第45話 王都の街で〜後編〜
その後もふたりは王都の街をゆっくりと歩き、露店を覗いたり、細い路地へ足を伸ばしたりしながら、いくつもの場所を巡っていった。
人の流れに紛れ、ときに立ち止まり、ときに顔を見合わせて笑う。
急ぐ理由のない時間が、穏やかに重なっていく。
やがて昼下がり。
噴水のそばにあるカフェで足を休めることにした。
水音がやわらかく響き、花の影がテーブルの上をゆらりと撫でていく。
カップに注がれた琥珀色の紅茶は、陽の光を受けて静かに揺れていた。
「……甘くて、おいしい」
そっと口にしたあと、イエレナが小さく微笑む。
その表情を見るたびに、セレストの胸の奥にも、ゆるやかな熱が灯っていくのを感じた。
向かい合う距離。
差し込む光。
何気ない一言。
そのすべてが、どこか特別に思えてしまう。
その少し離れた場所では――
リリュエルがくるりと宙を舞いながら、「ボクは気が利く精霊だからね」と楽しげにウィンクしながら、この日はアウルとレーネと共に行動していた。
仲良く街を歩くふたりの様子を遠目に眺めながら、リリュエルは満足そうに頬を緩める。
「ボクが大好きなふたりが仲良しだと、とっても嬉しいね♪」
などとご機嫌に語りつつ、ちゃっかりアウルに買わせた葡萄をひと粒、口へ運んだ。
通りを渡る風はどこまでもやわらかく、遠くで奏でられる楽師の弦の音が、午後の空気を優しく震わせている。
穏やかで、満ち足りた時間。ふたりの距離もまた、気づかぬうちに少しずつ、自然に近づいていく。
◇ ◇ ◇
そして――次に足を運んだのは、王都の中心街にひっそりと佇む、重厚な石造りの古書店だった。
扉を押し開けると、小さな鈴が控えめに鳴り、古紙とインクの香りがひやりとした空気に溶けていく。
外の喧騒は、そこでふっと遠ざかった。
まるでこの場所だけ、時間の流れがゆるやかに沈んでいるかのように。
天井まで届く棚には、各国の書物が隙間なく並び、新しい研究書から百年以上前の古文書、色褪せた寓話集に柔らかな手触りの絵本までが、静かにその場に息づいている。
ステンドグラスを透けた光が床に淡い模様を落とし、その中で細かな埃がゆっくりと舞っていた。
イエレナは歩みを緩め、指先で本の背表紙をそっとなぞる。
さらり、と紙の擦れる小さな音。
触れるたび、かすかな記憶の香りが立ちのぼるようで――
ふと、淡い青の装丁が視界に留まった。
指が止まり、そっとその一冊を引き抜く。
ページを開いた瞬間、懐かしい文字が胸へと流れ込んできた。
フェルディナの言葉。
幼いころ、兄と並んで読んだ物語。
胸の奥が、きゅうっと締めつけられる。挿絵も、物語の流れも、あの頃と変わらない。
それはかつて自分が抱きしめていた一冊と、同じ絵本だった。
けれど今、目の前にあるのは――きっと、別の誰かの手を渡ってきた本。
(……こんなところに……)
指先が、そっとページをなぞる。
乾いた紙の感触が、かすかな音とともに指に残り、古びた頁から立ちのぼる匂いが、遠い日々を静かに呼び覚ましていく。
温かな日差し。
兄の声。
肩を並べて、同じ挿絵を指さして笑い合った時間。
もう戻らないはずの光景が、胸の奥にゆっくりと満ちていく。
痛みではないけれど、少しだけ切ない温もり。
その余韻に沈みかけたとき――
背後から温かな気配が近づき、ふわりと腰に回る腕がやさしく引き寄せた。
「……っ」
驚きに息を呑むよりも早く、セレストの穏やかな声が耳元へ落ちる。
「欲しいのは、見つかった?」
いつも通りの柔らかな声。
けれど今日は、どこか胸の奥をくすぐるように甘く響いた。
イエレナは言葉にできず、小さく頷く。
指先に残る本のぬくもりと、背に伝わる体温が重なり合い、過去の温もりと今ここにある温度とが、静かに溶けていくようだった。
そっと視線を上げると、すぐそばで彼は穏やかに微笑んでいる。
その距離に胸の奥がやわらかく揺れ、イエレナは絵本を胸に抱き寄せるとゆっくりと息を吐いた。
舞い上がる埃が光の中でゆらめき、遠い記憶と今この瞬間とを、静かに繋いでいく。
失ったものは、もう戻らない。けれど――今、確かにここにあるものがある。
その実感が、胸の奥でそっと形を持ち、固く結ばれていた何かを、やわらかくほどいていった。
ステンドグラスを透けた光がふたりを包み込み、古い金の装飾が一瞬だけ、祝福のようにきらめく。
――過去と今が、静かに重なり合うような瞬間だった。
◇ ◇ ◇
古書店を出るころには、夕陽がゆっくりと沈み、街にはひとつ、またひとつと灯がともりはじめていた。
橙に染まった石畳の上、並んで歩くふたりの影がやわらかく重なり、そのあいだを穏やかな風がそっと通り抜けていく。
茜に染まっていた空は、いつの間にか群青へと色を変え――ふたりは並んで馬車へと乗り込んだ。
揺れる車内、窓の外に流れていく街の灯を静かに見つめるセレストの横顔はどこまでも穏やかで、その隣でイエレナはほんの少しだけためらいながら、そっと指先を伸ばす。
触れるか触れないか、そのわずかな距離に息を詰めるようにして。
かすかに指先が触れた、その瞬間。
セレストが気づき、ふっとやわらかな笑みを浮かべると、逃がさないようにその手を包み込み、指を絡めた。
「……今日は、楽しかった?」
静かな問いに、イエレナはその温もりを確かめるように小さく頷く。
「うん……すごく。セスと一緒に歩けて、嬉しかった」
飾りのない、まっすぐな言葉。
それを受けて、セレストの瞳がわずかに細まり、穏やかな光を宿す。
「僕もだよ。――こんな穏やかな一日は、久しぶりだった」
その声は低く静かで、けれど確かに満たされた響きを帯びていた。
イエレナの唇がふっとほころび、重ねた手の中で温もりがゆっくりと形を持っていく。
「また来よう」
穏やかで、それでいて確かな約束。
その一言に、イエレナは嬉しさを隠しきれず、そっと頷いた。
やがて馬車は邸の中庭へと滑り込むように止まり――その頃には、イエレナはセレストにもたれかかるようにして、穏やかな眠りへと落ちていた。
起こそうかと一瞬迷い、けれどそのまま、そっと腕を差し入れて抱き上げる。
驚くほど軽く、そしてあたたかい。
胸に近い位置で抱き寄せると、彼女のかすかな呼吸が静かに伝わってくる。
「……本当に、ご褒美の一日だったな」
小さく呟き、そのまま彼女の私室へと足を運ぶ。
ベッドの縁に膝をつき、慎重に寝かせようとした、そのとき――
「……ん……」
長い睫毛がかすかに震え、うっすらと開いた瞳が彼を映す。
焦点はまだ定まらないまま。
「ごめん、起こしちゃった?」
「……セ、ス……?」
とろけるような寝ぼけ声。
次の瞬間、ふらりと伸びた腕が彼の首へ回り、不意に引き寄せられて距離が一気に近づいた。
「い、イェナ……?」
戸惑いの声を落とす間もなく、彼女は再び夢の底へと沈んでいく。
すぅ、と穏やかな寝息。
首元をくすぐる温かな呼吸。
あまりにも近い距離。
その一瞬で、あの日の口づけを思い出し、セレストの頬にじんわりと熱が広がる。
視線を逸らしながらも、口元には小さな笑みが滲んだ。
「……まいったな」
その時だった。
カタン、と控えめに扉が開く音と共に、夜気のように冷たい声が静寂を裂いた。
「――破廉恥すぎます、セレスト様」
入ってきたレーネの眼差しは、夜の刃のように鋭い。
「……あぁ、やっぱり僕が悪者か」
肩をすくめるセレストだったが、
腕の中のイエレナは離れる気配もなく、むしろ無意識にぎゅっと抱き寄せてくる。
完全な板挟みに、思わず苦笑がこぼれた。
やがて、わずかな沈黙ののち――
「…………今日だけ、ですよ」
低く言い渡されたその声には、呆れと、それでも滲むわずかな優しさがあった。
「油断も隙もない」とだけ残し、鋭い視線を最後に静かに扉を閉じた。
再び訪れる静寂。
セレストは小さく息を吐き、そっとイエレナの髪を撫でる。
指先に触れるその柔らかさに、わずかに目を細めたまま、腕の中の温もりが自然にほどけていくまで静かに抱き留め続けた。
やがて力が抜けたのを確かめ、そっとその身をベッドへと預ける。
離れようとして――ふと、動きが止まった。
視線の先には、無防備に眠る横顔。
規則正しい寝息。
かすかに開いた唇。
触れれば壊れてしまいそうなほど、静かで、やわらかな存在。
ほんの少し手を伸ばせば、触れられる距離。
その事実に、胸の奥がわずかに揺れる。
守るために距離を取るべきだと、分かっている。けれど――
そのまま一歩だけ、ためらいを越えるように、セレストはベッドの空いた側へと手をついた。
軋みを立てぬよう、ゆっくりと身を沈め、隣へ横たわる。
触れてはいないけれど、指先ひとつで届いてしまう距離。
「……少しだけ」
誰に向けたのかも分からない、小さな言い訳が夜に溶ける。
視線を横へ流せば、すぐそこにイエレナがいる。
その近さに、胸の奥が静かに熱を帯びた。
守りたいと願っていたはずなのに――それだけでは足りないと、気づいてしまう。
触れていたい。
傍にいたい。
できるなら、このまま――目が覚めても、隣に。
そんな願いを胸に、そっと目を閉じる。
静かな寝息。
すぐ隣にある、やわらかな体温。
触れていなくても、確かに感じる存在。
夜の帳が、やさしくふたりを包み込んでいく。
――王都の一日は、甘く、そして静かに幕を閉じた。
【 次回予告 】
ほどけた朝の距離。
重なったぬくもり。
けれどその庭には、静かに光が集いはじめていた。
祝福は、やさしいだけでは終わらない。
それでも彼は、笑ってその手を取る。
次話、第46話「集いゆく光」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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