第41話 夫婦の間
春の陽が、やわらかく差し込む朝。
王都の私邸に移り住んでから、まもなく一週間が経とうとしていた。
はじめは息が詰まるほど広く感じた屋敷も、いまでは少しずつ“見覚えのある景色”へと変わりつつある。
イエレナはほぼ毎日のように邸内を歩き回り、レーネとアンネに案内されながら、少しずつその広さと間取りを覚えていった。
「こちらは客間です」
「ここは応接室」
「この先は資料室」
丁寧で無駄のない案内の声が、静かな廊下に心地よく響く。
どの部屋も整然としていて、美しく――けれど同時に、どこまでも続く迷宮のようでもあった。
食堂、応接間、温室、回廊……そのひとつひとつを辿っていくうちに、感覚が少しずつ曖昧になっていく。
広大な屋敷を丹念に巡る案内は、結局ひと通り回り終えるまでに三日を要した。
「……ここまで広いとは思わなかった……」
最終日の午後。
東棟の一角で足を止め、イエレナは小さく息を吐く。
覚えようとはしている。
けれど、正直なところ――頭の中はすでにいっぱいだった。
廊下の分岐、階段の位置、庭へ抜ける回廊の数。
ひとつひとつを辿るたびに、新しい記憶が重なっていく。
どれをとっても、母国フェルディナの王宮とはまるで違う。
歴史ある国ではあったが、あの国は洗練された装飾や華美さを好まなかった。
父はいつも「手に余るものは一つでいい」と言い、必要以上のものを持たないことを良しとしていた。
だから王宮も、厳かではあっても過剰な煌びやかさはなく、どこか静かで、落ち着いた空気に満ちていた。
複雑な抜け道こそあれど、この邸のように広さそのものに圧倒されることはなかった。
(……最低限のものだけで成り立っていたから、私邸でここまでの広さは想像していなかったな)
「……全部覚えるの、無理かもしれない」
ぽつりと零れた弱音に、肩にとまっていたリリュエルがくすくすと笑うように身を揺らす。
「イェナ、覚えるの大変そうだね」
「勉学に苦手意識を感じたことはなかったんだけど……」
少しだけ困ったように笑いながら、視線を廊下の先へと向ける。
「これは……覚えるっていうより、迷わないようにするので精一杯かも」
苦笑まじりにそう言いながら、ふと足を緩める。
そのとき、不意に思い至った。
「……そういえば、セスの私室はどこにあるの?」
何気ない問い。
けれど、自分でもどこか気にしていたらしく、言葉にした瞬間、わずかに意識がそこへ引き寄せられる。
先導していたレーネが、すっと足を止めた。
「殿下の私室は……」
静かに振り返り、イエレナの私室がある廊下の方へ視線を向ける。
そのまま指し示しながら、ほんのわずかに口元を和らげた。
「イエレナ様のお部屋を出て、ひとつ先でございます」
「えっ……そんなに近いの?」
思わず足を止め、瞬きを繰り返す。
王子の私室といえば、もっと奥まった場所か、あるいは別棟に設けられているものだと思っていた。
それが――ひとつ先。
廊下を出て、すぐ。
その距離を思い浮かべた瞬間、胸の奥が小さく跳ねた。
「……わざわざ、移されたのです。イエレナ様がお越しになる前に」
アンネが淡々と補足する。
「え……」
どくん、と胸が大きく鳴った。
わざわざ、自分のために。
その言葉が頭の中で何度も反響し、次の瞬間には頬へと一気に熱が駆け上がっていく。
だが――
「ちなみに——」
追い打ちのように、さらに静かな声が落ちた。
アンネは表情ひとつ変えない。
その隣で、レーネもまっすぐに視線を保ったまま、わずかに言葉を継ぐ。
「殿下の私室とイエレナ様の私室の間にある一室は、“夫婦の間”として設えられております」
「……っ!!」
思考が、真っ白になる。
次の瞬間、顔が一気に熱を帯びた。
耳の先まで、じん、と染まっていくのが自分でも分かる。
「ふ、ふうふの……ま……?」
かろうじて絞り出した声は、見事に裏返っていた。
「愛の巣ってやつだ〜!」
リリュエルがきらきらと目を輝かせながら割り込む。
その無邪気すぎる追撃に、イエレナの理性はあっけなく崩れかけた。
レーネとアンネは、ぴたりと同時に頷く。
「「はい」」
寸分違わぬ呼吸。
一切の迷いもない、完璧な一致。
その整然さが、かえって恐ろしい。
けれど――無表情の奥で、ほんのわずかに愉しんでいるような気配が滲んでいる気がした。
「えっ、いや……ち、違っ……! だって、私とセスは婚約の……!」
首元まで一気に赤く染めながら、慌てて否定する。
けれど焦るほどに言葉は絡まり、うまく形にならない。
「婚約者だからこそ、でございます」
「準備が整えられているのは、自然なことです」
揺るがぬ声音。
迷いも、照れも、一切ない。
それがかえって、逃げ道をふさぐ。
「~~~っ!」
思わず顔を覆う。
指の隙間から熱がこぼれそうで、まともに前を見ていられない。
“夫婦”。
その響きだけで、胸の奥がどくどくと鳴りはじめる。
――そのとき、不意に。
王都へ向かう道中、宿舎での一幕が、やけに鮮明に蘇った。
『……部屋を一緒にした方が良かったかな』
あのときのセレストの声音。
冗談めいていたのに、どこか本気にも聞こえて。
あの涼しい顔と、ほんのわずかに探るような視線。
(あれ……あれって……)
今になって思えば。
本当に、ただの冗談だったのだろうか。
じわり、と頬の熱がさらに増す。
(もしかして、あの時から……?)
胸が大きく跳ねる。
だめだ、考えちゃだめだと分かっているのに、想像が勝手に広がってしまう。
「……ど、どうして……」
小さくこぼれた本音。
レーネとアンネは、変わらぬ表情のままその様子を見守っている。
けれど、その瞳の奥にはほんのりとした光が宿っていて――
“やはり殿下は抜かりない”
とでも言いたげな、静かな満足がにじんでいた。
やがてレーネが控えめに口を開く。
「殿下は、常に数手先をお考えになる方ですので」
淡々とした言葉。
けれどその響きには、わずかな誇らしさが混じっている。
アンネも静かに頷いた。
「イエレナ様の安全と、将来を見据えてのご配慮かと。……内扉をお開けになれば、“夫婦の間”へとお通りいただけます」
同じく落ち着いた声音。
それでも、その言葉はまっすぐ胸の奥へと落ちていく。
顔を覆ったまま、イエレナは小さく息を呑む。
恥ずかしさでいっぱいのはずなのに、胸の奥に広がるのはそれだけではなくて――
じんわりと、あたたかなものが混じり込んでくる。
ただの契約だと思っていたのに。
“将来”という言葉が、静かに胸を震わせる。
――そこに自分が含まれているのだとしたら。
嬉しさと羞恥心がない交ぜになって、どうしようもなく居た堪れなかった。
◇ ◇ ◇
案内を終え、自室へ戻ると、扉を閉めた途端に膝の力が抜けた。
ふらりとベッドへ腰を下ろし、ぎゅっと指先を組む。
まだ胸の鼓動が落ち着かない。
「……“夫婦の間”なんて……」
ぽつりと零した声が、やけに静かに響く。
耳の奥には、双子の淡々とした声が残っていた。
あまりにも自然に告げられたからこそ、余計に心臓が跳ね上がる。
――婚約者だからこそ。
――準備が整えられているのは当然。
正論だと分かっているのに、どこかで引っかかる。
自分とセレストの関係は、本当は“契約”の上に成り立っているに過ぎないのだから。
それを、この屋敷の誰も知らない。
「……みんな、知らないんだ」
小さく呟く。
「私たちが、契約だけの関係だって……」
言葉にした瞬間、胸の奥に重たいものがすとんと沈む。
外は春の陽が満ちているのに、心の内側だけが、ひどく冷えていく気がした。
(みんな、きっと本物の婚約者だと思ってる……)
そういう前提で見られて、祝福されて、微笑まれる。
そのひとつひとつが、どこか申し訳なくて。
頬がまた熱を帯びる。
けれどそれは、さっきまでの羞恥とは少し違っていた。
ざわり、と胸の奥が揺れる。
(セスが近くにいるだけで、こんなに落ち着かないのに……)
その上で、“夫婦の間”。
未来を前提とした部屋。
(……なんで、そんな部屋をわざわざ用意したんだろ……)
アズの遺志。亡国の姫を守るため。政治的な安定――どれも理由になるはずなのに、胸の奥に残る引っかかりだけが消えない。
(やっぱり……兄上の願いに従ってるだけで、私を守るために動いてるだけ、なのかな)
そこまで考えた瞬間、胸の奥がきゅっと疼いた。ほんの少し、痛い。
(それとも――)
思考が揺れて、かすかに震える。
(少しでも、私を“想って”くれているのかな……)
その可能性に触れた途端、血が一気に顔へとのぼり、心臓がはっきりと強く鳴った
「な、何考えてるのっ、私!」
慌てて枕に顔を埋めると、くぐもった声が布に吸い込まれ、代わりに自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。
耳まで熱く、指先の先までじんわりと火照っているのに、その熱の正体に触れそうになるたび怖くなって、また顔を覆ってしまう。
認めてしまったら、何かが変わってしまいそうで――契約だと割り切っていられなくなりそうで。
(違う……これは、ただ……)
守られている安心感、居場所を与えてくれる優しさ、きっとそれだけ――そう言い聞かせようとするのに。
胸の奥では、名前のついていない温もりが静かに、確かに息づいていた。
セレストの声を思い出すだけで鼓動がわずかに早くなり、髪に触れられた指先を思い返せば頬がまた熱を帯びる。
“夫婦の間”。
その言葉が浮かぶたび、胸の奥が甘く疼く。
(……だめ)
枕をぎゅっと抱きしめても消えてくれない。
逃げても、否定しても、それは静かに色を増していく。
――恋という名をまだ知らぬまま。
彼を想う心だけが、少しずつ、淡く、けれど確かに色づいていく。
春の光のように、気づかぬうちに、そっと。
【 次回予告 】
深夜の執務室。
積み上がる書類と、揺れる蝋燭の灯。
従者との静かな会話の中で、
ふと零れる――彼女の名前。
王子としての責務。
ひとりの男としての想い。
その境界は、静かな夜の中で揺らぎ始める。
次話、第42話「静夜の執務室」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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