第45話 王都の街で〜前編〜
イエレナの私室。
朝の光が白いカーテンを透かし、やわらかな金色となって床へと流れ落ちていた。
夜のあいだ胸を満たしていた落ち着かない鼓動も、その光に包まれると、ほんの少しだけ静まったような気がする。
鏡の前に立つイエレナの髪を、アンネが丁寧に梳いていく。
淡く透けるミスティ・ブロンドの髪は、光を受けてほのかに金を帯び、さらりと指のあいだを流れていった。
「本日は風も穏やかです。街歩きには良い日和かと」
淡々と告げるアンネの声はいつもと変わらず落ち着いている。
それでも、その指先にはどこか祝福するようなやさしさが宿っていた。
レーネは背後からワンピースの裾を整え、ほんのわずかに頷く。
「大変お似合いです。控えめでありながら、自然と視線を引く美しさがございます」
淡い色のワンピースに、飾りは最小限。
髪には小さな花飾りがひとつだけ添えられている。
街へ出るための装い――けれど、その横顔にはまだわずかな緊張が残っていた。
(落ち着いて……ただのお出掛け。ただの王都散策よ!)
そう言い聞かせても、胸の奥がまた小さく跳ねる。
指先をそっと握りしめた、そのとき。
扉の向こうから、やわらかな気配が近づいてきた。
振り返るよりも先に分かる。
この静かで澄んだ魔力の気配は――
「……おはよう、イェナ」
穏やかな声が、朝の光の中にやわらかく溶ける。
扉のそばに立つセレストは、王子の正装ではなく、上質ながらも軽やかな外出着に身を包んでいた。
雪のような銀白の髪はいつも通り背に流れているのに、その佇まいはどこか“王族”というよりも、“ひとりの青年”のそれに近い。
その柔らかな雰囲気が、かえって胸を落ち着かなくさせた。
「……ごめんね、イェナ」
歩み寄りながら、ふっと微笑む。
やさしい声。
けれどその奥には、ほんのわずかに影が差していた。
「僕は、君の瞳の色が好きなんだけど……今日だけは隠させて」
イエレナは息を呑む。
分かっている。この瞳の色が目立つことも、それが亡国の姫の証であることも。
それでも――好きだと、そう言ってくれる。
その一言が、胸の奥に静かに沈み、じんわりと熱を残していく。
イエレナがこくりと小さく頷くと、セレストはゆっくりと両手を伸ばし、彼女の頬をそっと包み込んだ。
触れた瞬間、体温が一気に伝わる。
キスを知ってしまった今、その距離はあまりにも近くて――呼吸がわずかに浅くなる。
「目を閉じて」
低くやわらかな声に、イエレナのまつ毛が震え、ゆっくりと瞳が閉じる。
その瞬間を確かめるように、セレストの親指がそっと瞼に触れた。
やがて、指先から淡い光が静かに零れ落ちる。
やさしい魔力がイエレナの瞳へと溶け込み、祝福のペリドットを覆うように、薄く色を変えていく。
ひやりとした感覚と、包み込まれるような温もりが同時に広がり、まるで彼の手そのものに守られているようだった。
「……できたよ」
その声に導かれるように、ゆっくりと目を開く。
鏡の中に映る自分。
ペリドットの新緑は静かに姿を消し、そこには――穏やかで深い、灰青の瞳があった。
「……不思議」
小さく呟き、何度か瞬きを繰り返す。
その様子を見て、セレストがくすりと笑い、ほんの少しだけ身を屈めて視線を合わせた。
「どんな色でも、君の瞳は綺麗だね」
穏やかで静かな言葉。
けれど、その言葉はまっすぐで、逃げ場がない。
頬にふわりと熱が広がり、イエレナは思わず視線を逸らす。
その仕草さえ愛おしむように、セレストはやわらかな眼差しを向けていた。
ほんの一瞬――指先が彼女の手に触れる。
絡めるでもなく、ただそこに在ることを確かめるように。
「……今日は、楽しもう」
その一言が、胸の奥で小さく弾けた。
期待と、不安と、甘くほどける鼓動が重なり合う。
イエレナが小さく頷いた瞬間、カーテンが風に揺れた。
差し込む光が二人の頬をなぞり、やわらかな朝の空気が静かに満ちていく。
――穏やかで。
けれど確かに、特別な一日の始まりだった。
◇ ◇ ◇
王都の大通りは、午前の光を受けていっそうの賑わいを見せていた。
石畳は陽光をやわらかく反射し、行き交う人々の影を長く伸ばしている。
露店にかけられた色鮮やかな布が風に揺れ、焼き菓子の香ばしい匂いと、摘みたての花の甘い香りが混ざり合って漂っていた。
子どもの笑い声。
商人の呼び声。
人々の談笑が重なり、通り全体がひとつの大きなざわめきとなっている。
その中に――ひそやかな囁きが、紛れ込んだ。
「……あの方、王子殿下じゃ……?」
「お隣の少女は……誰?」
すぐに消えてしまいそうな声。
それでも確かに、耳の奥に残る。
そのたびに、イエレナの背筋がわずかに強ばった。
(……視線が、集まってる……)
自分に向けられているのか、それとも隣に立つ彼へなのか。
分からないまま、胸の奥だけが落ち着かなく揺れる。
人の波に紛れながら歩を進めるうち、無意識に指先がワンピースの布をきゅっと掴んでいた。
その小さな仕草に気づいたのか――
「イェナ? どうかした?」
すぐ隣から覗き込む、やわらかな声。
至近距離にある瑠璃色の瞳に、心臓が大きく跳ねる。
慌てて息を整え、イエレナは首を横に振った。
「あっ、いや……セスはやっぱり目立つね」
ぎこちない笑みを浮かべたまま、視線は落ち着かず、あちこちへとさまよってしまう。
「ああ……そう?」
セレストは小さく笑った。
彼女が“僕”のせいで注目を浴びていると思っていることに、内心で静かに苦笑する。
――実際に人々の視線を集めているのは、彼女の方だった。
やわらかなミスティ・ブロンドの髪。
儚さを帯びながらも、どこか凛とした佇まい。
灰青へと変えられた瞳でさえ、光を宿し、人の目を引く。
無自覚に、人を惹きつけてしまうその存在。
――たまらなく、愛しい。
「……? セス?」
不思議そうに首を傾げ、こちらを見上げる。
その無防備な仕草に、胸の奥がわずかに軋んだ。
次の瞬間、セレストは一歩踏み込み、そっと距離を詰める。
端正な顔立ちが、息のかかるほど近くに迫り、一瞬時間が止まったように感じた。
そして――背中に、あたたかな感触。
気づいたときには、後ろから腕が回され、しっかりと抱き寄せられていた。
引き寄せられた腰がぴたりと重なり、体温が逃げ場なく伝わってくる。
「っ……せ、セス!?」
驚きに目を見開くイエレナ。
人通りの絶えない大通り。
ざわめきの中で、ふたりだけが切り取られたような距離に閉じ込められる。
セレストは彼女の耳元へわずかに顔を寄せ、穏やかに微笑んだ。
「……あまりに視線が多いから、牽制しとかないとね」
回された腕は強すぎない。
それでも――離すつもりはないのだと分かるだけの確かな力がこもっていた。
その瞬間、周囲の空気がわずかに変わる。
囁きはひそまり、向けられていた視線が、一斉に意味を理解する。
――王子が示したのだ。
この少女は、自分の隣に立つ存在だと。
イエレナの頬が一気に熱を帯びる。
(け、牽制って……!?)
心臓が忙しなく跳ね、逃げ場を失った鼓動が胸の奥で暴れる。
――そのとき。
通りの向こう、イエレナへと興味を向けていた数人の男へ、セレストは一閃のような眼差しを流した。
ほんの一瞬。それだけで、空気がぴんと張り詰める。
笑みは消えず、瑠璃色の瞳に宿る光は、静かに冷えきっていた。
同時に、背後から圧が重なる。
護衛のアウルとレーネ。
淡青と氷色の瞳が鋭く光り、“睨むだけで斬れる”かのような気配が、無言のまま場を制圧していく。
ざわめきは、刃で撫でられたかのようにぴたりと途絶え、好奇の視線は弾かれるように逸らされた。
――だが。
その冷えた圧は、主であるセレストにも等しく向けられていた。
「……え、僕も?」
わずかに目を瞬かせた彼へ、アウルとレーネの視線がぴたりと重なる。
一切の忖度も、遠慮もない。その無言の圧に、セレストは一拍置いてから小さく肩をすくめた。
「……ご褒美デートだったんだけどな」
ぼやくように呟き、視線を空へと逃がす。
過剰な守護に抗うでもなく、ただ苦笑を浮かべるその様子は、王子というよりも、どこか年相応の青年らしかった。
だが――その隣の少女は、そんな緊張感などまるで気づいていない。
露店に並ぶ焼き菓子へと目を向け、次には隣の手細工のアクセサリーへと興味を移していく。
「わあ……」
無邪気な声がこぼれる。
朝の光を受けた横顔がきらりと揺れ、花びらのようにやわらかな微笑が浮かんだ。
その一瞬で、張り詰めていた空気はすっと溶けていく。
(……本当に、自覚がないんだよね)
人を惹きつけることも。
守られていることも。
セレストはふっと笑みをこぼした。
やがて、宝石のように透き通った飴細工の前で、イエレナが足を止める。
陽光を受けてきらめくそれは、まるで小さな精霊の結晶のようだった。
灰青の瞳が光を映して、きらきらと揺れている。
セレストはその横顔をしばらく見つめてから、やわらかな声で問いかける。
「これ、買おうか?」
その言葉に、イエレナはぱっと顔を上げた。
「……いいの?」
見上げる瞳が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。
色は変えられていても、その奥に宿る優しい光までは隠しきれない。
無邪気な仕草に、胸の奥がじわりと熱を帯び、理性がかすかにきしむ。
――けれど。
背後から突き刺さる鋭い視線が、現実へと引き戻した。
(……アウルとレーネの圧は、健在だね)
苦笑を飲み込みながら、セレストは視線を飴細工へと戻す。
「……どれがいい?」
声にわずかな笑みを含ませて問いかけた、そのとき。
屋台の主人がにこやかに身を乗り出した。
「いやあ、いい彼氏さんだねぇ。お嬢さんも幸せそうだ」
「っ……!! ち、違っ――!」
イエレナの顔が一瞬で真っ赤に染まる。
慌てて両手をぶんぶんと振って否定するその仕草は、あまりにも分かりやすくて、余計に目を引いてしまう。
その様子を横目に、セレストはわずかに口元を緩めた。
そして――
「婚約者です」
あえて涼しい顔のまま、さらりと告げた。
余裕のある声音。けれど、その奥にはどこか誇らしげな響きが滲んでいた。
店主の目が丸くなる。
「っ! こりゃイケメンな旦那さんを捕まえたなっ、奥さん!」
豪快な笑い声が弾ける。
周囲の空気が一気に和らぎ、先ほどまでの好奇の視線が、今度は祝福めいたやわらかさを帯びていく。
イエレナは耳の先まで真っ赤に染めながら、たまらず俯いた。
「だ、旦那さんって……!」
小さく抗議する声。
けれどその響きさえ、どこか愛らしくて。
セレストはそんな彼女をひっそりと見下ろし、静かに微笑む。
(……本当に、君は可愛い)
路地を抜ける風がふたりの間をやわらかく撫で、屋台に並んだ飴細工がきらりと陽を弾いた。
結局、宝石のように透き通った飴をいくつか包んでもらい、受け取ったそれをイエレナは嬉しそうに見つめた。
透き通る飴が光を抱き、きらきらと輝く。
まるで小さな精霊の結晶のように。
「セスも食べる?」
弾んだ声には、隠しきれない喜びがにじんでいた。
「……くれるの?」
やわらかな微笑みとともに問い返せば、イエレナは小さくこくりと頷く。
瓶の中へそっと指を差し入れ、透き通る一粒を摘み上げる。
光を受けた飴が、きらりと揺れた。
そのまま――ためらいもなく、セレストへ差し出される。
普段の彼女なら、きっと袋ごと渡したはずだ。
指先から直接、などしないだろう。
(……今日は、本当に機嫌がいいね)
その無防備さが、どうしようもなく愛しい。
セレストの頬が、自然と緩む。
わずかに一歩、距離を詰めた。
イエレナの呼吸が、かすかに乱れる。
視線が絡み、そのまま――
彼は、彼女の指先から直接、飴を受け取った。
唇がほんの一瞬、触れる。
かすめるほどの、わずかな接触。
けれど確かに、やわらかな温度が重なった。
それだけで、イエレナの肩がびくりと震える。
指先に残る、ぬくもり。
消えない感触が、じわりと広がっていく。
「……ありがとう」
低く、甘い声が耳元に落ちる。
飴の甘さよりもやわらかなその響きに、視線が絡んだ瞬間、イエレナの目が大きく見開かれた。
次の瞬間には、みるみるうちに頬が赤く染まっていく。
「っ……あ、あの、えっ……!」
声にならない声。
口をぱくぱくと開閉するばかりで、言葉が見つからない。
――そんなつもりじゃなかった。
ただ、飴をあげたかっただけ。
それだけだったのに。
指先に残る熱が、じわじわと全身へと広がっていく。
一方で、セレストは飴を口に含んだまま、ゆっくりと瞬きをした。
ほんのわずかに目を細める。
(……やり過ぎたかな?)
そう思いながらも、彼女の頬の熱がまだ指先に残っている。
その温もりが、どうしようもなく嬉しかった。
舌の上で飴がゆっくりと溶けていく。
甘い。
けれど、それ以上に――
隣にいる少女の存在が、世界をひとつ分だけ甘くしていた。
【 次回予告 】
王都の街で過ごす、穏やかな午後。
重ねた時間。
触れた温もり。
そして――少しだけ近づいた距離。
「……もう少しだけ、このままでいい?」
過去と今が重なり、
ふたりの時間は静かに満ちていく。
次話、第45話「 王都の街で〜後編〜」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




