かめられるのは、力か――それとも。
次話、第48話「確かめたいもの」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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