第39話 邸に満ちる光~後編~
レーネに連れられ、小道を抜ける。
石畳の先、朝露を含んだ芝が淡く光っている。
中庭へと通じるその先には、すでに白布を掛けた小さなテーブルと椅子が整えられていた。
淡い光を受けた銀器が、ひときわ静かにきらめく。
花の香りが風に溶け、やわらかく漂っていた。
「わぁ!お茶!お菓子あるかな?」
リリュエルが弾む声でくるりと宙を舞う。
その羽が陽光を受け、虹色に瞬いた。
レーネはわずかに目元を和らげながら、無駄のない所作でティーセットを整えていく。
カップを並べ、ポットを置き、菓子皿をそっと添える。
動きは静かで、けれどそこには確かな気遣いの温度があった。
噴水の水音を背に、花々の香りに包まれる。
イエレナは差し出された椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に張りついていた緊張が、すっとほどけていく。
「……ありがとう、レーネ」
「お気遣いなく。イエレナ様が穏やかであれば、それで十分です」
その穏やかな返しに、イエレナはふっと頬を緩ませた。
ほどなくしてアンネも合流し、白布の上に色鮮やかな菓子が並べられていく。
薔薇を模した砂糖菓子。
果実をふんだんに使った小さなタルト。
薄く艶めくゼリー菓子が陽光を受けて透き通る。
「わぁ!すごいすごい!」
リリュエルが嬉々としてテーブルの上を飛び回り、
タルトを覗き込んで目を輝かせる。
「ねぇねぇイェナ、これ食べていい? ボクはこっちのがいい!」
「もう……落ち着いて」
苦笑しながらも、イエレナの声は柔らかい。
その無邪気さに、胸に残っていた緊張がするりとほどけていく。
アンネは静かにティーポットを傾け、カップへと紅茶を注ぐ。
琥珀色の液面に小さな泡が揺れ、上品な香りが立ちのぼった。
「イエレナ様、こちらは本日のために特別に調合した茶葉でございます。お口に合うとよいのですが」
「……ありがとう」
カップを両手で包み込むように持ち上げ、イエレナは小さく口をつけた。
柔らかな香りが舌に広がり、喉の奥へと穏やかに流れていく。
思わず、ふう、と息が零れた。
「……とても、優しい味」
「それはよかったです」
アンネの声音は変わらず静かだが、
ほんのわずかに誇らしさが滲んでいる。
レーネは隣で控えながら、
イエレナがリリュエルに微笑む姿をそっと一瞥した。
そして、ほんの僅かに目元を和らげる。
「……イエレナ様が笑っていると、屋敷の空気まで柔らかくなる気がいたします」
「え……? あ、あの……」
イエレナは頬を染め、困ったように視線を伏せた。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
噴水の水音と鳥の囀りが重なり、
陽光が花々を照らしている。
その午後は、王都で過ごす彼女にとって初めての――“守られる”だけではない安らぎの時間だった。
まるであの光景が、すべて夢だったのではないかと錯覚してしまうほど。
母国へ帰れば、扉を開けた先で笑顔が待っているのではないかと――
そんな淡い幻想を、ほんの一瞬だけ抱いてしまうほどの穏やかさ。
(そんなはず、ないのに)
分かっている。
すべては失われたのだと、知っている。理解している。
それでも未だに、ほんの一瞬だけ現実から目を逸らしてしまう自分が、情けない。
そのうえ――第一王子ラファエル殿下にも、自分の意思を伝えた。
セレストの隣にいたいと。
その覚悟があるのだと。
そう言葉にしたのは、ほかでもない自分だ。
だからこそ、頑張っていないと壊れてしまいそうで、頑張らなければここにいてはいけない気がしてしまう。
何かをしていなければ、ここにいる理由さえ失ってしまいそうで――胸の奥が、ふと冷たくなった。
知らないことばかりで、分からないことばかり。
こんなにも自分のことで精一杯なのに、それでもこれからはセレストの婚約者としての務めも果たしていかなければならない。
知らなきゃ。
考えなきゃ。
応えなきゃ。
役に立たなきゃ。
胸の奥で、言葉だけが小さく繰り返される。
そのとき、紅茶の香りがふわりと立ちのぼった。
湯気がゆらぎ、やさしい温もりが静かに広がっていく。
イエレナはその温かさを確かめるように、カップをそっと両手で包み込んだ。
指先にわずかな力を込め、震えを隠すようにぎゅっと抱える。
それから、ほんの小さな声で呟く。
「……なんか、私に出来ること……あるかな?」
風に溶けるような、かすかな呟き。
けれど、それは確かにレーネとアンネの耳に届いていた。
レーネはティーポットをそっと置き、きょとんと首を傾げる。
「……まずは、ここでの暮らしを楽しんでいただくことが最重要点です」
真顔で、迷いのない断言。
あまりにも即答で、あまりにも揺らぎがない。
「え……暮らしを、楽しむ……?」
思いがけない答えに、イエレナはぱちぱちと瞬きを繰り返す。
アンネも静かに頷いた。
「同感です。イエレナ様が無理をなさっては、私どもが困ります。
ですから――心穏やかに日々をお過ごしくださいませ」
やわらかな微笑み。
それでも、その声は少しも揺らがなかった。
役に立つことより、無事でいること。
尽くすことより、笑っていること――
この邸はきっと、そういう場所なのだと、イエレナはふと思った。
「……そ、それでいいのかな」
戸惑いを滲ませた、小さな声。
“何かを差し出さなければ”と、ずっと思ってきた。
何もせず、ただここにいるだけでいいと言われることが、こんなにも落ち着かないなんて。
けれど胸の奥で、ほんのわずかに何かがほどける。
(……セスの周りは、いつもあたたかいな)
そう思った瞬間、胸の奥がふわりと緩んだ。
彼自身が、というよりも――
彼のそばにいる人たちが。
穏やかで、静かで、けれど確かな優しさを持っている。
守ろうとしてくれる人。
支えようとしてくれる人。
無理をしなくていいと、真顔で言ってくれる人。
それはきっと、彼が築いてきたもの。
(……セスが、あたたかいから)
光の中心に立つ人は、ただ眩しいだけではいられない。
その周りに、やわらかな温度を生み出せる人なのだと、静かに気づいた。
だからこそ――
(……私も、その中にいていいのかな)
胸の奥で、そっと問いかける。
あの温かな輪の中に、自分が混じってもいいのだろうか。
(迷惑に、ならないかな。傷つけることに、ならないかな)
失うことを知っているから。
守れなかった過去を抱えているから。
自分が関わることで、誰かに影を落としてしまうのではないか――
どうしても、そんなことを考えてしまう。
分かっている。
今の自分に出来ることなんて、ほとんどない。
それでも、その事実が胸の奥で小さく引っかかる。
何も出来ないままここにいる自分が、どうしようもなくもどかしい。
何かを返せるほど強くもなく、
誰かを支えられるほど賢くもない。
ただ、ここで紅茶を抱えているだけの自分。
――情けない。
そう思いかけた、そのとき。
隣から、明るい声が弾けた。
「そうそう! イェナが楽しそうにしてたら、ボクも嬉しいし!
ね? ボクたち、イェナの笑顔が大好きなんだよ」
リリュエルがタルトをかじりながら、無邪気に笑う。
理屈も、覚悟も、役目も関係ない声。
ただ“好き”という、まっすぐな感情だった。
イエレナは思わず瞬きをする。
胸の奥で、何かがふわりとほどけた。
「っ……」
こぼれそうになった涙を隠すように、そっと俯く。
視界がわずかに滲む。
胸の奥がくすぐったくて、じんわりとあたたかい。
レーネとアンネが、ちらりと視線を交わす。
そしてほんのわずかに、目元を緩めた。
「紅茶が冷めてしまいますよ」
アンネが何事もないように、やさしく声をかける。
見ないふりをしてくれる、その気遣いが――
なぜか、たまらなく嬉しかった。
風がそっと髪を揺らす。
辺境地で絶望の底から引き上げてくれたセレスト。
隣で笑い飛ばしてくれたギウンとアウル。
空気を明るくしてくれたリリュエル。
そして今は、ここにいる。
セスの隣で。
新しい仲間が増えた、この邸で。
イエレナは胸の奥で、ゆっくりと息を整えた。
(……焦るよりも、まずはこの場所で息をすること。
それが、私にできる最初の一歩)
無理に背伸びをしなくてもいい。
辺境地でそうしてきたように、
出来ることを、ひとつずつ。
カップを包む指先に、紅茶の温もり。
その熱が、確かに“いま、ここにいる”実感をくれる。
そしてその温度は――
彼女の中にも、静かに灯り始めていた。
庭園の花々が風に揺れ、光が彼女の髪に溶け込む。
その姿を見守るように、
レーネとアンネ、そしてリリュエルが静かに微笑んでいる。
静謐の邸に、新しい息づかいが重なっていく。
それは――
亡国の姫が“守られる存在”から、
“ここで生きるひとり”へと歩み出す、小さな光。
まだ淡く。
けれど、確かに。
その光は、邸に――そして彼女の内に、満ち始めていた。
【 次回予告 】
夜の邸に、静かな灯が揺れる。
交わされる「ただいま」と「おかえり」。
触れた指先に残る温もり。
抱き寄せたい衝動と、
王子としての責務。
その狭間で――
彼の想いは静かに滲んでいく。
次話、第40話「静夜に滲む想い」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




