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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第30話 凍る空気と、からかいの声


乳白色の朝光が、レースのカーテン越しにゆっくりと広がっていく。

静かな寝室に、鳥のさえずりが淡く溶け込んだ。


さっきまでの動揺が胸に残り、イエレナはシーツの端をぎゅっと握る。

セレストの気配が近い――それだけで心臓が落ち着かない。


セレストは静かに身を起こし、ベッドへ片手を置いてイエレナを囲い込むように身体を傾けた。


朝光が彼の髪を白銀に照らし、

影はイエレナを包み込むように落ちる。


距離は、呼吸のひとつで触れてしまいそうなほど近い。


「……そんなに動揺されると、ついつい構いたくなっちゃうね」


セレストはにこやかな笑みのまま、そっとイエレナの頬を撫でる。

指先が触れた瞬間、イエレナの呼吸がひゅ、と細くなる。


その瑠璃の瞳がゆっくりと近づいてきて――

空気が静かに震え、唇が触れそうになった、そのとき。


――コツ、コツ。


「失礼いたします、イエレナ様。ご支度の――」


扉がすっと開く。


淡い銀灰の髪。

端正な顔立ち。

侍女・アンネが一歩踏み込んだところで――


ぴたり、と動きを止めた。


朝光に照らされた寝室。

ベッドに寄り添う二人の影。


セレストの腕はベッドに置かれたままイエレナを囲い、

彼女の頬にはまだ彼の指が触れた余韻が残っている。


空気が、音もなく凍りついた。


アンネの表情は何も映さないのに、

その瞳だけが“氷点下の意思”を宿していた。


「……セレスト様。これは、どういうご状況で?」


静かに問われる。

けれど、その声色は刺すように冷たく容赦がない。

室内の温度すら一段下がったように感じる。


イエレナは跳ねるように身を起こした。


「ち、ちちがっ……これはっ、その……!」


声は裏返り、言葉にならない。

頬は熱いのに、背中には冷たい汗が伝う。


一方のセレストは――

まるで状況を楽しんでいるかのように微笑んだまま。

ゆっくりと身体を退き、寝起きの穏やかな声で言った。


「誤解だよ、アンネ。……ただ、安心させたかっただけなんだ」


イエレナの心臓が跳ねる。

そんな言い方をしたら余計に誤解されると分かっているのに。


案の定。


アンネの瞳が静かに細まり――

温度がさらに下がった。


「それで殿下自ら添い寝を?」


声音は変わらない。

けれど、刃より鋭かった。


セレストは肩をすくめ、

苦笑とともに両手を上げて見せた。


「そんなに睨まないで。手は出してないよ、ね?」


イエレナの目と、アンネの目の、両方を見る。

しかし、アンネの冷気はさらに強まっただけだった。


「――当たり前です。立場をお考えください、殿下」


アンネの声は、完璧に平坦だった。

けれどその無機質さこそが、鋼のような威圧になって空気を凍らせる。


セレストは肩をわずかにすくめ、困ったような微笑みを浮かべた。


「婚約者なのに、扱いがずいぶんと厳しいね……」


「“殿下”。イエレナ様のご支度が進みませんので――

 お引き取り願えますか?」


淡く、しかし容赦のない声音。

背筋にひやりと刺さるような緊張が広がる。


セレストは諦めたように息をつき、ゆっくり立ち上がった。


「……了解。じゃあ、後で迎えにくるね」


イエレナに向ける声は、さっきまでと変わらない穏やかさ。

その背が扉へ向かうのを、イエレナは胸の奥をぎゅっと締めつけられながら見送った。


扉に手をかけた瞬間、


「……次は、扉の“外”で安心させて差し上げてくださいませ。」


アンネの氷の声が背に落ちる。


セレストはぴたりと足を止めた。

振り返りはせず――けれど、口元だけで静かに笑い、


「……気をつけるよ」


そう呟き、扉の向こうへすべり消えた。


静寂。


イエレナの心臓の音だけが、

やけに大きく部屋の中に響いていた。


――と、その空気を切り裂くように。


「甘々の空気が、一瞬で凍っちゃったね~!」


「ひゃあっ!? リ、リリュエルっ!?」


カーテンの影から、薄紫の髪の小さな精霊がひゅっと飛び出す。

金色の瞳がいたずらっぽく細まり、ケタケタと楽しげに笑う。


「どこから見てたの……?」


「最初っから♡」


悪びれもなく言い切るその声に、

イエレナは両手で顔を覆い、その場にしゅんと座り込んだ。


「う、うぅぅぅ……!」


リリュエルはぴょんと肩に乗り、


「ねぇねぇイェナ、顔、まだ真っ赤だよ?

 なんなら、さっきより赤いかも~?」


「もう……放っておいて……」


精霊の軽口に、イエレナの肩はさらに落ちる。


そんな二人を横目に、

アンネは一切乱されることなく、淡々と支度の用意を進めていた。


静かにカーテンを開き、

衣装を整え、化粧道具を並べる――その動きは流れるように美しい。


「イエレナ様、朝食までに身支度を整えましょう。」


「……は、はい……」


イエレナはこくりと頷き、

真っ赤な顔のまま鏡の前に座る。


ふわりと光が当たり、

慌てた呼吸が映る。


その後ろで、アンネが手をとめてぽつりと呟いた。


「……セレスト様があんなに楽しそうなのは、久しぶりに見ました」


「え……?」


思わず顔を上げるイエレナ。

アンネはわずかに目を細め、

“困った子を見守る姉”のような優しい眼差しを向けた。


イエレナの耳まで赤い顔を見て、

アンネはふっと口元をやわらかく緩める。


「……さ、急ぎましょう。

 朝食の時間に間に合わなくなってしまいます」


何事もなかったかのように告げると、

アンネは音もなくカーテンを整え、

淡い光を部屋に満たした。


リリュエルはくすくす笑いながら肩の上を駆け回り、

アンネは落ち着いた手つきで衣装を整え、

朝光はゆるやかに揺れていた。


――どこか不思議な温度の朝。


胸の奥に残る余韻は、まだ消えずにそっと灯っている。

けれど、それは不安ではなく、

静かに寄り添うような温かさだった。



◇ ◇ ◇



簡素な宿舎での朝食を終えると、

兵たちは手際よく荷をまとめ、王都への帰路の準備を始めた。


外に出れば、冷たい朝の空気とともに

石畳を踏む馬蹄の音が鋭く響く。


荷車に積み上げられる木箱、

騎士たちが交わす短い指示、

遠くで鳴く鳥の声。


それらが混ざり合い、

“旅立ちの朝”の音をつくっていた。


イエレナも外套を羽織り、

促されるまま馬車へと乗り込む。


扉が閉じると同時に、

馬のいななきとともに静かな振動が走り――

馬車がゆっくりと動き出した。


道が揺れ、街道の石が軋む。


セレストは膝に広げた書類へ黙々と目を通し、

窓の向こうではアウルとギウンが並走しながら

鋭い目で周囲を警戒している。


リリュエルは窓辺に張りつき、

羽をぱたぱたさせて今にも外へ飛び出しそうだ。


その賑やかさの中――

イエレナは膝の上でそっと手を重ね、

胸の鼓動を落ち着かせようと静かに息を吸い込んだ。


(……大丈夫。セスも、みんなもいる)


けれど胸の奥は、どうしても高鳴ってしまう。


馬車は森の影を抜け、丘を越え、

遠くに白い石壁が見えてきた。


――アストレア王都。


国の中心。

そして、これから彼女が立つ“新しい場所”。


ゆっくりと、深く息を吸う。


まもなく、その地へ踏み入れる。


胸の奥では、まだ名も持たない想いが

ひそやかに、けれど確かに息づいていた。


【 次回予告 】


旅立ちの朝。

馬車は静かに動き出し、

彼女を“新しい場所”へと運んでいく。


胸の奥で息づき始めた、

まだ名前を持たない感情の中で――


白き城壁の向こうで、

亡国の姫はもう、隠れた存在ではいられない。


王都という光の中心へ。

運命の歯車は、音もなく回り始める。


次話、第31話

「王都の光、迎え入れられた姫」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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