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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第27話 出立の支度


その夜。


昼とはまるで別世界の温室には、深い静寂が降りていた。

ガラスの外には星明かりだけが滲み、

内側では淡い光の精霊たちが、花々の間をふわりと漂っている。


イエレナはひとつの鉢の前にしゃがみ込み、そっと葉を撫でていた。

ひやりとした緑の感触が指先に伝わる。

けれど、胸のざわめきは少しも収まらない。


(……私がいることで、誰かがまた傷つくかもしれない)


胸奥に沈んでいた影が、静かに広がる。


燃え落ちる城。

赤い空。

兄が最後に伸ばした手。

焦げた風の匂い。


忘れたくても忘れられない光景が、闇とともに蘇る。


(また……繰り返すの?)


守ることもできず、

抗うことすらできず、

ただ――逃げるしかなかった。


誰かに庇われ、守られて、

こうして今、穏やかな日々を生きている。


それは救いのはずなのに。

救われているはずなのに。


「……それで、いいの?」


胸の奥で、あの日の自分が問いかける。

何もできなかった自分。

守られるだけだった自分。


その存在が、今も消えずに残っていて、

優しさに触れるたび、静かに責め立ててくる。


「……もう、あんな思いはしたくない」


声に出した瞬間、

喉の奥が、わずかに震えた。


繰り返したくない。

誰かを失うことも、

誰かの犠牲の上に立つことも。


だからこそ――

この温もりに、甘えていいのか分からなくなる。


だって今の私は、

守られることしかできない、

ただの“お荷物”でしかないから。


泣きたくない。


そう思えば思うほど、

押し込めていた熱が、

逆に胸の奥からせり上がってくる。


守れるのなら――

この穏やかな時間だって、

“婚約者”という立場だって、迷いなく手放す。


命を差し出すことさえ、厭わない。


——そうしなければ、

また何ひとつ守れないまま、

立ち尽くすことになる気がして。


そう、思っているのに。


セレストの笑顔が、脳裏をよぎる。

ギウンやアウル、リリュエルの温かさが、胸を静かに震わせた。


柔らかな眼差し。

髪に触れる指先の温度。

「ただいま」と、変わらぬ声音で迎えてくれる声。


世界が、じんわりと明るくなるような安心感。


それが――

自分でも怖くなるほど、

静かに、深く、広がっていく。


「……セス……」


思わず名を呼んでしまい、

慌てて唇を噛みしめる。


本当は、このまま寄りかかりたい。

手を伸ばせば、きっと。

穏やかな笑顔で、理由も問わず、受け止めてくれる。


――それでも。


甘えるには、まだ、怖すぎた。


その優しさが、どこまでが“義務”で、

どこからが“彼自身の想い”なのか。


確かめる勇気も、

すがってしまう覚悟も、

今の自分には、まだ持てない。


頬を伝いかけた涙を、

イエレナはそっと、指先で拭った。


拭った端から、また滲み出す熱が、

胸の奥に押し込めていた弱さを、

静かに、容赦なく暴いていく。


——泣いても、意味はないというのに。


王都へ行けば、

王子の婚約者として、公の場に立つことになるだろう。

そうなれば、いずれ帝国の耳にも届く。


その先に待つものが、

穏やかな未来でないことくらい、容易に想像がついた。


いつまでも、逃げてはいられない。

だから——


「……私は、何ができるの?」


亡国の姫として。

祝福を継ぐ者として。

そして――セレストの“婚約者”として。


小さく零れた問いは、

夜の温室に、淡く溶けていく。


答えは、まだ見えない。


けれど胸の奥では、

かすかな芽が、静かに息づき始めていた。


――守られるだけでは、終わりたくない。

――それでも、寄りかかりたい気持ちを、手放せない。


相反するふたつの想いが、

胸の奥で、そっと寄り添っている。


そのとき――


夜風が温室のガラスをかすかに揺らし、

光の精霊が、ひとひら、イエレナの肩へ舞い降りた。


触れた場所に残る、

温もりにも似た、淡い光。


まるで

「大丈夫だよ」と、言葉もなく寄り添うように。


イエレナはそっと目を閉じ、

胸に溜め込んでいたものを手放すように、

震える息をひとつ、静かに吐いた。



◇ ◇ ◇



翌朝。


隠れ家の屋敷には、

いつもより少しだけ冷えた空気が流れていた。


窓の外では、早朝の光が淡く地面を照らし、

鳥たちが控えめにさえずっている。

穏やかなはずの朝なのに、

どこか張りつめた気配が、静かに漂っていた。


――明日、王都から使者が来る。


誰も口にはしない。

けれど屋敷全体が、その事実を理解しているかのように、

わずかな緊張を含んだ息遣いをまとっている。


イエレナは、部屋の机の前に腰を下ろし、

その上に置かれた小さな鞄を、じっと見つめていた。


必要最低限の衣服。

身の回りの小物。

ほんのわずかな私物。


それだけだった。


(……私の持ち物って、こんなに少ないんだ)


胸の奥に、ぽつりと寂しさが滲む。


もしフェルディナで荷造りをしていたなら――

母と選んだ装飾品やドレス。

父から贈られた小さな品。

兄と交わした手紙の束。


思い出と家族の痕跡だけで、

鞄はすぐに溢れていたはずだ。


けれど今、

そのすべては、もう手の届かない場所にある。


イエレナは、ただ静かに鞄のそばへ視線を落とした。


「ねぇねぇ!

 王都って、どんなところかな~?」


ぱぁっと、部屋の空気が一段明るくなるような声。


光の粒を散らしながら、

リリュエルが宙をくるくると舞い降りてくる。


「面白いものもいっぱいあるかな?

 ボク、早く行きたいなぁ! きっと楽しいよ!」


無邪気な期待に満ちた瞳。


イエレナは思わず小さく笑った。

胸の奥に溜まっていた重さが、ほんの少しだけ緩む。


「……そうだね」


その声は、まだかすかに揺れていたけれど。


そのとき、

そっと部屋の光を遮るように、影が落ちた。


振り向くと、そこに立っていたのは――セレストだった。


いつもと変わらない、柔らかな微笑み。

けれど、その眼差しには、わずかな緊張が滲んでいる。


彼は彼女の前まで歩み寄り、

机の上の鞄を一度だけ見てから、静かに言った。


「明日の朝、王都へ向かうよ」


穏やかな声音。

けれど、逃げ場を与えない確かさを伴って。


「必要なものは、向こうで揃えさせてある。

 ……だから、最低限で大丈夫だからね」


淡い声が、寝起きの空気をそっと揺らした。


イエレナが顔を上げると、

瑠璃色の瞳が、まっすぐに――迷いなく、自分だけを捉えていた。


「……それから」


一拍。

言葉の温度が、ほんのわずかに深くなる。


「王都では、君に“婚約者”として振る舞ってもらう場面が出てくると思う。

 でも……心配しなくていい。余計な負担はかけない」


そこで、セレストは一度だけ言葉を切った。

ほんのわずか、呼吸を整えるような間。


「僕が、隣にいる」


それだけを先に告げてから、

視線を逸らさずに、続ける。


(……“頼ってほしい”なんて言ったら、重いだろうか)


胸の奥をかすめた迷いを、

静かに飲み込んで。


「イェナ。君は――一人じゃない」


はっきりと、けれど押しつけがましくならないように。

確かめるような声音で。


その言葉が落ちた瞬間、

イエレナの胸の奥が、きゅうっと小さく震えた。


嬉しい。

大切にされているのも、ちゃんと伝わる。


なのに――

優しさが近すぎて、息が少しだけ詰まる。


それでも彼女は、かすかに頷いた。

今の自分にできる、精一杯の返事だった。


窓の外では、アウルとギウンが護衛経路の最終確認をしている。

足音や低い声が、屋敷の空気を静かに“出立”へと向かわせていた。


そんな中――


「ボクが王都でも、イェナを守るんだー!」


元気いっぱいに胸を張るリリュエルが、

きらきらと翼を広げて宙を舞う。


その小さな声は、

張りつめていた空気に、光の粒を落とすみたいに広がった。


イエレナの胸にも、

ほんの少しだけ、温かな勇気が灯る。


彼女はそっと胸元に手を添え、

小さく息を吸い込んだ。


(……大丈夫。きっと、大丈夫)


夜に流した涙の記憶は、まだ胸の奥に残っている。

けれど今――この朝の光の中で。


ほんの少しだけ、

前に進める気がした。




【 次回予告 】


守られていた日々に、

そっと背を向ける朝。


差し伸べられた手を取り、

少女は――歩き出す。


辺境を離れ、運命は王都へ。


そしてここが、

第一章・終幕。


次話、第28話「辺境を後に」



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。

本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


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