第44話 羽音の夜に
あの日、セレストの唇が触れてから二日。
イエレナの胸の奥では、あの熱がまだ静かに燻り続けていた。
――というより。
完全に、様子がおかしくなっていた。
(……どうしよう……)
朝起きても、夜になっても。
ふとした拍子に胸の奥がじんわりと熱を帯び、そのたびに顔が赤くなる。
窓辺でぱたぱたと手を煽いでみたり、意味もなく深呼吸を繰り返したり。
落ち着こうとしてはうまくいかず、気づけば自室の中を右へ左へと行き来していた。
その上――
せっかくセレストが忙しい合間を縫って会いに来てくれても、やっぱり思い出してしまう。
視線を合わせることができない。
言葉は途中で途切れ、ぎこちない態度ばかりが目立ってしまう。
何を話したのかさえ、あとから思い出せない。
指先がかすめた感触。
耳元に落ちた低い声。
抱きしめられたときの、重なる鼓動。
そして――何度も重なった唇。
どれも消えてはくれなくて、思い出すたびに胸の奥がきゅっと縮み、どうしようもないほど熱が込み上げてくる。
「……っ」
紅茶を口に運ぼうとしただけで、頬がじんわりと火照る。
本を開いても、文字はただ並んでいるだけで、意味を結ばない。
「……ああもう……」
小さく息を吐き、額を押さえる。
「私、どうかしてる……」
思わず額に手を当て、そのまま小さくうずくまる。
――そのときだった。
カーテンの上から、やわらかな声がふわりと落ちてくる。
「イェナ、また顔が赤くなってる。熱でもあるの?」
リリュエルがくるりと宙を舞いながら降りてきて、心配そうに顔を覗き込んだ。
「な、ないよ! ただちょっと……考えごとしてただけ!」
慌てて顔を上げる。
けれど、その様子を見ていたリリュエルは、ふうん、と意味ありげに目を細めた。
「ふ~ん? 二日前の“考えごと”かな?」
「~~っ!」
反射的に顔を覆い、そのままベッドへ倒れ込む。
枕に埋めた頬がじんわりと熱を帯び、耳の先まで真っ赤に染まっていくのが自分でも分かる。
「やっぱり~! なにかあったんだ~!」
リリュエルはくるくると宙を飛び回りながら、いたずらっぽく笑う。
「あの日から百面相だもんね! セスに何されたの?」
「し、知らない! なにも……っ!」
否定する声が裏返る。
その瞬間――
脳裏に、あの夜の光景が鮮やかに蘇った。
近づいてくる瑠璃色の瞳。
触れた唇の熱。
腕の中に閉じ込められた温もり。
「~~~っ!!」
枕に顔を押しつけたまま、ばたばたと足を動かす。
忘れようとするほど、はっきりと思い出してしまう。
(……もうやだ……!)
胸の奥が甘く苦しくて、どうしていいのか分からない。
「ふふっ、照れ屋さんだな~」
リリュエルはくるりと宙を舞い、ひらりと金の羽根を散らす。
淡い光の粒がふわりと揺れ、その無邪気な声が、かえって胸の奥をくすぐるように響いた。
けれど――
(……セスは、何もなかったみたいに普通なんだよね……)
枕に顔を埋めたまま、ぼんやりと思い浮かべる。
朝の挨拶も、食事のときの会話も。
書物の話をするときに見せる、あの穏やかな微笑も。
全部、いつも通りのセスのままで。
優しくて、落ち着いていて、まるで何もなかったかのように自然で。
それが、どうしようもなく心を掻き乱した。
(あんなことがあったのに……)
胸の奥が、じくりと痛む。
(……私だけが、意識してるみたい……)
枕に顔を押しつけたまま、そっと胸元に手を添える。
指先に触れる鼓動は、落ち着く気配もなく早くて。
息を整えようとしても、頬の熱は少しも引いてくれなかった。
(……どうしてこんなに、苦しいんだろう)
ただ恥ずかしいだけじゃない。
ただ戸惑っているだけでもない。
胸の奥にあるのは――もっと別の、名前の分からない感情。
小さく吐いた息が、枕の中へと静かに吸い込まれていく。
それでも鼓動だけは、いつまでも収まらなかった。
◇ ◇ ◇
――その日の夕刻。
扉の外から、控えめなノックの音が響いた。
「イエレナ様、ネイサンでございます」
呼びかけに応じて扉を開けると、そこにはいつもと変わらぬ佇まいで立つネイサンの姿。
落ち着いた声音が、何事もないように告げられる。
「セレスト様よりお伝えを。――お約束の日取りは明日、午前十時にとのことです」
「……えっ?」
思考が、ふっと途切れた。
言葉の意味を理解するより先に、頬がじわりと熱を帯び、胸の奥が落ち着かなくざわめき始める。
「……あの山の書類、終わったの?」
思わず問い返した声は、自分でも分かるほど上ずっていた。
信じきれない気持ちが、そのまま滲み出ている。
「はい。見事に片づけました。明日は一日、安心してお楽しみいただけるかと」
ネイサンの口調はあくまで淡々としている。
だが、その言葉の端には、わずかに満足げな響きが混じっていた。
イエレナは、返す言葉を失う。
まるで当然のことのように告げられた“外出”の知らせが、遅れて胸の奥に落ちてくる。
――セスと、外へ。
その実感がじわじわと広がった瞬間、心臓が強く跳ねた。
「っ……わかりました」
小さく頷いた声は、わずかに震えている。
一礼したネイサンが静かに去り、扉が音もなく閉まる。
その音が完全に消えた途端、張り詰めていた空気がふっとほどけた。
イエレナはそっと胸に手を当てる。
(……明日、セスと……街へ……)
言葉にするだけで、鼓動がさらに早まる。
期待なのか、不安なのか。
自分でも名前のつけられない熱が、じんわりと胸の奥に広がっていった。
そのとき――
カーテンの上で、リリュエルがぱっと目を輝かせる。
「えっ、明日セスとデートするの?!」
「ち、違っ……! で、デートなんかじゃ……!」
慌てて否定するが、声は見事に裏返る。
「えぇ~? でも、ふたりでお出掛けするんでしょ?」
「えっ……う、うん……」
思わず頷いてしまった瞬間、自分で自分の逃げ道を塞いだ気がした。
「よかったねぇ!セスを独り占め~♪」
「うっ……」
言葉に詰まり、思わず視線を逸らす。
胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。
「ボクは気が利く精霊だから、デートの邪魔なんて野暮なことしないよ!」
くるりと宙を舞いながら、リリュエルは楽しげにウィンクしてみせた。
「いっぱい楽しんできてね♪」
「~~っ! リリュエル!」
イエレナは顔を真っ赤にして枕を抱きしめる。
否定したはずなのに――胸の高鳴りだけは、どうしても抑えきれなかった。
やがて、部屋に静けさが戻る。
さっきまでの賑やかさが嘘のように、空気はやわらかく落ち着いていく。
窓の外では、暮れかけた空に星がひとつ、またひとつと滲み始めていた。
その淡い光をぼんやりと見つめながら、イエレナはそっと息を吐く。
(……明日、セスと……)
胸の奥に灯った温もりは、まだ名前を持たないまま――けれど確かに、静かに熱を帯びていた。
明日のことを思うだけで、鼓動が少しだけ速くなる。
その理由をまだ知らぬまま。
亡国の姫は、小さな期待を胸に、静かな夜を迎えるのだった。
【 次回予告 】
王都の街へ――はじめての外出。
隠された瞳。
触れた指先。
そして、人目の中で近づく距離。
「……牽制しとかないとね」
守るための腕は、思っていたよりも近くて。
甘さは、少しずつ隠しきれなくなる。
次話、第45話「王都の街で〜前編〜」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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