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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第43話 光に触れた夜


その日も執務室には、紙とペンの擦れる音だけが響いていた。

窓の外は橙に染まり、蝋燭の炎が揺れる静かな部屋に、夜の気配がゆっくりと忍び寄る。


セレストは疲れを悟られまいと、姿勢を崩さずにペンを走らせていた。

ネイサンも黙々と補佐を続けていたが、ふと扉が控えめに叩かれる。


「……セス?」


柔らかく名前を呼ぶ声に、セレストは思わず顔を上げた。

そこには心配そうに立つイエレナの姿があった。

夕陽を受けた髪が淡く光を帯び、まるで温室の花が迷い込んだような錯覚を覚える。


執務室という現実の空間が、ほんの一瞬、色を変えた。


「イェナ……どうしてここに?」


「……あの、セス」


イエレナは少しだけ緊張した様子で、後ろ手に隠していた小さな包みを差し出した。

淡い布に包まれた焼き菓子は、まだほんのり温かいのか、甘い香りがかすかに漂う。


「アンネと一緒に、作ってみたの。……もしよければ、一緒に食べない?」


多くを語らないまま差し出される配慮に、

張りつめていた力が、静かにほどけていく。


頬が自然に緩み、笑みがこぼれる。


「……可愛すぎて、疲れが吹き飛んだ」


本音が、自然に零れた。

イエレナは目を瞬かせ、次の瞬間には頬を染める。


「そ、そんなこと……」


俯く仕草すら愛おしい。


視界に焼きつけるようにその姿を見つめた後、

セレストは静かにネイサンへ視線を向けた。


「――10分休憩。異論は認めない」


有無を言わせぬ声色に、ネイサンは深いため息を落とす。

だが結局は恭しく一礼すると、その場を静かに後にした。


扉が閉まる音を背に、静寂が戻る。

その静けさの中で、セレストは胸の奥の熱を抑え込むように小さく息を吐いた。


あの日、心に線を引いたはずだった。

“光を奪わぬために”と。

けれど、目の前の彼女は、いつもその線を越えて笑う。


無邪気に。

無防備に。


「イェナ……」


その名を呼ぶ声は、自分でも驚くほどかすれていた。


イエレナが机に菓子を並べようと、そっと歩み寄ってくる。

その一歩を、もう止められなかった。


すれ違いざま、彼女の袖が指先をかすめる。たったそれだけで、胸の奥で何かが弾けた。


「癒しが足りなくて……抱きしめていい?」


静かな声。けれどそれは、どこか縋るような響きを帯びている。


イエレナは驚いたように目を瞬かせ、そのまま一瞬だけ迷うように視線を揺らし――やがて、おずおずと頷いた。


小さく、両手を広げるその仕草が、あまりにも無防備であまりにも愛おしくて。

セレストはゆっくりと腕を伸ばし、壊れ物に触れるように彼女を抱き寄せた。


小柄な体が、腕の中にすっぽりと収まる。


細い背に触れた指先。

さらりと流れる柔らかな髪。

腕の中に確かにある、あたたかな体温。


そのひとつひとつが、静かに、けれど確実に自制を削っていく。


首筋から、ふわりと甘い香りが立ちのぼる。


それを吸い込んだ瞬間――胸の奥で、理性に細い亀裂が走った。

息がわずかに乱れ、抱きしめる腕にほんの少しだけ力がこもる。


「……ごめん。嫌だったら、逃げて」


かすかに震えたその声は、踏みとどまろうとする最後の綱のように細く、頼りなかった。


イエレナの鼓動が、胸越しに伝わってくる。

その速さに引き寄せられるように、セレストはゆっくりと顔を寄せた。


――唇が触れる。


ほんの一瞬の、かすかな触れ合い。

ただそれだけで、世界が静かに裏返る。


息が絡み、心臓が強く打つ。

触れてはいけないと、誰よりも分かっているのに――離れられない。


離れかけたその距離を、イエレナがほんのわずかに埋めた。


無意識のまま、追いかけるように。

その小さな動きが、胸に積もっていた抑制を、音もなくほどいていく。


セレストは息を呑み、わずかに角度を変えると、求めるように、確かめるように唇を重ねたまま、触れては離れ、また引き寄せる。

触れるたびにこぼれる彼女の吐息を逃がさぬよう、そっとすくい上げるように抱き寄せながら、その温もりを確かめる。


イエレナの瞳は潤み、呼吸も鼓動も、胸の奥で必死に揺れていた。


やがて、唇がゆっくりと離れる。


額をそっと重ねると、熱を帯びた瑠璃と新緑がすぐ近くで揺れ、触れた場所から互いの温度が静かに溶け合っていった。


「……イェナ」


押し殺したような低い声。

拒まれなかった――その事実だけで、胸の奥が焼けつくように満たされていく。


セレストはそっと彼女の腰へ腕を回す。


「あ……っ」


小さく漏れた息に、逃げる気配がないことを確かめてから、そのままゆっくりと引き寄せ、ソファへと腰を下ろした。

自然と、彼女の体が膝の上へと収まる。


「……セス……っ」


震える声。それでも、離れようとはしない。


縋るように掴まれた衣の感触を確かめながら、その小さな手を包み込む。

そして、そっと額を寄せた。

触れ合う呼吸が重なり、ほどけきらない熱がゆっくりとやわらいでいく。


「……少しだけ、傍にいさせて」


「……うん」


その小さな返事が、夜の静寂に溶けていった。


奪うためではなく、ただ確かめるために――この胸の痛みがもし恋という名を持つのなら、今だけは一人の男として彼女を抱きしめていたいと、そう思った。


静かな部屋に、二人の鼓動が重なり合う。


セレストはその髪にそっと口づけを落とす。

微かな震えごと包み込むように、優しく。


(……もう少しだけ。この現実を忘れて、君を感じていたい)


そう願いながら、腕の中の光を逃がさぬよう、静かに抱きしめた。



◇ ◇ ◇


【ネイサンside】



「……10分休憩。異論は認めない」


そう言い残して執務机を離れた殿下の背を見送りながら、俺は小さく息を吐いた。


あの方が、自ら中断を告げる。それだけで異常事態だ。

殿下は常に冷静で、常に理性的で、私情を挟まぬことを矜持としてきた。


――だが。

“イエレナ様”が絡めば話は別らしい。


(……まったく)


思わず頬が緩む。

驚きと、呆れと、ほんのわずかな安堵が入り混じっていた。


あの方が誰かを想う姿など、これまで一度も見たことがない。

完璧に整えられた理性の鎧。その下に、こんな顔を隠していたとは。


(……悪くない。ようやく“人間”らしくなった)


それが率直な感想だった。


だが執務は執務だ。

書類は感傷を待ってはくれない。


俺は意を決して戸を叩く。


「殿下、お時間です――」


扉を開けた瞬間、息が止まりかけた。

殿下がイエレナ様を後ろから抱き締め、頬を寄せ、まるで世界を手に入れたかのような顔で目を細めている。


あの“静謐の王子”が。


対するイエレナ様は、今にも限界を迎えそうなほど顔を赤くし、

助けを求めるような視線をこちらへ向けてきた。


……なるほど。


「…………殿下、お時間です。執務に戻ってください」


だが、その声にもかかわらず、殿下は離れるどころか、むしろ腕の力をわずかに深めた。


「…………もう少しだけ」


困ったように笑うその顔に、思わず小さく息を吐く。


――本当に、変わられた。

アズベルト殿下。あなたの遺言は、とんでもないものを残してくださった。


内心の感慨を押し込み、俺は腕を組んで平静を装う。


「殿下。もし――あと三日でこの書類の山を片付けられたなら」


机の上の山を、指先で軽く叩く。


「イエレナ様を街へお連れしてはいかがでしょう」


静かな提案。

だが、その効果は即座に現れた。


「えっ……!」


イエレナ様が目を瞬かせるその隣で、殿下の瞳が、はっきりと光を帯びる。


「……いいね、それ」


ああ――その顔だ。

王子ではなく、ただの青年の顔。


「街の案内もしてあげたかったし」


少年のような笑みが浮かぶ。

イエレナ様は戸惑いながらも、小さく「……わかりました」と頷いた。


――そして、その瞬間から。

殿下の動きが、まるで別人のように変わった。


書類を一枚一枚、迷いなく捌いていく。

羽ペンが走るたびに紙がめくられ、机の上の山が、確実に削れていく。

その速度も、精度も、一切の無駄がない。


あの量を三日と見積もったのは――どうやら甘かったらしい。


二日後の夕刻。

机の上は、見事なまでに片付いていた。


「……終わった」


背もたれに体を預ける殿下。その横顔にあるのは、公務を果たした王子のものではなく、明日の逢瀬を待ちきれぬ青年のそれだった。

かくして殿下は、丸一日の休暇を自らの手で勝ち取られたわけだ。


(……最強の動機、か)


イエレナ様は、殿下をここまで動かす。


これほど明確で、これほど強い推進力が他にあるだろうか。

忠誠を誓う身として、これ以上に心強いものはない。


恋は時に、人を鈍らせる。

だが――あの方の場合は、どうやら逆らしい。


ならば、利用しない理由はない。


(……この熱が冷めぬうちに、残りの公務も片付けていただこう)


口元に、わずかな笑みが浮かぶ。


殿下のこれからを思えば。

あの光は、きっと必要になる。


俺は静かに、新たな書類を机の端へと重ねた。


主が“王子”としてだけでなく、“ひとりの人間”として変わっていく――その過程を、これほど誇らしく思う日が来るとは。


悪くない。


実に――悪くない。



【 次回予告 】


夜の余韻が、まだ消えない。


視線が合わない。

言葉も、うまく続かない。

それなのに――思い出してしまう。


「ふ~ん? 二日前の“考えごと”かな?」


揺れる想いと、止まらない鼓動。

そして――約束された、明日の外出。


次話、第44話「羽音の夜に」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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