第21話 祝福の残響~前編~
ここ最近――
セレストの姿を見ることができるのは、
朝のほんのわずかな時間と、夜も更けた頃にそっと顔を見せる、
その程度になっていた。
食事の時間が重なることはほとんどなく、
顔を合わせるのは、廊下ですれ違う一瞬だけ。
それでも――
彼は必ず、足を止めてくれた。
「イェナ、変わったことない?」
「最近また冷えるから、暖かくするんだよ」
「何かあればアウルとギウンを頼るんだよ?」
「……ゆっくりお休み」
まるで、それだけを伝えるために来たかのように。
確かめるように視線を向け、
そっと頭や頬に触れてから、すぐに立ち去っていく。
白い指先が髪に触れるたび、
胸の奥がじんわりと温かくなる。
――ちゃんと、想ってくれている。
それだけは、はっきりと分かった。
……だけど。
触れてくれるのは、いつもほんの一瞬。
手を伸ばせば届く距離にいるはずなのに、
気づけばもう、その背中は遠ざかっている。
王都からの呼び出しが続いているのだろう。
忙しいのだろう。
大切な仕事なのだろう。
分かっている。
分かっているからこそ、引き留めたくなくて。
余計な心配をかけたくなくて。
「大丈夫」と笑って、見送ることを選んでいるのに――
胸の奥のどこかだけは、
ぽっかりと空いたまま、どうしても塞がらなかった。
季節は春から雨季へと移ろい、
柔らかだった陽射しは雲に覆われ、
庭には長い影の代わりに、しっとりとした湿り気が満ちていく。
風には、雨の匂いを含んだひんやりとした気配が混ざり始めていた。
庭のベンチに腰を下ろし、
イエレナは膝を抱えて、小さく息をつく。
「……セス、最近ずっと忙しそう」
ぽつりと零れた声は、
風にさらわれてしまいそうなほど弱くて――
けれど、その奥に滲んだ寂しさだけは、ひどく鮮明だった。
その隣で、ふわりと舞っていたリリュエルが、
くるりと宙で向きを変える。
「そうだね~……ん?
もしかして……寂しい?」
黄金の瞳がきらりと光る。
あまりにもまっすぐな問いに、イエレナはぱちりと瞬きをして――
「……うん。ちょっと、寂しいなって」
思った以上に素直な声が出てしまい、
自分でも驚いて、慌てて視線を落とす。
言葉にしてしまった途端、
胸の奥の“ぽっかり”が、
はっきりと形を持ってしまったようで。
きゅ、と、胸が小さく痛んだ。
けれど、リリュエルはそんな空気など気にすることもなく、
ぱぁっと羽を震わせて、眩しい笑顔を見せる。
「でもさ!
セスがいない間は、ボクと遊び放題だよ!!」
「……ふふっ、確かにそうかも」
あまりにも天真爛漫な声に、
イエレナは思わず、くすっと笑ってしまう。
胸に溜まっていた寂しさが、
雨上がりの風に溶けるみたいに、
ふわりと、少しだけ軽くなった。
◇ ◇ ◇
「姫さん、気晴らしに草むしりでもどうです?
今日は天気もいいですし。黙々とやると、意外と頭がすっきりするんですよ」
からりとした調子。
気負いも、下心もない提案だった。
「……いいね。やろうかな」
イエレナがそう答えて、柔らかく微笑む。
その瞬間――
「ギウン」
すかさず、アウルが眉を寄せた。
「姫様に、そのようなことをさせないでください」
低く、きっぱりとした声。
護衛としての立場が、そのまま言葉になっていた。
「今日は特にすることもないし……
一緒にやったら、だめ?」
穏やかな声色。
けれど、どこか譲らない芯がにじんでいる。
アウルは一瞬、言葉を探すように口を閉ざし――
やがて、小さく息を吐いた。
「……無理は、なさらないでください」
それ以上は止められなかった。
イエレナは静かにしゃがみ込み、
小さな手で雑草を抜いては、籠の中へ丁寧に入れていく。
ただの作業のはずなのに、
一つひとつの動きはどこか楽しげで、
土に触れること自体を味わっているようだった。
その様子を横で見ていたギウンは、
思わず口元を緩める。
「……ほんと、姫さんは変わってますね」
呆れでも、揶揄でもない。
むしろ――感心に近い声音だった。
「そう?」
イエレナは小さく首を傾げ、くすりと笑う。
「小さい頃から、土いじりは好きなんだ」
風に揺れる髪を、そっと押さえながら微笑むその姿は、
柔らかな陽を含んだ花のようで。
その言葉に、
ギウンは「そうでしたね」と肩をすくめ、
アウルは何も言わず、ただ静かにその背を見守っていた。
――そして。
少し離れた位置で、リリュエルがじっとイエレナを見つめている。
小さな羽根が日差しを受け、きらきらと光を返した。
無邪気なはずの金色の瞳が、
今はどこか真剣で。
(……祝福が……前より、ずっと強くなってる……?)
風がそよぎ、
庭の空気が、ほんのわずかに揺れた。
◇ ◇ ◇
休憩を終え、再び庭へ出たイエレナは、
袖をまくりながら、静かに土へ手を伸ばした。
指先に伝わる、ひんやりとした感触。
湿り気を含んだ土は、雨季の気配をそのまま抱え込んでいる。
その横で、リリュエルがふわふわと宙を漂いながら、
無邪気に呟いた。
「雑草じゃなくて、お花だったら摘まなくていいのにね」
「ふふっ……一面お花畑にするの?」
何気ない冗談だった。
けれど、その言葉に反応したように、
リリュエルの瞳がぱっと輝き、羽根まで弾む。
「わー!それ素敵!」
無邪気な声が、空気を軽やかに跳ねさせる。
――その、ほんの一拍あと。
庭の空気が、ひやりと震えた。
イエレナも、
ギウンも、
アウルも、
誰ひとりとして気づかない。
ただ、リリュエルだけが、びくりと羽を震わせた。
(……え? 今の……)
次の瞬間だった。
イエレナの胸の奥から、
ふわり、と光の気配が滲み出す。
意思とは無関係な、
呼吸にも似た、ごく自然な“脈”。
意識する前に、
すでに放たれていた――祝福の波動。
柔らかいのに、
否応なく存在を主張する確かな鼓動。
その見えない波が、大地に触れた瞬間――
花が、弾けた。
小さな破裂音が連なり、
つぼみが一斉にほころび、
押し込められていた色彩が溢れ出す。
赤、黄、青、白――
まるで光そのものが地表を駆け抜けるように、
花々が波紋となって広がっていく。
ひとつのつぼみから、
次のつぼみへ。
さらに、その隣へ。
祝福に触れた土が、
生命を思い出したかのように連鎖していく。
庭全体が、
淡い光に満たされ、
息づくように色づいた。
風はないのに、
花の香りがふわりと満ち、
光の粒子が舞い落ちて、虹色のきらめきを散らす。
「……なに……これ……?」
イエレナの声はかすかに震えた。
何もしていないのに。
ただ、胸の奥で“波”が揺れただけ。
それだけなのに――
庭は、完全に花の海へと姿を変えていた。
淡い香り。
光の残滓。
精霊たちのさざめき。
あまりにも現実離れした光景に、
胸が高鳴るより先に、
知らない自分の力への不安が、静かに広がっていく。
ギウンも、アウルも、
ただ言葉を失い、息を呑むしかなかった。
ただひとり――
リリュエルだけが、無邪気に瞳を輝かせて叫ぶ。
「すごーーいっ!!!
本当にお花畑だぁっ!」
その声とは裏腹に、
イエレナの指先は、かすかに震えたまま。
美しく咲き誇る花々の中で、
胸の奥に滲んでいくのは、
喜びではなく――
戸惑いと、
そして、言葉にならない恐れだった。
【 次回予告 】
祝福は、咲いてしまった。
その“残響”に、彼は気づく。
動き出す歯車の中で、
イエレナは――まだ、何も知らない。
次話、第21話「祝福の残響~後編~」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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