【第二章】王都に咲く誓い~王都編~
──王都への旅路が、静かに幕を上げた。
森を抜け、車輪が石畳へと触れた瞬間、
それまでの柔らかな揺れが、わずかに質を変える。
規則正しい振動。
遠ざかる木々の影。
窓の外には、どこまでも続く草原が広がり、
風を受けて、緑の波がゆるやかにうねる。
遠い稜線は淡く霞み、空へ溶けていく。
世界は、こんなにも広かったのだと――
今さらのように思う。
イエレナは、そっと窓辺に額を寄せた。
ひんやりとした硝子越しに、外の光が滲む。
「……こんなに遠くまで来るの、初めて」
小さな声は、思ったよりも静かだった。
胸の奥にあるのは、期待か、不安か。
どちらともつかない鼓動だけが、確かにある。
その鼓動を包むように、
隣から穏やかな声が降った。
「フェルディナ国とはまた違うでしょ?」
やわらかく、低く。
いつもの調子で。
たったそれだけで、
張りつめていた呼吸が、ひとつゆるむ。
イエレナは、窓の外の草原を見つめたまま、小さく頷いた。
「……うん。」
さっきより、ほんの少し澄んだ声。
遠くの川が、陽光を受けてきらりと瞬く。
風に揺れる草の波が、どこまでも続いている。
そのとき――
「わぁ〜! 見て見て! あの川、すっごくきれい!」
リリュエルが羽をひらめかせ、窓から身を乗り出す。
金色の瞳が陽光を受けて、きらきらと弾けた。
草原を縫うように流れる川は、
空の色を映して淡く輝いている。
「……ほんとうだ」
自然と、イエレナの頬がゆるむ。
「ねぇセス! 王都に行けば、もっとすごいの見られるんでしょ!?」
弾む声に、セレストはわずかに外へ視線を向ける。
草原の向こう、光を受けてきらめく川。
その景色をひと息見つめてから、穏やかな笑みを浮かべた。
「……うん。退屈はしないと思うよ」
穏やかな笑みとともに落ちたその言葉は、
無邪気な期待をまるごと受け止めるような響きを帯びていた。
軽やかで、やわらかい。
けれどその奥には、王都を知る者の静かな確信がある。
その声はリリュエルへ向けられていながら――
すぐ隣にいる彼女へも、確かに届いていた。
ほんのわずかに視線が重なり、
瑠璃色がやわらかく細まる。
それだけで、胸の奥のざわめきがひとつ静かに沈んだ。
外では、ギウンとアウルが使者たちと馬を並べ、
風を裂く蹄の音が一定のリズムで続いていた。
揺れの向こうにある、確かな護り。
その実感が、胸の奥へ静かに落ちていく。
旅はまだ始まったばかりで、
王都は遠く、けれど確かに近づいていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
石造りの宿舎は、夜気を吸い込み、ひっそりと冷えていた。
窓の外では風が梢を揺らし、その影がカーテンに淡く揺れる。
湯浴みを終えたイエレナは、眠れぬまま窓辺に腰を下ろしていた。
腕を胸の前で抱き、夜空を見上げる。
胸の奥が、落ち着かない。
理由は分かっているのに、言葉にはできない。
深く息を吸っても――
吐き出す頃には、また小さな波が立つ。
そのとき。
コン、コン。
遠慮がちなノックが、静寂にやさしく溶けた。
「イェナ、入ってもいい?」
低く、穏やかな声。
「……セス?」
返事とほぼ同時に、扉が静かに開く。
淡い暖灯りの中へ現れたのは、部屋着姿のセレストだった。
銀糸の髪は後ろでゆるく束ねられ、眠たげな瑠璃の瞳が彼女を見つけて、ふっと和らぐ。
それだけで、部屋の温度が少し上がった気がした。
「……眠れなさそうな顔をしてる」
「そ、そんなこと……」
そう言いながら視線を逸らし、頬にかかった髪へ指を伸ばした――その瞬間。
ふわり、と視界が揺れる。
「ひゃ……っ?!」
気づいたときには、身体が宙に浮いていた。
驚きに息を呑む間もなく、
次の瞬間には温かな腕の中。
「……身体が冷えてるよ」
責めるでもなく、ただ確かめるような声が落ちる。
その低い響きが耳に触れた瞬間、
ようやく――抱き上げられているのだと理解した。
遅れて、心臓がどくんと跳ねる。
けれどセレストは、そんな動揺など気づいていないかのように、
いつもの穏やかな顔で続ける。
「窓辺に長くいたでしょ」
淡々としているのに、どこか包み込むような声音。
そのまま歩みを進め、
壊れ物を扱うみたいに――そっと、イエレナをベッドへ下ろした。
柔らかな寝具が背を受け止める。
次の瞬間、灯火越しに落ちた影が、静かに彼女を包み込んだ。
片腕は、彼女の頭の横へ。
もう片方は、逃がさぬように腰を支えている。
近い。
逃げ場がない、というより――
逃げたいという感覚そのものが、ゆっくりと溶けていく距離だった。
瑠璃の瞳が、真っすぐに降りてくる。
「イェナは頑張り屋さんだから……」
囁きは、夜よりもやわらかく
触れた指先は、驚くほど優しい。
頬をなぞるその仕草には、労わるような温度があった。
「もう少し、僕に頼ってほしいな」
「……っ、セス……」
唇が触れ合いそうな距離。
吐息が頬をかすめ、彼の重さと温もりがじわじわと全身を包んでいく。
柔らかな寝具に沈み込む感覚の中、
イエレナは抗うこともできず、ただ瑠璃の瞳に捕らえられていた。
吐息が頬をくすぐり、心臓が痛いほど跳ねる。
「……移動ばかりで疲れたでしょう? ゆっくり休んで」
そっと髪を梳く指先は、羽のようにやわらかい。
触れられた場所から、じんわりと温かさが広がる。
まるで、冷えた心ごと包まれていくみたいに。
イエレナの肩が、びくりと小さく震えた。
首筋まで桃色に染まり、耳の先まで熱を帯び
胸の奥では、落ち着く気配のない鼓動が、速く、強く打ち続けていた。
恥ずかしくて、思わず視線を逸らす。
どうしていいかわからない。
こんな距離も、こんな優しさも、まだ慣れない。
それなのに――
離れてほしくなかった。
気づけば、指先が動いていた。
そっと伸ばした手が、
彼の手を、ぎゅっと掴む。
ほんの小さな仕草。
けれど、その奥にははっきりとした願いがある。
震える指先が、離さないと告げるように絡む。
「イェナ……?」
名を呼ぶ声は、低く、わずかな驚きと戸惑いを滲ませていた。
瑠璃の瞳が、ほんの少し揺れる。
けれど――
イエレナは、返事ができなかった。
首筋に残る熱はまだ消えず、
身体の奥にあった緊張も、完全にはほどけていない。
それなのに。
セレストの体温とほのかな香りが、
そっと覆いかぶさるように寄り添ってきて――
胸の奥のざわめきが、ゆっくり、ゆっくりと溶けていく。
指先に残る震えさえ、
少しずつ、やわらいでいく。
(……あったかい……)
その感覚だけが、
薄く霞む思考の奥で、確かに残っていた。
重たかったまぶたが、ふるりと震え、
赤く染まった頬のまま、ゆっくりと閉じられる。
乱れていた呼吸は、
やがて穏やかな波のように整いはじめた。
それでも――
握った指先だけは、
離したくないと訴えるように、ぎゅっと力を残したまま。
それが、彼女の最後の意識の欠片のように、愛おしい。
やがてイエレナは、
セレストの腕の中で、そっと深い眠りへと落ちていった。
セレストは、微かに息を吐く。
(……ほんとうに、無防備だな)
呆れにも似た、けれどどこまでも甘い微笑。
それでも。
彼女の指をほどかないように、
そっとその手を包み直す。
――こうして安心してくれるなら、それでいい。
握られたままの手を離さずに、
ゆっくりと身体をベッドへ預ける。
その瞬間、
イエレナの吐息が、かすかに頬をかすめた。
触れているわけでもないのに、
胸の奥がじんわりと熱を帯びるほど、近い距離。
閉じられたまぶた。
まだ熱を含んだ頬。
寝息に合わせて、ゆるやかに上下する細い肩。
灯火の揺らぎが、彼女の横顔を淡く金色に縁取る。
世界のどこにも影など存在しないかのように、
無垢で、儚くて――
(……どうして君は、こんなにも)
言葉にならない想いが、胸の奥で静かに膨らんでいく。
愛しさと、わずかな痛み。
そのふたつが静かに溶け合い、ひとつの感情へと変わっていった。
――王都へ向かうと告げてから。
彼女は笑うたび、ほんの一瞬だけ影を落とすようになった。
それを悟られまいとするのは、いつも彼女自身だ。
けれど、その微かな翳りは、セレストの目には痛いほど鮮明だった。
(イェナ。君はいつも……大切なものほど胸の奥へしまい込む)
頼ってほしいのに、頼れない。
安心してほしいのに、無意識に一歩引いてしまう。
その不器用な優しさが、
どうしようもなく愛しくて――同時に、怖い。
それでも今は、こうして隣で眠っている。
触れれば壊れてしまいそうなほど、細い呼吸を立てながら。
そのすべてが、胸の奥へ静かに深く沈んでいく。
(……もう少しだけ、寄りかかってくれたらいいのに)
誰にも届かない、ささやかな願い。
けれど彼は、そのささやかな我儘をそっと飲み込み、まぶたを閉じた。
――たとえ彼女が何を秘めていようと。
――どんな闇を抱えていようと。
必ず、守り抜く。
彼女が、自らの足で隣に立ち続ける限り。
その歩みを、決して奪わないまま。
声にならない決意が、夜の奥へ溶けていく。
やがて二人の寝息が、ゆるやかに重なった。
それはまるで――
これから訪れる嵐の前に与えられた、
ほんのひとときの、静かな祝福のように。
【 次回予告 】
必ず守り抜くと誓ったセレスト。
だからこそ、
もう少し甘えてほしいと願ってしまう。
静謐王子の静かな想いが、
朝の距離で、そっとイエレナを包み込む。
次話、第29話「朝の距離、触れそうな想い」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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