第33話 朝の光に還る姫
朝の光が、レースのカーテン越しにやわらかく差し込む。
白壁に淡い影を落としながら、私邸の一室を静かに染め上げていた。
まだ少し慣れない天蓋付きのベッドから身を起こすと、
薄布越しに揺れる光が、昨夜の余韻をやさしく包み込む。
――王都の朝。
そう思った瞬間、胸の奥がわずかに引き締まった。
「「おはようございます」」
声を揃えたのは、すでに整然と控えていたアンネとレーネ。
朝の空気のように澄んだ佇まい。
その姿勢ひとつに、今日という日の重みが滲んでいる。
「イエレナ様。本日は謁見がございますので、すべて私どもにお任せください」
柔らかな声色で告げられたその言葉には、侍女としての矜持が静かに宿っていた。
言葉よりも早く、
湯浴みの支度、香油の選定、衣装の確認――。
アンネ主導の動きには一切の無駄がない。
指先は迷いがなく、布を整える手のひらは滑らかに流れ、
その所作はまるで舞を見ているかのようだった。
レーネは後方でさりげなく支え、
ひとつひとつの細部を無言で整えていく。
やがて、鏡の前へと導かれたイエレナは、思わず息を呑んだ。
朝の光を受けて、
淡いミスティブロンドの髪がやわらかく煌めく。
透き通るような緑の瞳は、朝露を湛えた若葉のように鮮やかで。
身を包むのは、森の祝福を思わせる白から翡翠へと溶けるグラデーションのドレス。
繊細な刺繍が光を受けてきらめき、
腰の深緑のリボンが優雅に揺れるたび、
柔らかな紗の裾が風をはらみ、静かに光を流す。
それは華美ではないけれど、確かに、“王都に立つ者”の装いだった。
精霊の姫としての気品と、
まだ十六の少女としての儚さが、
不思議なほど自然に溶け合っている。
鏡の中の少女は、昨夜窓辺に立っていた自分とは少し違う。
「……これ、私……?」
震えるような声で呟くと、アンネとレーネは同時に満足げに頷いた。
「ええ。これが、“イエレナ様”でございます」
静かに断言するアンネの声音には、揺らぎがない。
「天使というより――女神ですね」
レーネの言葉は、軽い賛辞ではない。
まるで事実を告げるように淡々としていて、その視線は揺らがなかった。
「……大袈裟だよ」
照れたように笑うイエレナ。
その笑みに、アンネの口元もわずかに緩む。
そこへ、軽やかな声が弾んだ。
「わぁー! イェナ、お姫様みたい!」
リリュエルがぴょんと宙を舞い、花びらのように光を散らす。
「セスも見惚れしちゃうかもね〜♪」
「……ど、どうかな……喜んでくれるといいけど……」
頬を赤らめるその横顔に、朝の光がやわらかく降り注ぐ。
ペリドットの瞳がわずかに揺れ、胸の鼓動が早まる。
――今日、私は“彼の隣に立つ”。
その意識が、そっと背筋を伸ばさせた。
レーネが一歩近づき、静かに背を押す。
「お時間でございます」
扉が開く。
廊下には、すでにセレストが待っていた。
王子としての正装に身を包み、銀白の髪を整え、
凛とした佇まいで扉の前に立つ姿は、まさに〈静謐の王子〉。
だが――
その瑠璃色の瞳がイエレナを捉えた瞬間、
ほんのわずか、呼吸が止まった。
視線が動かない。
まるで、時間だけがそこに取り残されたかのように。
朝の光をまとった彼女の姿は、
ただ“美しい”という言葉では到底足りない。
守ると誓ったはずの存在が、
今はまるで――触れれば消えてしまいそうな、淡い光そのものだった。
「…………」
ほんのわずかな沈黙。
その静けさに、胸の奥がきゅっと締めつけられる。
視線が揺れ、言いようのない不安がそっと波立った。
けれど逃げずに、意を決したようにまっすぐ彼を見る。
「……へ、変?」
わずかに震えた声に、セレストははっと我に返る。
止めていた息をようやく吐き出し、
困ったように、けれどどこか愛おしさを滲ませた笑みを浮かべた。
「いや――とても、似合ってるよ」
低く、静かな声。
けれどその響きは、いつもより少しだけ掠れている。
「綺麗すぎて……思わず、見惚れてしまったよ」
軽く肩をすくめ、冗談めかしてみせる。
けれど、うっすらと染まった頬の紅と、
口元に触れかけた指先が、その本音を隠しきれていなかった。
イエレナの胸が、不意に熱を帯びる。
「....よかった」
ほっとしたように、嬉しそうに微笑む。
その笑みは、飾り気も計算もなく、ただまっすぐで。
その瞬間、セレストの胸を掴んだ感情は、
もはや呼び名を与えることすら難しいほど、強く、深いものだった。
守りたいと願ったはずなのに。
気づけば、自分の方が――
彼女の光に、静かに囚われている。
「アンネとレーネが、頑張ってくれたの」
高鳴る心を隠すように、イエレナはそっと視線を伏せる。
指先がドレスの布をつまみ、わずかに揺れた。
「……イェナの隣に立つ者として、恥をかかせないようにしないとね。
一層、立ち振る舞いには気をつけなきゃ」
冗談めかして言いながらも、
セレストの耳朶はほんのりと赤い。
視線が合うたび、わずかに咳払いをしては逸らす。
王子としての余裕を装っているのに、その綻びが愛おしい。
イエレナの胸がまたひとつ跳ねる。
(……隣に立つ者)
その言葉が、思いのほか近くて。
「せ、セス……もういいよ。そんなに褒めないで」
頬を染め、視線を彷徨わせる。
けれど唇の端は、どうしても緩んでしまう。
セレストは小さく笑い、ほんの一歩だけ近づいた。
「褒めているつもりはないよ。事実を言っただけ」
低く落とした声は、からかい半分、本音半分。
そして、王子の表情へと、静かに切り替わる。
「……さあ、行こう。兄上がお待ちだ」
その声音は凛としている。
甘い空気をそっと畳み、これから向かう場所の重みを思い出させる響き。
セレストは自然な動作で手を差し出した。
イエレナは一瞬だけためらい、
けれど迷わずその手に自分の指を重ねる。
温もりが伝わる。
朝の光の中、ふたりは並んで歩き出した。
◇ ◇ ◇
王都の私邸を出ると、王家の紋章を刻んだ馬車が静かに待っていた。
漆黒の車体は朝日を受け、深い光を宿している。
沿道には兵と従者が整然と並び、その視線は揺るぐことなく、
ただ、王家に連なる者を迎えるための厳かな静寂だけが張りつめていた。
その空気に触れた瞬間、イエレナの胸が強く脈打つ。
緊張を鎮めようと深く息を吸ったそのとき、
にこやかな笑みを浮かべたセレストが、そっと手を差し伸べた。
馬車へ乗り込むと、やがて車輪がゆるやかに回り出す。
石畳を踏む振動が、かすかに伝わってきた。
窓の外を流れていく街並み。
商人の声、朝の鐘の余韻、きらめく白壁。
やがて視界の先に、白金の塔が姿を現す。
陽光を浴びて輝くその姿は、まさに王都の象徴。
村で過ごした穏やかな日々とは、まるで異なる世界のよう。
「……緊張してる?」
隣に座るセレストが、声を落として問いかける。
その声は、公の場へ向かう王子のものではなく、
ただ彼女を気遣う青年のそれだった。
イエレナは一瞬だけ迷い、そして素直に頷く。
「……少し」
「謁見の間も一緒にいるから、安心して」
短い言葉。けれど、それだけで胸のざわめきがゆるやかにほどける。
イエレナはそっと視線を落とし、
重ねられた自分の手の上に、静かに指を添えた。
触れ合う温もりが、揺らぐ心を落ち着かせてくれた。
やがて馬車は王城の中庭へと滑り込み、静かに止まった。
扉が開かれ、朝の光がまっすぐに差し込む。
イエレナは深く息を吸い、ゆっくりと地に降り立つ。
絹靴が石畳に触れた瞬間――
その背筋が、すっと伸びる。
胸の奥で鼓動は続いている。
けれどその立ち姿には、王女としての誇りと静かな気高さが宿っていた。
セレストが一歩前へ出て、自然な動作で彼女の手を取る。
その背後には、護衛のアウルとギウン。
二人は距離を保ちながらも、揺るぎない眼差しで見守っている。
守られている。
けれど、ただ守られるだけではない。
――その構図は、未来の片鱗のようでもあった。
石造りの回廊を進む。
高く広がる天井の下、足音が規則正しく響く。
絹靴の音は小さく、けれど確かだ。
手の先にまで宿る気品。
押しつけがましくない、自然で洗練された所作。
忘れかけていた“姫”としての振る舞いは、
今も確かに彼女の内に息づいている。
やがて、大扉の前で足が止まる。
重厚な扉が、ゆっくりと開かれ
白金の光が流れ込み、
王城の空気が、朝の新しい息吹とともに満ちていく。
――その先に待つのは、
アストレア王家の“真なる朝”。
そして、イエレナの新しい立場が、
静かに試される瞬間だった。
【 次回予告 】
白金の謁見の間に満ちる、息を呑むほどの静寂。
その中心に立つのは、この国の“光”と呼ばれる存在だった。
穏やかな微笑の奥に潜む、底の見えない瑠璃の眼差し。
亡国の姫は、
名を告げ、誇りを示すも――見抜かれる。
それは血筋か、
祝福か、
それとも彼女そのものか。
王都の光は、
姫を照らしながら――試す。
次話、第34話「白金の謁見」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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