第34話 白金の謁見
謁見の間の大扉が、重く静かに開かれる。
広間は広い。
だが――人影は少ない。
赤絨毯の両脇に並ぶのは、ほんのわずかな廷臣と護衛のみ。
王家の重臣、記録官、そして儀礼を司る者。
無駄な装飾も、余計な人垣もない。
それでも。
空気は、張り詰めている。
高くそびえる白柱の間で、わずかな衣擦れの音さえも響く。
白金の装飾は朝の光を受けて淡く輝き、
この場が“国の中心”であることを静かに主張していた。
歓声もざわめきもない。
ただ、王家に連なる者だけが踏み入れる静寂がある。
秘匿の場でありながら、形式は紛れもなく正式。
その矛盾が、かえって空間を凛と引き締めていた。
イエレナは、セレストの隣で足を進める。
玉座の手前。
そこに立つのは――
アストレア王国第一王子、ラファエル。
淡い白金の髪が傾く陽を受けて揺れ、
整った面立ちには穏やかな微笑が浮かんでいる。
けれどその瑠璃の瞳は、澄んでいるのに底が見えない。
広間に人が少ないからこそ、
その視線はまっすぐに届き逃げ場がない。
「……君が、イエレナ嬢か」
名を呼ぶその声音は、どこまでも穏やかだった。
春先の陽だまりのようにやわらかく、耳に心地よく溶けていく響き。
だが――その奥底には、測るような静かな深みが潜んでいる。
イエレナは、わずかに息を吸った。
胸の奥で鼓動がひとつ、強く跳ねる。
けれどその揺らぎを外へは零さないまま、セレストの隣から一歩、前へと進み出た。
赤絨毯の上に落ちる足音は、ほとんど音を立てない。
それでも、その一歩は確かな意志を宿していた。
ゆるやかに膝を折る。
王族へ捧げる正式な礼。
最も端正とされる角度で、寸分の狂いなく。
背筋はまっすぐに伸び、肩から余計な力が抜けている。
指先を美しく揃え、ドレスの布へとそっと添える。
流れるような所作。
萎縮も、過度な誇張もない。
ただ、そこに在るべき礼。
亡国の身であろうと、
彼女の中に刻まれた“王女”の在り方は、失われていなかった。
沈黙の中で、ゆっくりと口を開く。
「本日、初めて拝謁の機会を賜りましたこと、誠に光栄に存じます。
亡きフェルディナ王家の名を継ぐ者として、アストレア王家の御前に立つことをお許しいただきましたこと、深く御礼申し上げます。」
その声はやわらかく、それでいて芯のある響きを帯びていた。
一語一語が、澄んだ水のように広間へと広がる。
儚さは確かに彼女を纏っているものの、
言葉の選びも、息継ぎの間も、ほんのわずかな揺らぎすらない。
それは取り繕ったものではなく、長い時間をかけて呼吸のように身につけてきたもの。
王家に生まれた者としての、無意識の矜持。
再び、静寂が落ちた。
視線が、ひとつだけ。
まっすぐに、彼女を見つめている。
ラファエルは、ゆっくりと目を細めた。
「……なるほど」
低く、静かな声。
「……なるほど。フェルディナは教養を重んじていたようだね。
ずいぶんと、年齢にそぐわぬ気品ある振る舞いだ」
穏やかな声。
言葉の形は称賛だ。
けれど――
その視線は、いまだ彼女を離さない。
値踏みするでもなく、責めるでもなく。
ただ静かに、奥底まで覗き込むように。
「……恐れ入ります」
イエレナは穏やかに、しかし揺らぐことなく頭を下げる。
称賛にも溺れず、威圧にも傾かない――凛とした誇りがその背筋に通っていた。
ラファエルはひとつ息を吐き、
今度は微笑みを崩さぬまま、真正面からイエレナを見据える。
「それにしても……妙だな」
声音は、相変わらず柔らかい。
「纏う空気が、常人とは違うね」
その一言で広間の空気が、わずかに張る。
イエレナは一瞬だけ息を呑んだ。
けれど顔色を変えず、ラファエルの言葉を受け止めるように、そっと視線を伏せるだけだった。
その態度さえ、王族としての矜持を感じさせる。
ラファエルの瑠璃の瞳が、わずかに光を帯びる。
「──旧フェルディナ伝承の“精霊の祝福”か」
確信。
問いではない。
その言葉とほぼ同時に、セレストが一歩前に進んだ。
さりげなくイエレナの半歩後ろに立ち、彼女を包むように腰へと手を添える。
護るというより、支えるように。
自然な仕草のようでいて、そこに宿るのは明確な意図が孕んでいた。
緊張と警戒、そして――静かな牽制。
誰よりも彼女の力を知る者としての、“守り”の意志がその掌に滲んでいた。
ラファエルは、くすりと小さく笑う。
「“亡国の姫”だから注目されているのかと思っていたけれど……違うんだね。」
視線は、セレストを一瞬かすめ、
再びイエレナへ戻る。
「君の中にある“それ”のせいか」
「……それ?」
戸惑いを含んだ小さな問い。
イエレナの声は震えていない。
だが、その胸の奥では鼓動がひとつ強く鳴る。
ラファエルは肩をすくめ、
穏やかな笑みを浮かべたまま、言葉を重ねる。
「……無意識なんだろうね。
君の“それ”が周囲に与えている影響。祝福、という言葉では足りない」
ほんのわずか、目を細める。
「辺境の空気まで変えてしまった理由が、ようやく腑に落ちた」
低く、よく通る声が白金の謁見の間に静かに落ちる。
そこに驚きはない。
否定も、詰問も。
ただ――確信。
研ぎ澄まされた観察者のまなざしが、ゆるぎなくイエレナを捉えていた。
敵意はないけれど、一瞬で本質を量るような王の眼差し。
やがてラファエルは、わずかに表情を緩めた。
「……君、面白いね」
柔らかな響き。
それでいて、その奥には静かな愉悦があった。
隣に立つセレストは何も言わない。
だが、イエレナの腰に添えた手に、ほんのわずか力がこもる。
支えるというより――
“ここにいる”と伝えるための、確かな温度。
それに応えるように、イエレナはそっと息を整えた。
胸の奥で揺れる緊張を押さえ込み、背筋を静かに伸ばす。
──初めての王宮。
──初めての、第一王子との対面。
光に満ちたこの空間で、目に見えぬ均衡がゆっくりと動いている。
沈黙がひとつ、落ちる。
そしてラファエルは、王族らしい完璧な所作で微笑んだ。
「セレストの婚約者として、君を歓迎するよ」
その声は穏やかで、温かい。
だが同時に、それは公の宣言でもあった。
「アストレア王国を、どうか楽しんでくれ。……これから、よろしくね。イエレナ嬢」
はっと、イエレナは息を呑む。
王宮という格式の場で。
王国の“光”その人から、名を呼ばれ、迎え入れられる。
それはただの挨拶ではない。
王家の“光”が名を呼ぶということ。
それが意味するものを、彼女は理解していた。
胸の奥に、熱が灯る。
誇りと、安堵と、わずかな震え。
それでも彼女は、揺らがない。
「……はい。よろしくお願いいたします、第一王子殿下」
凛とした声が、白金の間に澄んで響く。
深く捧げられた一礼。
指先まで揺るぎのない所作は、亡国という言葉を忘れさせるほどに優美で、気品に満ちていた。
ラファエルはしばし、言葉を持たずにその姿を見つめる。
まるで宝石の質を確かめるように。
だがそこに打算はない。ただ、純粋な観察。
やがて、ゆるやかに目を細める。
「──うん。やっぱり、いい姫君だ」
その声は軽やかで、柔らかい。
けれど内側には、明確な“判断”があった。
(……セレストが手放す気にならないのも、無理はない)
胸中で零れたその思考には、兄としての理解と、王としての評価が静かに重なっている。
そのひとことは、ただの称賛ではない。
選ばれた存在であることを、王家の光が認めたという証。
ふと――
謁見の間を、わずかな風が通り抜けた。
閉ざされたはずの空間に、やわらかな気流が生まれる。
イエレナの淡い髪がさらりと揺れ、朝の光を受けて淡金にきらめく。
その瞬間。
空気が、澄んだ。
重厚な石壁の圧迫感がわずかにほどけ、
胸の奥に沈んでいた緊張が、そっと溶けていき
誰もが、無意識に息を整えていた。
――何かが、変わった。
それが彼女の“無意識の祝福”によるものだと気づいた者は、ほんのわずか。
ラファエルは小さく息をつく。
そして、すぐにいつもの軽やかな笑みへと戻った。
「さて、謁見も無事に終わったことだし……お茶にでもしようか?」
パン、と軽く手を叩く。
先ほどまで場を支配していた張り詰めた威圧は、まるで幻のように消え去り、
代わりに、やわらかな温度が空間を満たしていく。
王の光。
その切り替えの鮮やかさに、周囲は思わず息を緩めた。
だが――セレストはすぐに、その“流れ”の意図を察する。
わずかに眉を寄せ、静かに口を開いた。
「兄上……今は、政務が――」
「仕事が早いセスなら、少しくらい付き合えるよね?」
間髪入れず返される言葉。
悪戯っぽく笑うその顔には、王族の威厳よりも、弟をからかう兄の素顔が色濃く滲んでいる。
セレストは一瞬だけ視線を伏せ、そして小さく息をついた。
「……わかりました」
観念したように肩を落とす仕草さえ、どこか柔らかい。
「うん、いい返事」
満足げに頷いたラファエルは、今度はゆるやかにイエレナへ視線を向ける。
「君も来てくれるね?
せっかくの初日なんだ、王宮の紅茶はなかなか評判がいいんだよ」
その誘いは無邪気で、押しつけがましさがない。
だが同時に、それは“内側へ招き入れる”という意味を持っていた。
イエレナは一瞬だけ戸惑う。
王宮の奥へ進むということは、もう客人ではなく――迎え入れられた者になるということ。
胸にそっと手を当て、小さく頷いた。
「……はい。ぜひ、ご一緒させてください」
ラファエルは満足そうに微笑み、従者へと目をやる。
「ティータイムの準備を。客間でいい」
「かしこまりました、殿下」
恭しく頭を下げた従者が、音もなく扉の方へと退く。
自然な流れで、ラファエル、セレスト、そしてイエレナは、
朝の光に包まれた謁見の間を後にした。
──重苦しい謁見の空気がほどけ、
ひとつの物語が、穏やかに動き始めた。
【 次回予告 】
白金の謁見は、無事に幕を下ろした。
張り詰めていた空気がほどけ、
王宮の客間には、やわらかな紅茶の香りが満ち、
穏やかな団らんのはずだった。
けれど、何気ない一言が、静かに空気を揺らす。
試すような視線。
止まる時間。
そして、思わずこぼれた本音。
それは覚悟か、
それとも――まだ名を持たない想いか。
次話、第35話「こぼれた想い」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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