第38話 静謐の邸
イエレナはセレストに手を引かれ、静かな廊下を歩いていた。
足音は自然と揃い、窓辺に並ぶ燭台の灯りがゆらりと揺れる。
夜の屋敷は静まり返り、遠くで食堂の灯りだけがやわらかく浮かんでいた。
その光が近づいてきた頃――
イエレナは、そっと彼の袖口をつまむ。
ほんの指先だけの、小さな力。
呼び止めるほどではない。
けれど、離れてしまうのも少し怖い――そんな曖昧な距離を保つような仕草だった。
言葉はない。
それでも、その指先に込められた緊張と安堵、
そして“ここにいていいのかな”という微かな不安まで、セレストには伝わっていた。
彼は振り返ることはなく、ただ繋いだ手にわずかに力を返し、歩幅をほんの少しだけ緩める。
まるでそれが最初からそうであったかのように、自然に彼女の歩みに合わせた。
やがて扉が静かに開かれ、食堂の温かな光が二人を迎え入れる。
屋敷の一角にある私的な食堂は、夜の静けさの中で柔らかな温もりを湛えていた。
蝋燭の灯りがゆらめき、白いクロスの上に淡い影を落としている。
丸い食卓を挟んで向かい合い腰を下ろすと、張りつめていた空気がふっとほどけた。
料理はどれも繊細で、それでいてどこか家庭の温もりを思わせる味わいだ。
イエレナはスープをひと口含み、ゆっくりと嚥下する。
「……うん。すごく、おいしい」
素直な笑みがこぼれる。
ふと顔を上げると、セレストが静かに目を細めていた。
その表情は、どこか嬉しそうにやわらいでいる。
「辺境地の時から思ってたけど、イェナは好き嫌いがないね」
「……そんなこと、ないよ? ギウンもアウルも、私の好みに調整しちゃうの」
少し照れたように、視線を逸らす。
「そうだったの?」
セレストはくすりと笑い、ほんの少しだけ意地の悪い色を滲ませた。
「じゃあ、苦手な食べ物を教えて」
「え……その……苦いのは、得意じゃない……かな」
消え入りそうな声で答える。
「ふふ……そういえば、薬はとても苦手そうだったね。
珍しくギウンもアウルも手をこまねいてた」
思い出したように言うと、イエレナの頬が一気に赤く染まった。
「うぅ……あ、あれは……その……。
は、恥ずかしいから記憶から消して」
小さく身を縮める。
その様子に、セレストは肩を揺らして笑った。
「この食事には苦手なものはない?」
くすくすと笑いながら、自然に話題を戻す。
からかいすぎない、その絶妙な引き際。
「……ないよ。全部、美味しい」
はにかむような笑顔。
その顔を見て、セレストはほんの少しだけ胸を撫で下ろした。
「よかった。料理長がきっと喜ぶよ」
そう言いながら、セレストはスープ皿へ視線を落とす。
蝋燭の灯りが揺れる食卓で、
二人の距離はゆっくりと静かに縮まっていった。
ただの食卓。
ただの、静かな夜。
それでも――
それが何より尊い時間だと、セレストは静かに思っていた。
ナイフとフォークが触れ合う小さな音だけが、
控えめに重なっていく。
ふと、思い出したようにセレストが口を開いた。
「食後のデザートはどうする?」
何気ない問いだった。
けれど、その瞬間。
イエレナの肩がぴくりと小さく揺れる。
視線が一瞬だけテーブルの端へ泳ぎ――
「……た、食べる!」
小さく、それでも妙に必死な声。
その反応に、セレストの口元がゆるんだ。
「即答だね」
「だ、だって……甘いのは、好きだもん」
小さく言い訳のように付け足す。
その頬は、ほんのり赤い。
蝋燭の灯りが揺れるたび、
その色がやわらかく浮かび上がっていた。
そのやり取りの後ろで――
控えていたレーネとアンネが、ぼそぼそと囁き合う。
「今夜のメイン、鴨肉のローストは火入れが完璧」
「……あれは見事。中心温度、理想値」
「ソースの香り、少し変わってたわ」
「前はローズマリーが強かったけど、今夜はタイムが優勢」
「いい変化ね」
「うん、とても好み」
料理への情熱が、妙に真剣。
思わずイエレナの唇が緩みかけた、その時――
「……レーネ、アンネ。席の後ろでの私語は慎みなさい」
控えめながらも威厳ある声。
執事長・ヴァイゼンの咳払いが、空気を引き締める。
「申し訳ありません、執事長」
「……反省しています。」
声音は揃っているのに、反省の色はやや薄い。
その微妙な温度差に、セレストが小さく肩を揺らした。
ヴァイゼンは姿勢を正し、静かにイエレナへ向き直る。
「イエレナ様、何か粗相があればいつでもお申しつけください」
「えっ、いえ、そんな……あの、お気遣いなく……!」
慌てて首を振るイエレナ。
その仕草を、双子はじっと観察していた。
やがて、レーネが淡々と口を開く。
「とても寛大なお方」
「うん。話しやすいのよね」
「第一印象も申し分なかった」
「……そう、とても好み」
最後の一言。
空気が一瞬、止まる。
イエレナは思わずスプーンを止めた。
「え……?」
みるみる頬が赤く染まっていく。
その様子を眺めながら、セレストはとうとう堪えきれず、ふっと笑みをこぼした。
「……相性がいいみたいで、安心したよ」
イエレナは俯きながらも、その言葉に小さく頷いた。
穏やかな会話。
時折差し込まれる双子のぼそぼそとした茶々。
それを静かに整えるヴァイゼンの視線。
すべてが溶け合い、柔らかな時間が流れていく。
――それは、遠い日に見た家族の食卓に、どこか似ていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
失ったはずの光が、形を変えてここにあるようで。
――その時。静かに、扉が叩かれた。
控えめだが、迷いのない音。
食堂の空気が、わずかに張りつめる。
従者のネイサンが一礼しながら入室した。
「食事中に失礼いたします、セレスト様」
「……何かあった?」
問いかける声音は穏やかだった。
けれど、その瞳はすでに“王子”のそれに戻っている。
ネイサンは静かに歩み寄り、周囲へ一瞬だけ視線を巡らせてから、セレストの耳元へ身を寄せた。
小声で告げられたのは、ほんの数語。
それだけで、食堂の空気がわずかに変わる。
セレストの表情が、ほんのわずかに引き締まった。
微笑みは消えない。だが、その奥――瞳の深いところに、静かな光が宿る。
「……そうか。分かった」
短く、迷いのない返答だった。
それから彼はゆっくりと顔を上げ、イエレナへ向き直る。
その瞬間、先ほどまで漂っていた王子の気配はすっと薄れ、代わりにいつもの柔らかな微笑みが戻っていた。
「イェナ、この後はゆっくり休むんだよ」
何事もないように。
不安を渡さないように。
「……うん」
イエレナは小さく頷く。
けれど――ほんの一瞬だけ。
その変化を、彼女は見逃さなかった。
微笑みはそのまま、声色も変わらない。
それでも、瞳の奥に宿った光が、ほんの少しだけ鋭くなった気がしたのだ。
セレストは軽く頭を下げ、静かに席を立つ。
椅子が控えめな音を立てて引かれ、彼はネイサンを伴って食堂を後にした。
やがて扉が閉まり、静かな空気が戻る。
かすかな風が流れ、蝋燭の灯りがふっと揺れた。
その揺らぎが、胸の奥に残った小さなざわめきと重なる。
残されたのは、温かな食卓の余韻と――名のつかない、わずかな不安。
(何かあったのかな……)
スプーンを持つ手が、ほんの少しだけ止まる。
(仕事……かな……)
きっと、そうだ。
王子なのだから。
自分の知らないところで、たくさんのものを背負っている。
分かっている。
それでも、ほんの少しだけ。
(……無理、してないといいな)
胸の奥に浮かんだ想いを、そっと飲み込む。
今はまだ、踏み込む勇気がない。
でも――いつか、隣に立てるようになったなら。
その背にそっと触れて、
「大丈夫?」と聞ける自分になりたい。
揺れる灯りの下で、
イエレナは静かに目を伏せた。
【 次回予告 】
慣れない邸で迎える、はじめての朝。
静かな支度。
あたたかな朝食。
そして、差し向けられる優しい視線。
邸を巡るその一歩で、
彼女は初めて“婚約者”として迎えられる。
まだ小さな一歩。
けれど確かに――
亡国の姫は、
この場所で息をし始めていた。
次話、第39話「邸に満ちる光~前編~」
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物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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