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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第32話 邸の灯、初夜の静けさ

セレストの私邸へ迎え入れられたイエレナは、

私室として用意された部屋で、ようやくひと息ついていた。


一方――リリュエルは、到着して早々、屋敷中を飛び回っていたらしい。


「イェナ~♪ ここのお家、とっっっても広いんだよ!

 今日中には全部見られないから、いったん帰ってきた~」


誇らしげにそう報告したかと思えば、

次の瞬間にはふらりとクッションへ舞い降りる。


「……つかれたぁ」


羽をぱたりとたたみ、ころんと横になると、

金色の瞳はすぐにとろりと閉じていった。


淡い光をわずかに残したまま、すやすやと規則正しい寝息。


その無防備な寝顔に、イエレナは思わず小さく笑みをこぼす。


「……お疲れさま、リリュエル」


広い屋敷も、胸に残る緊張も、不安も。

その寝息ひとつで、ほんの少し遠ざかる気がした。


――と。


「イエレナ様。お飲み物をお持ちしました」


静かな声とともに、控えめなノックが響く。


アンネが銀の盆を携え、音もなく入室する。

滑らかな所作でカップとソーサーをイエレナの前へそっと置いた。


「よろしければ」


白磁のカップから立ちのぼる湯気が、やわらかく空気に溶ける。


森を思わせる澄んだ香り。

深く息を吸うたび、胸の奥に残っていた緊張がゆるやかにほどけていった。


アンネは盆を脇へ収め、静かに視線を向ける。


「落ち着かれましたか?」


「……うん、アンネのおかげだよ……ありがとう」


イエレナの微笑みに、アンネの目元がわずかにやわらぐ。

けれど、その所作は凛とした気品を崩さない。


「お気に召していただけて何よりです。

 このお部屋は、殿下自らご指示をなさって整えられたのですよ」


「……セスが?」


思わず漏れた声に、アンネは静かにうなずくと

湯気の立つカップを、そっとテーブルへ置いた。


「“イエレナ様がいちばん落ち着ける場所にしてほしい”と。

 装飾や香り、家具の配置に至るまで、すべて殿下のお心づくしでございます」


その言葉は誇張でも自慢でもなく、

ただ静かな事実として、そっと差し出された。


イエレナは、改めて室内を見渡す。


淡く落ち着いた色合い。

主張しすぎない装飾。

窓辺に置かれた植物は、光を受けてやわらかく葉を揺らしている。


絨毯やクッションには、どこかフェルディナを思わせる模様と色。

懐かしさを直接語ることはないけれど、

確かに“知っていて選ばれた”とわかる温度が、そこにあった。


壁に掛けられた小さな絵も、

棚に置かれた本の装丁も、

どれもが静かに寄り添うように配置されている。


そして、部屋から続くテラス。


カーテン越しに見える庭園は、

まるで花畑がそのまま空へ続いているかのように広がっていた。


(……だから、こんなに心地いいのかな……)


胸の奥が、じんわりとほどけていく。


ここは異国の王都。

けれど、この部屋だけは、どこか“帰れる場所”の匂いがした。


窓の外の光がわずかに滲み、イエレナはそっと瞬きをする。


「……セスは、優しすぎて……たまに、どうしていいか分からなくなるの」


ぽつりと零れた声は、ほとんど吐息のようだった。


「甘えすぎてしまっている気がして……なんだか、申し訳なくなるというか……」


視線を落とし、指先でカップの縁をなぞる。

白磁の縁はあたたかく、その温度が指先に移る。


アンネは、その小さな仕草を見逃さなかった。


「セレスト様は少し――いえ、かなり過保護な面がおありです。

 もし煩わしいと感じられましたら、“嫌です”とはっきりお伝えを」


思いがけない助言に、イエレナはきょとんと顔を上げる。

けれどアンネは、冗談めかすでもなく、真顔のままわずかに首を傾げた。


「イエレナ様のお言葉なら、きっとお聞きになります。

 ……しょんぼりは、なさるでしょうが」


あまりに淡々と告げられたその落ち着いた推測に、

イエレナは思わず、彼がしょんぼりする姿を想像してしまい、

くすり、と小さな笑みがこぼれた。


その笑みを見て、アンネは満足げに目を細める。

銀の盆を持ち直し、静かな声音で告げた。


「それでは……今夜はどうか、ゆっくりお休みくださいませ。

 長い一日でございましたから」


優雅に一礼し、アンネは音もなく部屋を後にする。


扉が静かに閉じると、残されたのはハーブのやわらかな香りと、

カップに宿るほのかな温もりだけだった。


静まり返った室内に、時計の針の音が小さく刻まれる。


窓の外では、星々が白壁に淡く反射し、

夜気に混じる草花の香りが、そっと流れ込んでくる。


(……セスの優しさって、夜の光みたい)


脳裏に、あの穏やかな笑みが浮かぶ。

静かに目を細めるときの、あのやわらかな瑠璃色の瞳。


強く照らすわけでも、眩しく迫るわけでもない。

ただ、そこに在るだけで――心を包む光。


(まっすぐで、やわらかくて……)


そっと触れた指先を、壊れ物でも扱うように包み込んでくれた温度。

“怖がらなくていい”と告げた低い声の響き。


(触れたら、少し泣きたくなるくらいあたたかい)


胸の奥が、きゅう、と静かに鳴る。


それが何なのか、まだ名前はつけられない。

けれど確かに、そこに在るもの。


夜の光は、強く主張しない。

それでも、暗闇の中では何よりも頼もしい。


――まるで、彼のように。


イエレナはそっと息を吐き、

胸に生まれたその小さなぬくもりを、壊れないように抱きしめた。


やわらかな鼓動を胸に残したまま、

窓辺へ歩み寄り、カーテンをそっと開く。


バルコニーの向こうに広がるのは、息をのむほど澄んだ夜。


月は高く、庭園の白い花々を淡く照らしている。

夜露をまとった花びらが風に揺れ、

まるで小さな精霊たちが、月光の中で遊んでいるようだった。


「……きれい」


思わず零れた声は、夜風にやさしく溶けていく。


指先で手すりを撫でると、

ひんやりとした石の感触が、掌に静かに残った。


その静寂を、ふわりと揺らすように――

背後で軽やかな羽音が弾む。


小さな光が、月の粒を散らすように舞い上がった。


「.....イェナ、まだ起きてたの?」


ふわりと舞い降りたリリュエルが、淡い光をこぼしながら肩にとまる。

羽が月明かりを受けて、薄く透ける。


金色の瞳が夜景を映し、小さく細められた。

その瞳の中で、王都の灯りがきらりと瞬く。


「王都って、夜もこんなに明るいんだね。しずくみたいにキラキラしてる」


小さな指先で空をなぞると、

指先の軌跡に沿って、かすかな光が尾を引いた。


「……うん。眠れそうにないくらい」


「ふふっ、じゃあボクが子守唄を歌ってあげよっか?」


いたずらっぽく顔を覗き込まれ、

イエレナはきょとんと瞬きをした。


「……リリュエル、歌えるの?」


「ん~……人間のいう歌とはちょっと違うけど、精霊界にも歌はあるよ♪」


くるりと宙を回ると、羽から細かな光が舞い落ちる。

それは床に触れる前に、すっと空気に溶けた。


イエレナは少し首を傾げる。


「――それって、私たち人間が聴いても大丈夫なもの?」


「どうだろ?」


頬に手を当て、わざとらしく考える仕草。


「大丈夫だと思うけど……聖獣が寄ってきちゃうかもしれない」


あまりにさらりと告げられて、

イエレナは思わず目を丸くする。


そして――ふ、と肩の力が抜けた。


「……それは、ちょっと困るかな」


くす、と笑い合う声が、夜の静けさにやわらかく広がる。

重くなりかけていた心が、そっとほどけていく。


遠くで鐘がひとつ鳴った。

深い夜を告げる音が、空に吸い込まれていく。


風がカーテンをやさしく揺らし、

月光が床に細い帯を描いた。


イエレナは静かに息を吐き、私室へ戻りベッドへと腰掛けると

もう一度だけ窓の外へ視線を向ける。


王都の灯りは、星と地上の境界が曖昧で

空と街が、ひとつに溶け合うようだった。


(……ここで、今度こそ誰かの力になれたらいいな)


不安と、期待。

そのどちらともつかない小さな鼓動が、胸の奥で静かに脈打つ。

けれど、隣にいる光を知っているから。


――大丈夫


明日、私は王宮へ行く。

亡国の姫として。

セレストの婚約者として。


怖くても――逃げない。

私らしく、きちんと立とう。


イエレナはその温度を抱いたまま、静かに目を閉じた。


「リリュエル、おやすみ」


「おやすみ、イェナ……」


小さな光がふわりと揺れ、やがて静かに収まる。

白壁の邸に、穏やかな夜がそっと降りていった。


【 次回予告 】


白壁の邸に、

穏やかな夜が静かに満ちていく。


王都の灯に包まれながら、

胸に抱いたのは――

小さな不安と、確かな温もり。


精霊の囁きに見送られ、

姫はひとり、眠りへと身を委ねる。


そして朝。

夜の静けさを胸に残したまま、

彼女は“光の中”へ還っていく。


次話、第33話「朝の光に還る姫」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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