第39話 邸に満ちる光~前編~
朝の光が、まだ淡く滲むころ。
イエレナはゆっくりと瞼を開いた。
天蓋のかかったベッド。
高い天井。
重厚なカーテン越しに差し込む、柔らかな光。
見慣れない景色が、ここが王都の邸であることを静かに告げている。
昨夜の出来事が、胸の奥でそっとほどける。
別荘では――たとえ客間であっても、
いつもセレストの気配が近くにあった。
夜の静けさも。朝の光も。
同じ空気を、同じ時間を、彼と分け合っていた。
だからだろうか。
今、この広すぎる静寂が、ほんの少しだけ胸に沁みる。
――少しだけ、さみしい。
声にはならない、小さな本音。
シーツの端をそっと握った、そのとき。
控えめなノックが響いた。
「イエレナ様、お目覚めですか?」
扉が開き、レーネとアンネが息の合った動きで室内に入る。
「おはようございます」
「支度を始めますね」
無駄のない所作。
整えられる寝具。
肩に掛けられる、肌触りの良いガウン。
洗面台に落ちる水音。
髪を梳く櫛の規則正しい音。
静かな朝の儀式のように、世界がゆっくりと動き出していく。
「今朝は肌の色が良いですね」
「眠れたなら、よかったです。」
淡々とした声色。
けれど、そこに滲むわずかな温度を、イエレナは確かに感じ取る。
胸の奥に残っていた“さみしさ”が、
少しずつ、あたたかい何かに溶けていく。
「ありがとう、ふたりとも。……助かります。」
その言葉に、二人は一瞬だけ目を合わせた。
「「当然のことです」」
短い応酬。
それだけなのに、そこには確かな信頼の芽が宿っていた。
やがて、大きな窓から差し込む朝の光が、静かな部屋をゆっくりと満たしていく。
香ばしいパンの匂い。
果実の甘い香り。
屋敷のどこかから漂ってくるその気配に、朝食の時間が訪れたことを知る。
身支度を整え、食堂へ足を運ぶ。
テーブル越しにその姿を見つけた瞬間、胸の奥に、ふっと小さな灯がともった。
銀白の髪に朝の光が溶け込み、
瑠璃の瞳が穏やかに細められている。
――セレスト。
その姿があるだけで、まだ慣れないこの邸の空気が、やわらかく明るく感じられた。
すると彼がこちらに気づき、いつもの穏やかな声で問いかける。
「今日は何をするの?」
パンをちぎりながら問う声は、どこか優しい日常の響きを持っていた。
「……邸宅の案内を、レーネにお願いしてあるの」
「そうか。ゆっくり覚えてくれればいいよ」
セレストは微笑み、紅茶を一口含む。
「本当は僕が案内したかったんだけど……書類が山積みでね」
少しだけ肩を竦める仕草に、王子ではなく年相応の青年の影が覗く。
「ふふ……お疲れ様です。」
イエレナの笑みも、今朝はどこか自然だった。
まだ慣れないはずの邸で、こうして向かい合って朝食をとっている――それだけで、胸の奥の緊張が少しずつほどけていく。
「何かあればレーネとアンネに言って。大抵のことは解決してくれるから」
「……うん」
小さく頷く。
その言葉に、思わず頬が緩んだ。
“ひとりではない”という安心が、胸の奥で静かに広がっていく。
◇ ◇ ◇
――食後。
やがてレーネが姿を現し、静かに一礼した。
「ご準備が整いました。……ご案内いたします」
その言葉に、イエレナは少し緊張したように小さく頷く。
すると、その肩へふわりと小さな羽音が降り立った。
「ボクも行く~! 広いお屋敷探検だっ♪」
リリュエルが金色の瞳をきらきらと輝かせながら、くるりと宙を舞う。その無邪気な様子に、イエレナの唇が自然と綻んだ。
「じゃあ……よろしくお願いします、レーネ」
決意を込めた、やわらかな声。
レーネは静かに頷くと、すっと一歩前へ出て先導する。
扉を抜けて中庭に出た瞬間、朝露を纏った花々が視界いっぱいに広がった。
斜めから差し込む朝の光が葉先を宝石のように照らし、白い石の噴水からは澄んだ水音がやさしく響いている。
風が吹き抜け、淡い花の香りがふわりと運ばれてきた。
思わずイエレナの瞳が輝く。
「わぁ……綺麗」
思わず零れたその声に、レーネがふと表情を和らげ、淡々と説明を添える。
「春から夏にかけて、この花壇に薬草を植えます。セレスト様のお好みで」
“お好みで”。その言葉に、イエレナの胸がほんの少しだけ温かくなる。
この庭の景色の中に、彼の気配が静かに溶け込んでいる気がした。
「この先は離れの書庫へと続く通路です」
レーネが白い石畳の先を指し示す。
視線の先には、蔦の絡む回廊が長く伸びていた。
差し込む陽光と影がまだらに石畳へ落ち、静かな道をやわらかく彩っている。
「……どこもかしこも広いね~」
リリュエルがくるりと空中で回転しながら呟く。
その様子に、イエレナは小さく笑った。
「ふふ、ほんとだね」
広さに少し圧倒されながらも、
この空間の中に自分の居場所を見つけようと、そっと息を吸い込む。
――そのとき。
通路の先から、鋭い剣戟の音が響いた。
金属がぶつかり合う高い音が廊下に反響し、空気が一瞬で張りつめる。
騎士たちがはっと顔を上げ、音の方へ振り向いた。
次の瞬間――
「セレスト様の婚約者様だぞ、無礼は慎め!」
鋭い声が飛び、張りつめた緊張と敬意が入り混じった視線が一斉にイエレナへ向けられる。
(……あ……)
胸が、わずかに強く脈打った。
けれどイエレナは、ゆっくりと背筋を伸ばすと、小さく会釈を返す。
丁寧に、揺れないように。
その落ち着いた仕草に、場の空気がふっと和らいだ。
張りつめていた空気がほどけるように静まり、騎士たちの視線もどこかやわらぐ。
「おぉ、姫さん!」
ギウンが大剣を肩に担ぎ、豪快に笑った。
「……姫様」
アウルは双剣を納めると、静かに敬礼する。
変わらぬ二人の姿に、イエレナの胸の奥が少しだけほどけた。
「稽古の最中にごめんなさい」
そう言って小さく頭を下げると、
「……いえ。お姿を拝めただけでも士気が上がります」
凛とした声が返る。
その一言に、張りつめていた訓練場の空気がどこかやわらぎ、騎士たちの表情にもわずかな温かさが滲んだ。
(……“婚約者”なんだ)
まだ慣れない呼び名に、ほんの少しためらいが胸をよぎる。
それでも逃げることなく、イエレナは背筋を伸ばし、静かな微笑みでその場に立った。
それから騎士たちと短く言葉を交わし、庭園を抜け、書庫の前を過ぎて廊下を進む。
その先で――執事長ヴァイゼンが姿を現した。
「イエレナ様、邸内のご見学はいかがですか」
落ち着いた低い声。
その響きに、イエレナは肩の力をほんの少し抜き、やわらかく微笑む。
「……まだ夢を見ているようです」
自分でも驚くほど、素直な言葉だった。
ヴァイゼンはわずかに目を細める。
「いずれ自然に馴染まれるでしょう。坊ちゃんの隣におられるのですから」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
まだ自信はない。けれど――否定することもできなかった。
ふと横を見ると、ネイサンがヴァイゼンの隣に静かに控えている。
風さえ動きを止めたかのような静けさの中で、ただそこに立っていた。
視線を向けると、彼は一歩も動かず、丁寧に一礼を返す。
言葉はない。
それでも、その沈黙は確かな敬意だった。
回廊の大きな窓の向こうでは、庭園の噴水が陽光を受けてきらめいていた。
揺れる水面に光が反射し、きらきらと細かな輝きを散らしている。
「……すごい……」
思わず零れた声は、子どものように素直だった。
その呟きに、隣を歩くレーネがわずかに表情を和らげる。
「イエレナ様、今日一日で屋敷のすべてをご覧になるのは、きっと大変かと存じます」
いつもと変わらぬ落ち着いた声音。
けれど、その視線にはほんの少しだけ気遣いが宿っていた。
「……あ、やっぱり……」
図星を突かれたように、イエレナは小さく笑う。
気づかないうちに肩へ力が入っていたらしい。
“婚約者”という呼び名。
そして、セレストの隣に立つということ。
その重みが、知らぬうちに背筋を張らせていた。
レーネは一歩控えた位置のまま、やわらかく言葉を続ける。
「庭園にはお茶の用意も整っております。少し休憩にいたしませんか?」
その丁寧な言い回しは、命令でも提案でもなく、ただそっと差し出された“逃げ道”のようだった。
(……大丈夫って、言ってくれてるみたい)
胸の奥が、ふっとほどける。
「……うん」
頷いた声は、先ほどよりも少し軽い。
光の差す廊下で、イエレナは深く息を吸い込んだ。
焦らなくていい。ここで、息をしていていい。
そう思えたのは――きっと、この邸がほんの少し近づいたから。
静謐の邸の中で、穏やかな時間がまたひとつ、確かに彼女を包み込んでいた。
【 次回予告 】
静謐の邸に、穏やかな午後が訪れる。
差し出される紅茶。
守ろうとする人たちの優しさ。
「イエレナ様が穏やかであれば、それで十分です」
守られるだけの存在ではなく、
ここで生きるひとりとして――
亡国の姫の胸に、
新しい光が満ちていく。
次話、第39話「邸に満ちる光~後編~」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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