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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第40話 静夜に滲む想い


夕刻。


王都の空がゆるやかに群青へと沈み、

ひとつ、またひとつと星が灯りはじめるころ。


政務を終え、わずかに肩の力を抜きながら私邸へ戻ったセレストは、玄関先に立つ小さな影を見つけ足を止めた。

淡い灯りの下に、イエレナがいる。


待っていたのだと、ひと目で分かった。


「……ただいま」


低く落ち着いた声が、夜気に溶ける。


その声に、イエレナはぱっと顔を上げた。

一瞬だけ背筋を伸ばし――けれどすぐに、安堵の滲んだ笑みがこぼれる。


「お、おかえりなさい……」


まだ少し緊張の残る声。

けれど、その立ち方はもう昨日とは違っていた。


恐る恐るではなく、静かにその場に馴染んでいて――どこかやわらいでいる。


その姿に、胸の奥がじわりと温まる。


気づけば、自然と歩み寄っていた。


「……夕食はちゃんと食べた?」


「うん、ちゃんと食べたよ。……セス、忙しそうだね」


上目遣いに見上げるその瞳が、どこか心配そうで、胸の奥が甘く疼く。

セレストは小さく息を吐き、穏やかに微笑んだ。


「……少しね。タイミングが重なってしまっただけだよ」


ほんのわずかな疲労はある。

だが、それを悟らせるつもりはなかった。


「何かあれば遠慮なく双子たちを頼っていい。君ひとりで抱え込まないようにね」


そう言いながら、セレストはそっと手を伸ばす。


指先が、淡い髪に触れた。

さらりと流れる感触と、夜気に混じる花のやわらかな香りが、静かに指先をくすぐる。


ほんの一瞬、時間が止まったように感じた。


イエレナは驚いたように瞬きをし――けれどすぐに、安心したように目を細める。

その無防備な微笑みが、胸の奥をやわらかく揺らした。


理性が、わずかに軋む。


抱き寄せたい――

このまま、夜の闇に紛れてしまえたらと、ふとよぎる。


けれどその想いを押し留めるように、セレストは指先に残る温もりをゆっくりと離し、名残を隠すように静かに手を下ろした。


そのとき――


「殿下」


ネイサンが静かに歩み寄る。

低く抑えた声が、現実を連れてくる。


「王室より、追加の書類が届いております」


夜の空気が、わずかに張りつめた。

セレストはほんの少しだけ目を伏せ、それから短く応じる。


「……そうか」


指先に残る温もりが、ほんのわずかに遠のいていく

その感触を逃がさないようにするかのように、無意識に指を握りしめてから、セレストはゆっくりとイエレナへ向き直った。


彼女は、不安を隠しきれない瞳でこちらを見上げている。


「……セスは、またお仕事?」


ただ、心配そうに。

その視線を受けて、セレストは小さく笑い、静かに頷いた。


「ごめん。少しだけ、処理しておかないといけない書類があってね。……後で、イェナの部屋に伺うよ」


そう告げながら、わずかに視線を和らげる。

“後で”という約束が、自分にとっても救いになっていることを、彼はどこかで理解していた。


「……無理しないでね」


「……ありがとう。」


ただ心配しているだけの言葉なのに、その一言がどんな励ましよりもやさしく胸に響く。


自然と表情がほどけ、口元にやわらかな笑みが浮かぶ。

その奥に、彼女への想いが淡く滲んでいた。


守りたい――そう思うだけでなく、守られているのだと気づいてしまう。


イエレナは小さく会釈すると、廊下の向こうへと歩き出す。

薄灯りに溶けていくその背を、セレストはしばらく見送った。


曲がり角で姿が消えた瞬間、胸の奥に残っていた温もりが支えのように、確かなものへと静かに形を変える。


ひとつ、深く息を吐くと――セレストは歩き出した。


足音が、静まり返った廊下に規則正しく響く。

遠くには、執務室の灯りが揺れている。


そこにあるのは、王家としての責務。


甘い余韻を胸の奥へとしまい込み、彼は再び〈静謐の王子〉の顔へと戻る。

それでも、先ほどまで触れていた温もりは消えず、確かに胸の奥で灯り続けていた。


そのぬくもりを抱いたまま、セレストは執務室の扉へと手を伸ばす。


――夜は、まだ長い。



◇ ◇ ◇



執務室の扉を開いた瞬間、空気が変わった。


張り詰めた静寂が冷たい夜気とともに肌を撫で、廊下に残してきた温もりがすっと遠のいていく。


机の上には、積み重なった文書の山。

蝋燭の灯が紙の縁を照らし、揺れる影が壁を這う。

溶けかけた蝋の匂いに、乾ききらないインクの香りがわずかに混じっていた。


ここは、甘さを許さない場所だ。


――私邸に移って、まだ数日。


それを待っていたかのように、王室からの書簡が次々と送り込まれてきた。


無駄に分厚い封蝋に、無駄に形式ばった文面。

そして、そのほとんどが――兄上、ラファエル関連の案件。


期日ぎりぎりのものばかりということは、兄上が意図的に手をつけず、レオニスも処理しきれなかったものが回ってきた、ということだろう。


ふっと、静かな苦笑が漏れる。


「……見事だな」


責めるでもなく、呆れるでもなく――むしろその読みの深さに、わずかに感嘆が滲む。


「イェナが落ち着くまでは、少し手を緩めようと思っていたのに……先を読まれたかな」


羽ペンを取る指先が、ほんのわずかに止まる。


兄は、いつだって数手先にいる。


小さく息をつき、セレストは再び紙の束へと視線を落とした。

王家の務めは、感情の隙を許さない。


――彼の夜は、まだ終わらない。


静寂の中、控えめなノックが響いた。


「……どうぞ」


扉を開けて入ってきたのはレーネだった。

夜灯に照らされた銀灰の髪が、淡く光を弾き、その手には整然とまとめられた日誌の束がある。


「殿下。イエレナ様の本日のお過ごしについて、ご報告を」


声音はいつもと変わらず冷静だが、その奥にほんのわずかな柔らかさが混じっていた。

セレストは羽ペンを静かに置き、姿勢を正す。


「うん、聞かせて」


「午前は邸内のご案内を。途中でアウル殿とギウン殿の稽古場に立ち寄られました。

イエレナ様は礼を尽くされ、騎士団員も感銘を受けていたようです」


その報告に、セレストの目元がわずかに和らぐ。

胸の奥に、小さな誇らしさが静かに灯った。


「午後は庭園にてお茶を。終始、周囲へ気を配りながらも表情は柔らかく、少しずつ邸に馴染まれているご様子でした」


言葉を受け止めるように、セレストはゆっくりと目を伏せる。

喉の奥に、じんわりとした熱が滲んだ。


彼女はもう、“守られるだけ”ではない。

この邸の空気に、自らの温度を重ね始めている。


「……そう」


短い返答。

けれどその声音は、かすかに柔らいでいた。


胸の奥に、確かな安堵が広がっていく。


レーネは一拍の間を置き、静かに言葉を継ぐ。


「ただ――一度だけ。“私に出来ることはあるかな”と……そう、囁かれておりました」


その瞬間、羽ペンを持つ手が止まる。

瑠璃色の瞳が、わずかに揺れた。


「……“私に出来ること”、か」


低く掠れた声が、揺れる灯りの中に溶けていく。


レーネは淡々と頷く。

その表情は変わらないが、観察者としての確かな確信がそこにはあった。


「真意までは測りかねます。ただ……いつもより僅かに焦燥に近い揺らぎを感じ、殿下にはお伝えすべきかと判断いたしました」


しばしの沈黙が落ちる。

視線は書類の上に落ちたまま、動かない。


蝋燭の炎が揺れ、淡い光が横顔をなぞる。

その一瞬、かすかに苦い影が差した。


「……ありがとう、レーネ」


小さな礼の言葉に、レーネは静かに一礼し、そのまま音もなく扉を閉める。


再び訪れる、重たい静寂。

積み上がった書類と、揺れる灯。


その中心に座る彼は――王子であり、同時にひとりの男でもあった。


――イェナ。

君は一体、どこまで背負うつもりなんだ。


役に立とうとすることが、そのまま“ここにいる理由”になってしまっている。

それが痛いほど分かるからこそ、胸の奥が静かに軋む。


セレストは、ゆっくりと目を閉じる。


ここにいていいと――そう伝えたはずなのに。

守りたいと願ったはずなのに、知らぬうちに彼女へ何かを背負わせているのではないか。

そんな思いが、胸の奥に淡い影を落としていく。


ふと、意識が扉へと向いた。


――後で部屋に伺うよ。


交わした約束が、静かに重みを帯びて胸に残る。

その余韻を振り払うように、セレストは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。


向かう先は、イエレナの私室。


廊下へ出ると、夜の空気がひやりと頬を撫でる。

灯りの落とされた静かな空間に、自分の足音だけが規則正しく響き、その一歩ごとに思考が少しずつ研ぎ澄まされていく。


やがて目的の扉の前に立ち、指先で軽くノックを落とす。


返事はない。


わずかな間を置き、もう一度だけ控えめに叩くと、静寂がそのまま返ってくる

セレストは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息をついた。


「……失礼するよ」


扉をわずかに開くと、やわらかな灯りが静かに流れ込んだ。


視線の先、ソファの上に小さな影。

イエレナは身を横たえたまま、浅い呼吸で穏やかな寝息を立てている。


待っていたのだと分かる、その姿勢に――胸の奥がきゅっと締めつけられた。


「セス〜! よかった〜!」


小さく弾む声。

振り向けば、リリュエルが羽をばたつかせながら駆け寄ってくる。


「イェナ、セスを待つって言ってたのに、ソファで寝ちゃったの〜」


その言葉に、セレストは一度だけ目を瞬かせ、それからふっと笑みをこぼした。


「……そっか。遅くなっちゃったね」


静かに歩み寄る。


規則正しい寝息。

頬にかかった前髪が、呼吸に合わせてわずかに揺れている。


指先を伸ばし、そっとその髪を払う。

触れた瞬間、かすかな温もりが指に残った。


「イェナ、寝るならベッドで寝よう」


「……ん……」


眠りの底に沈んだまま、小さく身じろぐ。

その無防備さに、胸の奥が静かに軋んだ。


セレストは腕を差し入れ、壊れものを扱うように慎重に彼女を抱き上げる。


軽い。それなのに、腕の中に収まる温もりは驚くほど確かで――

思わず抱き寄せたくなる衝動を、わずかに息を詰めて押しとどめた。


ゆっくりとベッドへと運び、シーツの上にそっと寝かせる。

乱れた髪を整え、掛け布を引き上げる指先が、ほんの一瞬だけ名残を惜しむように止まった。


そのとき――


「セスはイェナのこと、好き?」


不意に落ちた問い。

あまりに率直で、飾り気のないリリュエルの声に、思わず苦笑がこぼれる。


「……好きだけど、どうかした?」


リリュエルはふわりと宙に浮かびながら、少しだけ真剣な顔をした。


「ボクもイェナのこと大好き〜! でもね、イェナって恥ずかしがり屋で、自分のことあんまり話してくれないでしょ? たまにね、寂しくなるんだ」


その言葉に、セレストの瞳がわずかに揺れる。

――まるで、自分の胸の奥をそのまま掬い上げられたように。


「……確かに、そうかもね。じゃあ、イェナが話したくなった時に、たくさん聞いてあげよう」


そう言って小さく笑みを落としながら、眠るイエレナの頬へそっと指を伸ばす。


触れた瞬間、彼女はかすかに身じろぎ――

無意識のまま、その手に頬を寄せた。


甘えるように、縋るように。

そのあまりに自然な仕草に、胸の奥がきゅっと締めつけられる。


――こうして眠っている時は、こんなにも素直なのに。


起きている時は、どこか一歩引いてしまう。

自分を差し出そうとして、その奥を隠してしまうように。


指先に残る温もりを確かめるように、ほんのわずかに動きを止める。


それから、小さく息を吐いた。


「……焦らなくていい」


それは彼女へ向けた言葉であり、同時に自分への戒めでもあった。


頬に触れていた手を、名残を辿るようにゆっくりと撫でて――

それでも眠りを乱さぬよう、そっと離す。


離したくない、という衝動を押しとどめながら。


「おやすみ、イェナ。」


低く、やわらかな囁きが、灯りの揺らぎに溶けていく。

静かな夜が、二人を包み込む。


やがてセレストは――彼女の温もりを胸に残したまま、そっと立ち上がった。


「リリュエルも、もう遅い。ゆっくり休むんだよ……おやすみ。」


低く、穏やかな声。

やかな声に、リリュエルはぱちりと瞬きをしてから、ふわりと笑った。


「うんっ! セスもね!」


小さな羽音が灯りの周りをくるりと巡り、やがてイエレナの枕元へと静かに降りていく。


【 次回予告 】


春の朝。

少しずつ慣れてきた王都の邸で――


ふと知ることになる、セレストの私室の場所。


そして、その間に設えられていたのは――

まさかの「夫婦の間」


「婚約者だからこそ、当然です」


淡々と告げる双子。

止まらない心臓。


契約のはずの関係なのに、胸に広がるこの温もりは――?


亡国の姫の想いは、

まだ名前のないまま、少しずつ色づいていく。


次話、第41話「夫婦の間」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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