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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第28話 辺境を後に


王都からの使者が到着したのは、その日の午後だった。


紋章を掲げた深青の馬車が、音も立てず屋敷へ入り込み、

磨き上げられた甲冑に身を包んだ騎士たちが、緊張を含んだ視線で周囲を見渡す。


その眼差しは、

誰かを「守る」ためというより――

この場所そのものを量り、値踏みするかのようで。


窓辺の鉢植え。

通り抜ける風の向き。

敷地に落ちる影の濃ささえ。


一瞬、ここにあるすべてが、無言の秤にかけられたような気がして、胸がざわついた。


その姿が視界に入った瞬間、

屋敷全体が――

“明日の出立”を悟ったかのように、静かに息を引き締める。


屋敷の一室では、イエレナは静かに、これまで世話になった部屋を整えていた。


ベッドの皺を伸ばし、

窓を拭き、

机の上に置かれた小さな包みの前で、ふと手を止める。


それは、ほんの些細な私物。

けれど、それを見つめているうちに、

胸の奥に――名のつけようのない寂しさが、ふわりと広がった。


(……ここも、もう“帰る場所”になっていたんだ)


そう思った途端、

部屋に満ちていた静けさが、少しだけ遠のく。


代わりに胸に灯ったのは、

ここで積み重ねた日々の記憶だった。


鞄の布地に、そっと指先を触れる。

すると、土と草の匂いが、かすかに残っている気がする。


温室で過ごした時間。

朝露に濡れた葉の、ひんやりとした感触。

セスが廊下を通るたび、

不意に耳に届いた、柔らかな足音。


――ここは、確かに「生きていい場所」だった。


そのとき、背後から、静かに声が落ちる。


「……イエレナ様。お荷物はこちらで、よろしいですか?」


振り返ると、そこに立っていたのは、新たに付いた侍女――アンネだった。

淡い銀灰の髪に、澄んだ青の瞳。

冷ややかに見える佇まいとは裏腹に、声音だけが不思議と柔らかい。


「はい……あの……少なすぎますか?」


自分でも、どこか心細さを含んだ問いだった。


アンネは一瞬だけ鞄に視線を落とし、

それから、ゆっくりと首を横に振る。


「いいえ。必要なものは、すでに揃っていますから」


淡々とした言葉。

けれどその奥に、否定ではない“肯定”が滲んでいた。


「それから、イエレナ様。敬語はおやめください」


その言葉は、命令というより――

静かな提案のように落ちた。


イエレナは、思わず瞬きをする。


「え……?」


アンネは視線を逸らさず、穏やかに続ける。


「これから王都でお仕えする以上、

 “お守りする方”に、壁を作られるのは困ります」


少しだけ、言葉を選ぶように間を置いてから。


「どうか……イエレナ様のままで、いてください」


その一言に、

イエレナの胸の奥が、きゅっと小さく鳴った。


侍女としての配慮。

それ以上に――

“一人の人として接しよう”という意志が、はっきりと伝わってくる。


「……ありがとう」


小さく頷いてから、少しだけ迷って。


「……アンネ」


名を呼ぶと、

アンネの瞳が、わずかに細まった。


「はい」


短い返事。

けれど先ほどよりも、わずかに柔らかい響きだった。


そのやり取りだけで、

部屋に張りつめていた空気が、ほんの少しだけほどけた気がする。


その様子を見ていたリリュエルが、

ベッドの上でぱっと光を散らしながら跳ねた。


「ねぇねぇ! 王都ってキラキラしてるんでしょ!?

 美味しいものもいっぱいあるんだよね!?

 ボク、もうワクワクしてきた!」


羽をぱたぱたさせ、

部屋中を無邪気に飛び回る小さな姿。


その明るさに、イエレナは思わず笑みを零す。

けれど――胸の奥に残るざわつきだけは、どうしても消えなかった。


王都へ行くということは、

もう隠れて生きることが許されないということ。


“生きている”という事実そのものが、

誰かの目に晒される場所へ行くということ。


引き返せないほど大きな流れが、

静かに、けれど確実に動き出している。


鞄に触れた指先が、かすかに震えた。


(……大丈夫。怖くても、進まなきゃ)


そう自分に言い聞かせるように、

窓辺から入り込んだ風が髪を揺らす。


同時に、

光の精霊がひとひら、肩へと舞い降りた。


イエレナはその淡い輝きに視線を落とし、

胸いっぱいに空気を吸い込む。


――明日。


もう、何もかもが少しずつ変わり始める。



◇ ◇ ◇



夜明け前の森は、ただ青かった。

深い群青に沈む静寂の中――

世界そのものが息を潜め、朝を待っている。


イエレナは窓辺に立ち、

まだ眠りの残る森を、静かに見つめていた。


薄明の風が頬を撫で、

木々のざわめきが、ゆっくりと胸に染み込んでくる。


失われた故国の面影を抱えたまま、

それでも歩き出すしかない未来が、すぐそこまで来ている。


けれど――

ここで過ごした日々は、確かに彼女を救ってくれた。


森の匂いも、風の温度も。

朝になるたび、当たり前のようにそこにあったもの。


目を閉じれば、

遠くでギウンの笑い声がして、

階段を上るアウルの足音が聞こえる気がする。


――何も失わずに、目を開けていられる場所。

それが、ここだった。


胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


イエレナはそっと瞼を閉じ、

その感覚を逃がさぬよう、小さく息を吸った。


「...みんな、もう集まってるかな」


支度を終え、広間へ降りると、

すでに出立の準備は整っていた。


重厚な馬車。

王都からの使者と騎士団が、

過不足のない距離を保って静かに控えている。


空気は張りつめているのに、

どこか、避けられない流れを受け入れた静けさがあった。


その中で――

まるで周囲の緊張とは別の時間を纏うように、

柔らかな光が、ひとつ近づいてくる。


銀白の髪。

穏やかな歩み。


「……おはよう、イェナ」


呼ばれた名に、

胸の奥で何かが、静かにほどけた。


イエレナは顔を上げ、

その声の主を、まっすぐに見つめ返す。


「……おはようございます、セス」


夜明け前の青が、

ゆっくりと、朝の色へ溶けていく。


「よく眠れた?」


白銀の髪が朝光にほどけ、

瑠璃の瞳がやわらかく細まる。

セレストは何気ない仕草で、彼女の肩にかかるマントを整えた。


その指先が触れた瞬間、

冷えた朝の空気の中で、そこだけが少し温かくなる。


「……うん」


返事には、わずかな緊張が混じっていた。


それを聞いたセレストは、

責めるでも、深追いするでもなく――

ただ、ほんの少しだけ目を細める。


その視線だけで、

胸の奥のざわめきが、ゆっくりとほどけていった。


「ふふ……」


小さな笑み。


「そんな顔してたら分かるよ」


からかうようでいて、声は柔らかい。


「馬車の移動だけでも、数日はかかるんだ。

 今からそんなに力が入ってたら、途中で疲れちゃう」


それでも、冗談の奥には確かな気遣いが滲んでいて。


「大丈夫。僕が隣にいる」


言葉は足さずとも、

その一言だけで十分だった。


そのとき、

アンネが静かに一礼する。


「ご支度は万全でございます」


抑えた声音は、感情を乗せないぶん、確かだった。


一方で、空気を切り裂くように明るい声が弾む。


「うわぁ……ほんとに今日、行くんだね!

 ボク、王都って初めて! 楽しみで仕方ないよ!」


リリュエルは朝から絶好調で、

光の粒を散らしながら宙をくるくると舞う。


その無邪気さに、

張りつめていた空気が、ふっと緩んだ。


アウルとギウンはすでに荷の最終確認を終え、

護衛として静かに位置についている。


「殿下。道中の危険は、最小限に抑えます」


「頼んだよ。二人とも」


短い応答。

それだけで十分な、深い信頼がそこにあった。


やがて――

すべての準備が整う。


馬車の扉が開かれ、

朝の光が、ゆっくりと内部へ差し込んだ。


セレストは一歩前に出て、

イエレナの前で立ち止まる。


そして、迷いなく――

まっすぐに手を差し伸べた。


「……それじゃあ、行こうか」


その声は驚くほど優しく、

けれど同時に、揺るがない決意を宿していた。


差し出された手に、

イエレナは一瞬だけ視線を落とす。


――怖くないわけじゃない。

けれど。


セレストの指先に触れた瞬間、

その温もりが、迷いをひとつずつほどいていく。


彼は何も言わず、

ごく自然な仕草で彼女の手を取り、

馬車へと導いた。


急かさず、置いていかず。

ただ、隣にいる歩幅で。


イエレナは、ゆっくりと息を吐き、

差し込む朝の光の中へ足を踏み入れる。


――もう、戻れない。

それでも。


この手がある限り、

進める気がした。


扉が閉じられた瞬間――

車輪が低く軋み、

世界が、ゆっくりと動き出す。


窓の外には、

慣れ親しんだ森が、

村の石畳が、

やわらかな朝光のなかを、静かに後ろへ流れていく。


風に乗って、

かすかな光が揺れた気がした。


イエレナは、そっと視線を前へ向ける。


王都への旅路が――

新たな運命が――


音もなく、

けれど確かに、幕を開けた。



―― 第一章・完



【 次回予告 】

第二章「王都に咲く誓い」 開幕


旅の夜に残った、

言葉にしなかった温もり。


王都での出会いが、

止まっていた歯車を――静かに回し始める。


それは偶然か、必然か。

“婚約者”として立つ彼女に、

新たな視線が向けられる。


安らぎの先で、

亡国の姫と静謐王子は試される。




第一章「辺境編」を

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


静かな時間の積み重ねや、

言葉にできない想いを大切にしながら、

ここまで物語を紡げたことを、心から嬉しく思っています。


第二章「王都編」では、

二人が守ろうとした日常の外側で、

新たな出会いと選択が待っています。


引き続き、見届けていただけましたら幸いです。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

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