第36話 光を知らぬ器
第一王子ラファエル、そして第二王子レオニスとのティータイムを終え、
セレストとともに客間を後にする。
背後で重厚な扉が閉じる。
低く落ちたその音が、長い廊下へと溶けていった。
――次の瞬間。
イエレナは、堪えていたものをほどくように大きく息を吐き出す。
「……っ、はぁ……」
王家の“光”と“氷”に射抜かれていた時間。
試すような言葉の応酬。
そして――自分の口からこぼれ落ちた、あの一言。
胸の奥に渦巻いていた熱と緊張が、ようやくゆるやかにほどけていく。
白い石壁に差し込む夕陽が、淡く揺れる。
高い天井の下、足音だけが静かに響く回廊。
先ほどの客間とは違う、ひらけた静寂が、ふたりを包み込んでいた。
隣を歩くセレストが、そっと口元を緩めた。
穏やかな微笑み――けれど、その奥にはわずかな苦さが滲んでいる。
「兄上は、ああいう人なんだ」
視線はまっすぐ前へ向けたまま、淡く続ける。
「悪意はない。ただ……からかい方が少し強いだけだよ」
軽く肩をすくめる仕草はいつも通りだが、
その何気なさの奥に、わずかな自省が隠れていた。
イエレナは唇をきゅっと結び、小さく首を振る。
「いえ……わ、私が……余計なことを……」
頬に残る熱をごまかすように視線を落とせば、白い石床に映る自分の影が夕陽に染まり、ほんのり赤く揺れている。
思い出すだけで胸が跳ねた。
――“私は、セレストという人の隣にいたいです”
(あれは……言い方が……)
告白みたい、なんてものじゃない。
胸の奥がじわりと熱を帯び、呼吸は落ち着かず、無意識に唇をさらに強く結んでしまう。
その横顔を、セレストは静かに見つめていた。
そして、ふ、と目を細める。
赤く染まる頬も、伏せられた睫毛も。
不器用に隠そうとする、その仕草も。
――すべてが、愛おしいと言わんばかりに。
「……君が、気にすることじゃない」
低く、やわらかな声が、夕暮れの回廊に溶けていく。
いつもと変わらぬ穏やかな調子――けれど、その奥にある優しさは隠しきれない。
「あの人は、僕をからかって楽しんでいるだけだよ」
軽く言い添えるその一言に、張りつめていた心が、ほんの少し緩む。
「それに……」
そこで、言葉が途切れた。
夕陽が、彼の睫毛を淡く染める。
影がゆるやかに伸び、静寂が落ちる。
イエレナが顔を上げた、その瞬間。
セレストが、わずかに一歩、距離を詰めていた。
広いはずの回廊が、急に狭く感じられる。
白い石壁も、夕陽に染まる床も、遠のくように霞んで――
ただ、彼の気配だけが、すぐ傍に濃く満ちている。
不意に、細く整った指先がそっと頬に触れた。
ひやりとした感触に、肩がかすかに震える。
けれどその奥にある温もりは、確かだった。
視線が、重なる。
瑠璃色の瞳には、からかう時の揺らぎはない。
まっすぐで、静かで――ただ優しい。
「嬉しかったよ」
その一言が胸に触れた瞬間、
鼓動が強く跳ね上がり、世界が一瞬、遠のく。
喉が詰まり、息が浅くなる。言葉が出ない。
セレストは、ほんの少し照れたように目を細めると、親指でそっと頬をなぞった。
触れ方は控えめで、それでも壊れものに触れるように丁寧だ。
「……ありがとう、イェナ」
その呼び名が、さらに胸を揺らす。
王子としてでも、王家の一員としてでもなく――ただ一人の青年として向けられた声だった。
夕陽が廊下へと差し込み、白い壁を淡い橙に染めていく。
重なった影がゆっくりと伸び、やがて触れていた指先が名残を残して離れた。
しばしの静寂ののち、どちらからともなく歩き出す。
王城を後にした馬車は、夕焼けに染まる街を進む。
石畳を打つ規則正しい音が、今日という一日を静かに閉じていった。
王家に迎え入れられ、想いをこぼしてしまったこの日。
それはきっと、二人の距離が静かに変わりはじめた日。
夕陽の向こうで、新しい物語がそっと息づき始めていた。
◇ ◇ ◇
【ラファエルside】
客間の扉が、静かに閉まる。
遠ざかる足音を聞きながら、ラファエルはゆったりと椅子に背を預けた。
唇の端に、わずかな笑みが浮かぶ。
「いやぁ……本当に面白いね。あのセスが、あそこまで表情を変えるなんて」
紅茶の湯気が、夕暮れの光に溶けていく。
「……からかいすぎだ」
低く落ちる声。
レオニスは立ったまま、兄を見下ろしていた。
声音は冷静だが、その奥にかすかな苛立ちが滲む。
「彼女が怯えただろう」
ラファエルは肩をすくめ、カップを持ち上げた。
陶磁が触れ合い、小さく澄んだ音を立てる。
「怯える? あれで?」
くすり、と笑う。
「あの子は赤面しながらも、きちんと返した。
普通の令嬢なら、あの場で黙り込む」
「そういう問題ではない」
レオニスの声は冷たいが、叱責ではなく警鐘に近い。
「弟の“婚約者”を試すような真似は、軽率だ。
……彼女はまだ王都の空気に慣れていない」
それでもラファエルの表情は崩れない。
カップの縁に指を添え、ゆるく揺らす。
琥珀色が、静かに揺らめいた。
「試すつもりはなかったさ」
視線は窓の外へ。
「ただ、見てみたかっただけだ。――彼女が、どう立つのかを」
「結果は十分だろう」
レオニスの瞳が、わずかに鋭さを帯びる。
「セスにとってはもう“契約”じゃない。……彼は、あの子に心を許している」
ラファエルは一瞬だけ目を伏せ、それから可笑しそうに笑った。
「……あの弟が、誰か一人に心を捧げるなんて。
昔の彼を知っている僕からすれば、信じられないくらいだ」
その声音には、かすかな懐かしさが滲んでいる。
王家の五男でありながら、誰よりも強い魔力を持ち、誰よりも多くを期待され、“選ばれ続けた”少年。
望んだわけではない。ただ、その力があったから。
王家の剣として、国の盾として。
恐れられながらも頼られ続ける存在として。
人々は彼に安堵を求め、同時にその力へ畏怖の視線を向けた。
そのすべてを、彼は受け止めてきた。
自分の不安も、迷いも、痛みも――弱さすら許さないまま。
泣くことも、迷うことも、誰かに寄りかかることもなく、ただ淡々と“正しくあること”を選び続けてきた。
……いや。
選ばされ続けてきた、と言う方が正しいのかもしれない。
その彼が、いまは一人の少女の一言にあれほど分かりやすく動揺していた。
頬を染め、視線を逸らし、隠しきれないほど嬉しそうな顔をして。
あれは、王家の王子ではない。
ただの十八の青年だった。
ラファエルは、ふっと目を細める。
あれほど自分を削り、自分を後回しにしてきた弟が、ようやく“誰かの隣”に立とうとしている。
最初は成り行きだったのかもしれない。
けれど彼は、迷わず彼女を庇った。それは命令でも義務でもない。
初めて、自分の意思で選んだのだ。
レオニスは静かに息を吐き、窓辺へと視線を移す。
暮れ始めた空が、白金の塔の影を長く引き伸ばしていた。
「面白いで済む話ではない」
低く、淡々とした声が落ちる。
「帝国に知られれば、国を揺るがす火種になる。……あの娘は“ただの姫”ではない」
「火種、ね」
ラファエルはその言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「彼女の祝福がどう作用するかは、見ておく必要がある。……この国の未来を左右する可能性もあるからね」
穏やかな微笑みの裏に、王としての計算と冷徹な観察が潜んでいる。
イエレナ。
亡国の姫。セレストの婚約者。
見目も礼節も申し分ない。
“本物の姫”と呼ぶに相応しい存在。
だが、それだけではない。
「……あれは、“器”だ」
ラファエルは静かに告げた。
「無自覚のまま、祝福の奔流の上に立っている。
自分がどれほどの光を放っているか、本人だけが知らない」
レオニスはゆっくりと息を吐く。
「セスは、その力に気づいているのか?」
「気づいているさ」
即答だった。
「だからこそ、あんなにも早く動いた。
守るように、隠すように――誰よりも先に」
ラファエルの口元がわずかに緩む。
それが安堵なのか計算なのか、判別はつかない。
「で、お前はどうする」
「何もしないよ」
椅子に身を預け、天井を仰ぐ。
「ただ、見守るだけ。……今のところは、ね」
室内に静寂が落ちた。
窓の外では、噴水が月明かりを受けて白く揺れている。
「ラファエルにしては、妙に穏やかだな」
「そうかい?」
小さく笑い、視線を夜へと向ける。
「……“選ばれてしまった者”を見ると、少し放っておけなくなるんだ。
気づかぬまま、運命に巻き込まれていく子はね」
レオニスは目を細める。
「しばらくは観察の価値あり、だな。
君が“放っておけない”と言った相手は、十中八九、厄介ごとを呼ぶ」
「おや、手厳しい」
ラファエルは笑う。
だがその瞳は、すでに夜を映していた。
力を知らぬまま笑う少女。
その傍らに立つ弟の横顔。
「……嵐が来るなら、せめて風向きくらいは見ておかないとね」
噴水の音が夜気に溶け、客間に静かな余韻を残した。
【 次回予告 】
王宮を後にした夕暮れ。
嬉しかった。
その言葉は、確かに胸に残っている。
けれど――
光に近づくほど、世界はその光を奪おうとする。
守りたい。
だが、守ることで縛ってしまうのなら。
彼女の未来を狭めぬために、
王子は静かに覚悟を固める。
そして、少女もまた気づき始める。
“知らないまま”ではいられないことを。
選ぶのは、奪うためではなく。
光を奪わぬために。
次話、第37話「光を奪わぬために」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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