第42話 静夜の執務室
【セレストside】
執務室に積み上がった書類の山を前に、セレストは静かにペンを走らせていた。
紙をめくる音と、羽ペンが擦れる微かな音。
そこへ、蝋燭の炎がぱちりと弾ける小さな音が重なり、静寂の中に淡く波紋のように広がっていく。
窓の外はすでに深夜。
薄雲に隠れた月が、ときおりその姿をのぞかせては、机上の紙を淡く白く照らし、またすぐに影の中へと沈んでいく。
溶けかけた蝋の匂いと、乾ききらぬインクの香りが、静かに空気へと滲み込む。
夜の冷気は石壁を通してじわりと室内に満ち、気づかぬうちに、すべてをゆっくりと冷ましていくようだった。
それでも――
止まることのないペン先だけが、この静かな夜の中で、確かに動き続けている。
「……ふう。書類って、どうしてこう減らないんだろう」
独り言のつもりでこぼした言葉だったが、すぐ隣から間を置かずに声が返った。
「減らすより増やす方が得意なお方がいるからですよ」
顔を上げれば、すぐ横に控えるネイサン。
無駄のない所作で書類を仕分けながら、まるで天気の話でもするかのように皮肉を差し込んでくる。
「兄上たちのことかな? それとも……まさか僕じゃないよね?」
「両方です」
一拍の迷いもない返答に、セレストは肩を揺らして笑った。
「僕もなんだ。投げ出すとでも?」
「ええ。実際に投げ出されたことはありませんが……」
ネイサンは整然と書類を揃えながら、ほんのわずかに口元を緩める。
「セレスト様は“笑顔で書類を燃やしそう”な雰囲気を出される時がありますので。監視は必要かと」
ペン先が止まり、セレストはゆっくりと顔を上げた。
にやりと口角が上がる。
「……随分な評価だね。僕の従者は毒舌家が多いのは何故なんだろう」
「遠慮なく、と仰ったのは殿下です」
「はは……確かに」
小さな笑いが零れる。けれど夜の静けさの中では、それさえもすぐに薄く溶けていく。
再び視線を紙へ落とし、次の書類へと手を伸ばした、その瞬間――
ネイサンが、ふと声の温度を変えた。
「……ただ」
紙を揃える音が、わずかに間を置いて響く。
「殿下が本当に投げ出すとしたら、それは“理由”がある時でしょうね」
「理由?」
ペンが、わずかに止まる。
「例えば――イエレナ様を言い訳に」
その名が落ちた瞬間、蝋燭の炎がひときわ大きく揺れ、室内の空気がほんのわずかに重みを帯びた。
ネイサンは気づかぬふりで書類を机の端へ整えながら、淡々と続ける。
「“イエレナ様が心配だから休む”と仰れば、誰も咎めません。むしろ美談になるでしょう」
静かな夜に、その言葉だけが妙に鮮明に響いた。
セレストはペン先を紙の上に止めたまま、ゆっくりと視線を上げる。
「……じゃあ今からイェナの所に行きたいんだけど、美談にしてくれるかな?」
冗談めかした声音。
けれどその奥には、わずかに探る色が混じっていた。
ネイサンは一瞬だけ主を見やり、すぐに視線を戻す。
「それは私情でしょう。手を動かしてください。」
甘さのない一言に、セレストは微かに息を吐き、小さく笑った。
「ずいぶんと手厳しいな」
「事実のみを申し上げております」
短い返答。だが、その奥には揺るぎない信頼がある。
セレストは背もたれにわずかに体を預け、肩の力を抜いた。
「……君は、本当に忖度がないね」
「殿下がそれをお望みだからです」
間髪入れない返答が落ち、静かな執務室の中で蝋燭の炎だけがゆらりと揺れた。
セレストは目を細める。
「もし僕が、イェナを理由に本当に机を離れたら?」
今度は、笑っていない。
ネイサンはわずかに手を止めた。
「その時は――殿下が“王子”としてではなく、“一人の男”として選んだのだと理解いたしますが……現段階では、ただの怠け者になりますね」
淡々としたその一言に、空気がほんの少しだけ重くなる。
セレストは視線を落とした。
机の上の書類が、やけに遠く感じる。
胸の奥にある答えは、もう自分でも分かっているのに。
「……困ったな」
かすれた笑いが、静かに零れた。
イエレナの名が、頭の中で消えずに残る。
――昼間の彼女の笑顔。
緊張しながらも、どこか懸命に微笑んでいた横顔。
屋敷に馴染もうとする、小さな背中。
“私に出来ることはあるかな”
報告にあがったその呟きが、静かに胸の奥をかすめた。
(……言い訳にするつもりはない)
そう思いながらも、
もし彼女が本当に泣いていたら、もしここにいることを後悔していたなら――
そのとき自分は、王家の務めよりも、目の前の書類の山よりも、きっと彼女を優先する。
“ただの怠け者”と揶揄されたとしても、その事実を否定できなかった。
ゆっくりとペンを走らせる。
けれど文字を追う視線はどこか遠く、意識だけが別の場所へ引かれていく。
王子としての自分と、一人の男としての自分――その境界が静かに揺らぎ、曖昧になっていくのを感じながら、セレストはわずかに息を吐いた。
そして、揺らぐ思考を振り払うように、再びペンを走らせる。
◇ ◇ ◇
やがて、再び静寂が戻る。
羽ペンの擦れる音と、紙をめくる乾いた音だけが重なり合い、それだけが淡々と夜の時間を刻んでいた。
蝋燭は半ばまで溶け、炎は少し低く揺れている。
机の端に積まれた書類は減ったようでいて、なお山の形を崩さず、静かにそこに在り続けていた。
数枚目を書き終えたところで、セレストはふと手を止め、ぽつりと呟く。
「……糖分がほしい」
ネイサンは眉ひとつ動かさず、整然と仕分けた書類を重ねながら淡々と答えた。
「でしたら、執務を終わらせてから召し上がってください」
「今ほしいんだよね」
セレストはペンをくるりと指先で回す。
「できれば甘いケーキとか。クリームが多いやつ」
「残念ながら厨房はすでに片付いております」
一切の情けもない返答に、セレストは大げさに肩を落とし、わざとらしく息をついた。
「……主人が、疲れてるのに」
「ご存じでしょうが、私は甘やかす役ではありません」
さらりと一刀両断。
セレストはペンを置き、椅子の背に体を預けると、天井を見上げてわざとらしく目を細めた。
「……イェナなら笑顔で持って来てくれると思うんだ」
その名が零れた瞬間、室内の空気がほんのわずかに変わる。
ネイサンはぴくりとも表情を動かさない。
「ええ。イエレナ様はそうでしょう。」
一拍置いてから、冷ややかに付け加えた。
「ですが、私はイエレナ様ではありません。甘えられても困ります」
冷ややかな声だが、そこに棘はない。
ただ事実を述べているだけだった。
セレストはくすりと笑う。
「……ああ、本当に良く出来た従者だよ」
皮肉交じりの言葉にも、ネイサンは意に介さず、淡々と一礼する。
「お褒めいただき光栄です」
その声は冷静なまま、揺るぎない忠誠だけを滲ませていた。
セレストはその横顔を一瞬だけ見やり、それからふと窓辺へと視線を向ける。
夜の帳はすでに深く、王都は静かに眠りへ沈んでいる。
遠くの塔の上に、小さな灯がひとつ――彼女の部屋の方角。
胸の奥が、わずかに温む。
それは疲労とは違う、やわらかな熱だった。
指先に残るインクの匂いに、ふと重なるように思い出す、花の淡い香り。
昼間、髪に触れたときの感触と、恥ずかしそうに伏せられた瞳。
(……困ったな)
無意識のうちに、思考が彼女へと引き寄せられていく。
甘えられないのは、ネイサンの言う通り。
それでも――甘えたいと思ってしまう相手がいること自体が、すでに答えなのかもしれない。
「……さて」
静かに息を吐く。
「もう少しだけ、頑張ろうか」
自分に言い聞かせるように呟き、セレストは静かに息を吐いた。
蝋燭の炎がゆらりと揺れ、紙の上に淡い光を落とす。
その中で、ペン先が再び静かに走り出した。
王子としての夜は、まだ終わらない。
けれど――胸の奥には、確かにひとつの灯が宿っている。
静まり返った執務室に、紙をめくる音がまたひとつ重なり、夜は何事もなかったかのように続いていく。
ただ、その先に“帰る場所”があることだけが、今までと違っていた。
【 次回予告 】
静かな執務室に、夜が落ちる。
差し出された焼き菓子と、
やわらかな気遣い。
「癒しが足りなくて……抱きしめていい?」
揺らぐ理性。
触れてしまった光。
それは、もう引き返せない夜のはじまり――
次話、第43話「光に触れた夜」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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