第29話 朝の距離、触れそうな想い
乳白色の朝光が、レースのカーテン越しにやわらかく滲んでいた。
静かな部屋に、ゆるやかな光が満ちていく。
まどろみの底で、イエレナはふわりとまぶたを開いた。
あたたかい。
身体を包む様に“誰かの”体温が、まだ夢の続きのようにやわらかくて、
ほんの数秒、ここがどこなのかも思い出せなかった。
けれど――
その温もりが、あまりにも近くて。
「……っ!」
はじけるようにまぶたが開く。
視界いっぱいに飛び込んできたのは、
すぐ目の前で静かに眠るセレストの横顔だった。
規則正しい呼吸に合わせて、整った輪郭がわずかに上下し
長い睫毛が朝光を受けて、淡くきらめいていた。
片腕はしっかりとイエレナの腰に回され、
まるで、大切なものを守るみたいに抱き寄せられていた。
(な、なんで……セスが……!?)
昨夜の記憶が、遅れて一気に押し寄せる。
抱き上げられて。
ベッドに下ろされて。
手を――掴んで。
心臓が、胸の奥で小さな生き物のように暴れ出した。
どくん、と強く跳ねる。
そこから、ゆっくり、でも確実に
熱が身体の隅々まで広がっていく。
この距離。
この体温。
あまりにも近すぎる。
そっと、気づかれないように身をずらそうとした、その瞬間。
回された腕に、わずかに力がこもった。
「ひゃっ……!」
小さな悲鳴が漏れ、慌てて両手で口を塞ぐ。
息が詰まるほど近い距離に、セレストの体温が重なる。
(こんな……こんな近くで……!)
朝光に照らされた寝顔は、あまりにも無防備だった。
普段の静かで落ち着いた雰囲気とは違い、
どこか年相応のやわらかさを残した横顔。
長い睫毛が頬に影を落とし、
薄い唇が、規則正しい呼吸に合わせてわずかに動く。
胸が、きゅう、と小さく鳴った。
吐息がかすかに混じり、鼓動が近すぎる距離で響く。
腕の中にすっぽり収まってしまっている自分の存在を、嫌でも意識する。
――逃げたいのに、動けない。
(……ち、近すぎる……よ……!)
頬どころか耳の先まで熱がのぼり、
包まれた温もりの中で呼吸が乱れる。
そのとき――。
「……ん……」
耳元に、かすれた低い声が落ちた。
時間が、ゆっくりとほどける。
セレストの睫毛が震え、
伏せられていた瞼が静かに持ち上がっていく。
寝起きの瑠璃色は、まだ淡く揺らいでいて、
焦点を探すように瞬きをひとつ。
そして――
すぐ目の前にいるイエレナを、まっすぐ映した。
ほんの一瞬の沈黙。
それから、彼の表情がゆるやかにほどけた。
まるで、朝光に触れて氷が溶けるみたいに。
「……おはよう、イェナ」
掠れた声。
まだ半分夢の中にいるような、甘い微笑み。
「っ……! お、おはようっ……!」
どうにか絞り出した声は、思ったよりもかすれていた。
けれどセレストの腕は、まだ緩まることもなく
むしろ、寝起きの身体がわずかに動いただけで、距離はさらに――静かに、縮まった。
吐息が混じる。
いや――息をしなくても、触れてしまいそうなほどに近い。
「せ、セス……っ、はなして……!」
震える声で抗議すると、
セレストは眠気をまとった瑠璃色の瞳で、じっと彼女を見つめた。
焦点の合いきらない、とろりと淡い視線。
けれど、その腕は確かに彼女を囲い込んだまま――逃がす気配は、欠片もない。
ふ、と片方の口角が緩やかに上がる。
「ん……?」
低く、あたたかい響き。
「せっかく、いい夢見てたのに」
その声音は、まだ夜の続きのようでいて
冗談とも、本気ともつかない、甘い余韻を帯びている。
イエレナの心臓が、どくん、と強く跳ねた。
「ゆ、夢……?」
問い返した瞬間、
セレストの腕がほんのわずかに強くなる。
抱き寄せるというより――
確かめるように。
逃がさないように。
「もう少しだけ……このままで、いてもいい?」
甘く、柔らかく、
耳の奥に染み込むような声。
朝光のなか、そのひと言だけで空気の温度が変わった。
イエレナは息を呑む。
胸が熱い。苦しい。
逃げたいはずなのに、拒む言葉が喉の奥でほどけてしまう。
触れそうで、触れない唇の距離。
一呼吸で埋まってしまう、甘く危うい境界。
レース越しの光が揺れ、
重なった影が、ゆっくりと溶け合っていく。
「だ、だめ……っ! ち、近すぎる……!」
顔は一瞬で真っ赤になり、声まで裏返る。
「そう?」
低く、やわらかい。
寝起きのはずなのに、不思議なほど澄んだ声音。
愉しげに細められた瞳の熱に、
イエレナの視線が泳ぐ。
それに気づいたのか、ようやく腕がほんの少しだけ緩んだ。
けれど距離は十分近いまま、セレストは困ったような笑みを浮かべる。
「……ごめん。
イェナがあまりにも無防備に眠っていたから、つい」
最後の「つい」に、ほんの少しだけ悪戯な響きが混じる。
朝の静けさの中で、
鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
ほんの少しの――
言葉にできない、淡い期待。
それに気づかないはずがない。
セレストの微笑みに、静かな熱が宿ると
すっと伸びた指先が、彼女の髪に触れ
絡まりかけた細い銀糸を、そっと耳へとかける。
ためらいのない、ゆるやかな仕草。
頬をかすめた温度に、イエレナの呼吸が止まる。
視線が絡む。
逃げ場は、ない。
「……やっぱり」
低く、囁くように。
「隣で目覚められるのは、いいね」
冗談めいた響きはない。
ただ、静かで――まっすぐな声音。
イエレナの胸が、きゅっと締めつけられる。
「邸宅の寝室……一応、別にしたんだけど」
ふ、と視線を落とすセレスト。
長い睫毛が影を落とす。
そしてもう一度、ゆるやかに顔を上げる。
その微笑みは――甘く、けれどどこか探るようで。
「一緒にした方がよかったかな」
「っ――!」
息が止まる。
心臓が大きく跳ね、
胸の奥で、何かがゆっくりほどけていく。
(な……なにそれ……!
そんなふうに言われたら……)
「……っ、セス、そういうの……冗談でも……」
震えた声。
拒むはずの言葉に、わずかに縋るような熱が滲む。
それに気づいたのか、
セレストの瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
次に浮かんだ微笑みは、やわらかく――そして、わずかに寂しげだった。
「冗談に聞こえたなら、それでいいよ」
低く落ちたその声が、
胸のいちばん奥へ、そっと触れる。
冗談のようでいて、冗談にできない温度。
軽い響きなのに、確かな重みがある。
(……どうして、そんな言い方するの)
胸がきゅうっと鳴り、
鼓動が自分のものじゃないみたいに速くなる。
顔を上げようとしても、
セレストの瞳はまぶしくて、まっすぐで。
イエレナは俯いたまま、こぼれそうな呼吸を押しとどめた。
まるで――
(セスが、私のことを……)
そこまで考えた瞬間、慌てて首を振る。
(ち、違う……そんなわけ、ない……
セスは優しくて、落ち着いていて……誰にでも……)
そう思おうとするのに。
胸の奥では、別の熱が静かに灯っていた。
寝起きの声。
近すぎる距離。
頬をかすめた指先と、抱き寄せた腕の強さ。
思い返すだけで息が乱れる。
あの温度が、まだ身体に残っているみたいで。
こんな気持ち、知らない。
くすぐったくて、痛くて、
でも――離したくない。
そんな迷いを見透かすように、
セレストはゆっくり視線を伏せ、静かに呟いた。
「……距離、詰めすぎたかな?」
その問いは、からかいでも試しでもなかった。
確かめるような声音の奥に、
ほんのわずか――自嘲にも似た影が落ちる。
「イェナの嫌がることはしないよ」
穏やかに眉を下げる微笑みが
その優しさが、かえって胸を強く締めつけた。
(……どうして、こんな気持ちになるんだろう)
痛いのに、近づきたい。
苦しいのに、逃げたくない。
触れたいのに――怖い。
胸の奥で、ほどけきらない想いが、静かに揺れている。
窓から差し込む朝光が、レース越しにやわらかく揺れ、
白く淡い光が、ふたりのあいだをそっと満たしていく。
触れそうで、触れない距離。
そのわずかな隙間が、かえって熱を抱え込む。
重なるのは、吐息だけ。
それでも胸の奥では、言葉にならない何かが、ひっそりと芽吹いていた。
まだ名前を知らない感情。
けれど確かに、そこに小さな温度が灯っている。
朝光が、ふわりと揺れる。
カーテン越しの影が、
偶然みたいに、けれど自然に、
そっと寄り添うかたちで重なっていった。
触れないまま――
けれど、確かに近づいた朝。
それはまだ、誰にも気づかれない小さなはじまりだった。
【 次回予告 】
「冗談に聞こえたなら、それでいいよ」
軽い言葉のはずなのに、
胸に残ったのは――消えない熱。
触れそうで、触れられない距離。
名前のない想いが、静かに芽吹いた朝。
甘さの余韻を抱えたまま、
二人は王都という外の世界へ踏み出していく。
次話、第30話「凍る空気と、からかいの声」
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物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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