第22話 午後の微睡み
ある日の昼下がり――。
ダイニングルームは、梅雨入りを告げるやわらかな曇り光に包まれていた。
高い窓の外では、細かな雨が静かに降り続き、
白いクロスの上には、明るさを抑えた淡い光が静かに落ちている。
湿り気を含んだ空気が室内に満ち、
まるで雨音に合わせて、時間そのものがゆっくりと溶けていくようだった。
そんな静けさの中心で、ひとつ影が伸びている。
ソファに身を預け、
上衣の襟をゆるく外したまま、静かに眠るセレスト。
外套は背もたれに無造作に掛けられ、
長い銀白の髪は、差し込む淡い光を受けてほのかに透けている。
いつもは涼やかなその横顔も、今はわずかに疲労の影を帯びていた。
机の上には、未読のまま開きかけの書状。
封蝋には第一王子ラファエルの刻印。
隣には、ぬるくなった紅茶。
彼がここに腰を下ろしたまま眠りに落ちたことを、
散らばった書類と微睡む睫毛が静かに物語っていた。
指先は緩く拳を握ったまま。
眠りは浅く、心だけが休まっていないようにも見えた。
――そのとき。
廊下から、小さな足音が近づく。
窓の外では、雨音がわずかに調子を変え、
遠くで、かすかな水の気配が重なっていた。
扉がきいと音を立て、
湿り気を帯びた空気とともに、イエレナがそっと顔を覗かせる。
薄曇りの光の中で眠るセレストを見つけた瞬間、
息をのみ――足が止まった。
「……セス……?」
囁いた声は、雨に鎮められた空気の中へ溶けていった。
イエレナは、まるで夢を壊してしまうのを恐れるかのように静かに歩み寄る。
そして、ソファに寄り添うように膝を折り、セレストの横顔を覗き込んだ。
規則正しい寝息。
緩やかに上下する胸。
ほどけた襟元から覗く温かい呼吸。
その姿に、胸の奥がじんわりほどける。
(……よかった。
ほんの少しでも、休めてるみたい……)
安堵と同時に――胸の奥に、疼くものがある。
あの日の花畑。
あの光。
自分の意思とはまったく関係なくあふれ出した“力”。
セレストにすべて話したい。
けれど、この疲れた寝顔を見ると……言葉は喉の奥で硬く絡まった。
(……迷惑なんて、かけられない)
イエレナはそっとソファの縁に腰を下ろし、
膝を抱えて身を小さくする。
窓から差し込む光は二人をひとつの色の中に溶かして、
静かな寝息だけが部屋の空気を揺らした。
ただ寄り添うように。
ほんのひととき――彼の安らぎを分けてもらうように。
イエレナは目を閉じ、胸の奥に宿る小さなざわめきを抱きしめた。
◇ ◇ ◇
「……ん……」
小さな寝返りとともに、セレストのまつげがふるりと震えた。
雨に曇った淡い光の中で、ゆっくりと瞼が開き、視界が形を結ぶ。
最初に映ったのは、自分のすぐ隣。
膝を抱えて小さく身を縮め、寄り添うように座るイエレナの姿だった。
彼女の呼吸は穏やかで、
外で降り続く雨音と溶け合うように、静かな眠りに落ちている。
(……いつの間に……?)
胸の奥が、じん、と温かくなる。
隣にいる――それだけで、
張り詰めていた疲れが、雨にほどかれるように溶けていった。
セレストの口元に、自然とやわらかな笑みが落ちる。
「……ほんと、君は……」
囁きは湿り気を帯びた空気に吸い込まれ、
そのまま、彼女の頬に落ちかかった髪をそっと払う。
その瞬間、
イエレナがかすかに身じろぎし――
まぶたが、ゆっくりと開いた。
ぼんやりとした視線が、セレストをとらえる。
「あれ……寝ちゃって、た………?」
寝起きの声は雨音よりも柔らかく、
頼りなくて、胸の奥を甘く刺す。
「どうしたの? 隣にきて」
その問いに、
少しだけ迷うような間を置いて、イエレナは唇を動かした。
「……側に、いたかった……の」
胸が――強く、きゅうっと鳴った。
驚きと嬉しさが一気に押し寄せ、
セレストは思わず息を吸う。
「じゃあ、こっちくる?」
試すように、そっと腕を広げる。
軽い誘い――
けれど胸の奥には、ほんの少しの期待と、不安。
――どうせ照れて拒むだろう。
――顔を真っ赤にして誤魔化すはずだ。
そう思っていた。
ほんの一瞬前までは。
なのに。
「……ん」
半分夢の中にいるような声。
イエレナは迷いもなく、その胸へふらりと傾いた。
まだ熱の残る頬を染めたまま、
素直に、柔らかく身体を預ける。
そして――
動物の子のように、すりすりと額を寄せてきた。
「……っ」
セレストの心臓が跳ねた。
胸の奥が焼けつくように熱くなり、
呼吸が一瞬止まるほどの衝撃。
理性が、かすかにきしむ。
(……だめだ、これは……)
落ち着こうとする間もなく――
ぱちり。
イエレナのまぶたが開き、
その瞬間、ふたりの距離がはっきり意識に刻まれた。
彼の胸に抱き寄せられている自分。
頬の熱。
腕の位置。
全部が一瞬で理解される。
「っ……!」
瞬間、イエレナの顔が熟れた桃のように真っ赤に染まった。
(わ、わ!!
い、今の……ナシ……っ!!)
慌てて離れようとした、そのとき。
セレストの腕がゆるくまわり、逃げ道を塞ぐ。
「っ?!」
「……僕がこうしたいだけだから。
少し、このままで……ね?」
触れる声は低く、甘く、胸の奥を震わせる。
拒めない優しさ。
逃げられない温度。
イエレナの力は、そっと抜けた。
額を胸に預けると、心地よい鼓動が耳に響く。
安心が、じわりと染み込み――瞼が重くなる。
(どうして……こんなに、落ち着くんだろう)
そっと、小さな手が彼の背へ伸びる。
触れた指が震えながら――
ぎゅっと、抱きしめた。
その瞬間。
セレストの表情に、柔らかな灯がともる。
嬉しさを隠せない、静かな微笑み。
長い指でイエレナの髪を梳きながら、
ゆっくりと視線を窓の外へ移す。
空はまだ曇り、
細い雨が、途切れることなく降り続いている。
その灰色の景色の中で、確かに宿ったのは――
彼女を守りたいという願いと、
どんな影にも奪わせないという、静かな決意だった。
イエレナのまつげがふるりと震え、
やがて、重たげに閉じる。
胸元で小さな息が上下し、
その寝息は、雨音に紛れそうなほどか細くて――
それでも、確かに安らいでいた。
セレストもまた、
彼女を抱く腕のぬくもりに引き込まれるように、
まぶたを、静かに閉じる。
二人分の呼吸が重なりあい、
部屋は、ひとつの静かなリズムで満たされていった。
――午後の曇り光が、
二人だけを包む、静謐な世界。
ほんの数刻前まで、
胸に重くのしかかっていた疲れや不安は、
もう、そこにはなかった。
ただ、
寄り添う温度だけが、そこにあった。
やがて。
きい、と扉の蝶番が、ひどく控えめに鳴いた。
入ってきたアウルとギウンは、
次の瞬間、ぴたりと足を止める。
ソファに寄り添い、静かに眠る主と姫。
先ほどまで降っていた雨は、いつの間にか止み、
高い窓の向こうでは、雲の切れ間から淡い光が滲みはじめていた。
濡れた庭の葉が静かに揺れ、
水滴が落ちるかすかな音だけが、空気に残っている。
雨上がりのやわらかな光が、
二人の銀白と淡い金の髪を、そっと縁取っていた。
絡む指先。
重なり合う寝息。
湿り気を残した空気の中で、
時間だけが、ゆるやかにほどけていく。
――まるで一枚の絵画。
――嵐が去ったあとの、壊れやすいほど静かな世界。
ギウンは、思わず眉を跳ね上げた。
「おいおい……昼間っから堂々と……」
呆れ声の中に、わずかな微笑が混じる。
その横で、アウルは変わらぬ調子で答えた。
「……婚約者同士です。不自然ではありません」
淡々とした言葉。
けれどその視線の奥には、
雨雲が去ったあとに残る、微かな陰りが一瞬だけよぎる。
それに気づいたギウンは、
深く追及せず、静かに肩をすくめた。
「……ま、邪魔しないでおきますか」
二人は足音を忍ばせ、そっと扉を閉めた。
ぱたん。
音が消えた室内には、
再び――ただ寄り添う二人の寝息だけが、穏やかに漂い続ける。
雨上がりの午後。
光が戻った世界で、
ただ静かに――微睡みだけが、そこにあった。
【 次回予告 】
安らぎのひと休憩に、
王都からの一通が届く。
その刻印に、
彼は――王子として立ち上がる。
次話、第23話 「静謐を破る刻印」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4783lg/
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