第20話 呼び出しの刻印
【セレストside】
屋敷の廊下――。
先ほどまでアウルが放っていた冷気の名残が、まだ空気に沈んでいた。
石造りの壁には、淡い白霧が薄くまとわりつき、
夜の静寂さえも、凍りついたように感じられる。
吐く息は、かすかに白く曇った。
コツ、コツ、と。
広い廊下に響くのは、セレストとアウル、二人分の足音だけ。
冷え切った空気は張り詰めたまま、
夜の静けさと絡み合い、息苦しいほどの沈黙をつくっている。
「……そんなに怒らなくても」
その沈黙を破ったのは、セレストだった。
軽く、どこか他人事のような声音。
だが、返ってきた声に、一切の余地はなかった。
「怒りますよ」
氷を削ぐような冷たい響き。
感情を抑えているはずなのに、
その怒りは、なおも周囲の温度を下げ続けていた。
歩を進めるたび、
アウルの纏う冷気が廊下の空気を震わせる。
刃のような冷たさが、肌を刺す。
「まだ“婚約者”である以上、節度を持つべきです。
姫様を困らせる行為は……許されません」
言葉は硬く、まっすぐだった。
言い逃れを許さない断定。
そこにあるのは、護衛としての義務と、個人としての本気の怒り。
セレストは足を止め、
ふわりと身を翻してアウルを見る。
唇には薄い笑み。
けれどその横顔には――
どこか、子どものようにむくれた影が滲んでいた。
「困らせるつもりはなかったよ。
ただ、あの子が……離してくれなかっただけだ」
軽く肩をすくめる仕草。
けれど、その言葉の奥には、
言い訳とも、本音ともつかない揺らぎがあった。
「……言い訳に聞こえます」
アウルの瞳が、鋭く細められる。
冷たく澄んだ淡青色の視線は、
セレストの甘えを一切受け入れない硬さを宿していた。
セレストは肩をすくめ、
わずかに顎を逸らす。
「……君は、いつも厳しいね。
僕がイェナに無理をしたと――そう見えたの?」
探るような問い。
軽く装った声の裏で、答えを恐れている自分を、彼は自覚していた。
「……そう見えても、仕方がありません」
間髪入れず返ってくる言葉。
迷いも、ためらいもない断定。
その一撃は、
音もなく、けれど確かに、
セレストの胸の奥へ沈んだ。
「……ふぅん」
小さく吐息をこぼす。
口元には淡い笑みが浮かんでいる。
けれどその奥には、
子どものように拗ねた色が、どうしても隠しきれずに滲んでいた。
その表情は――
彼の本心を知るアウルでさえ、
一瞬だけ、言葉を失わせるほど、脆く、正直だった。
(……彼女が嫌がることは、しないよ)
胸の奥で、誰にも聞かせない声で呟く。
自分の手を握り返してきた、あのぬくもり。
呼ばれた名前。
離れることを拒むように、縋りついてきた小さな手。
そのすべてが、
セレストの理性を、ぎりぎりのところまで揺さぶっていた。
それでも――
(君の心が決まるまで、僕は踏み込まない。
それでも……そばにいることは、許してほしい)
心に刻みつけるように、言い聞かせる。
セレストは踵を返し、再び歩き出した。
長い銀髪が揺れ、
淡い光を反射して、廊下に静かな輝きを落とす。
アウルの纏う冷気が、完全に消え去る前に。
セレストは、何も言わず、
自室の扉の向こうへと姿を消した。
その背中が残した空気だけが、
まだ――
熱と冷気の余韻を混ぜ合わせたまま、
静かに揺れていた。
◇ ◇ ◇
私室に戻った瞬間、
廊下に残っていた冷気が、ふっとほどけ、静けさが戻った。
扉を閉めると、
セレストは長い銀髪を肩越しに払うように指を滑らせ、
外套を椅子へ静かに掛ける。
その一連の動作には、
ほんのわずかな疲労が滲んでいた。
背後で控えていたアウルが、
一歩だけ前へ進み出る。
「……王城より、第二王子レオニス殿下の刻印がございます」
差し出された書簡。
封蝋には、鋭く澄んだ氷晶を象った、見慣れた刻印。
それを確認した瞬間、
セレストの眉が、わずかに揺れた。
「……レオニス兄上、か」
封を切った瞬間――
冷たい風が胸の内側を撫でるような感覚が走った。
手紙を開く間に、セレストの瞳は淡く細められていく。
(……やはり、帝国絡みだろう)
確証はない。
それでも、その予感は胸の奥で鈍く脈打ち、離れなかった。
イエレナを隠れ家へ移してから、
王城からの呼び出しは、すでに幾度か届いている。
だが――
レオニス自らの刻印が押されているとなれば、
それは“要請”ではなく、“命令”に等しい。
避けることは、できない。
「……どうされますか」
低く抑えたアウルの声に、
セレストは書簡を指先で押さえたまま、ひとつ、小さく息を吐いた。
「……応じるしか、ないね」
机に書簡を置き、
セレストはゆっくりと窓辺へ視線を移した。
東の空は白みはじめ、
夜の深い蒼が、時間をかけてほどけていく。
けれど――
胸の奥に広がっていくのは、夜明けの光ではない。
静かに沈み、重くまとわりつく影だった。
帝国。
フェルディナの残響。
王家からの呼び出し。
そして何より――
寝台で高熱にうなされながら、
自分の名を呼んだ、あの少女。
(……彼女を、巻き込みたくはない)
深く息を吸い込み、
ゆっくりと吐き出す。
ほんの一瞬、
抑え込んでいた感情が揺れ、
肩がかすかに震えた。
書簡を胸元へ収め、
セレストは低く、静かに命じる。
「……準備を」
アウルは一礼し、
無駄のない足取りで部屋を後にした。
残されたのは、
早朝の冷たい静寂だけ。
再び窓辺へ歩み寄り、
淡い光を浴びながら、そっと瞼を閉じる。
脳裏に浮かぶのは――
夜中、泣きながら服を掴み、
「どこにも行かないで」と縋った声。
布団に顔を埋めて、
耳まで真っ赤にしていた姿。
薬を飲んで、
褒められたときに見せた、あの無防備な笑顔。
胸の奥に沈んでいた影が、
ゆるやかに、ほどけていく。
「……ふ」
気づけば、
口元には小さな微笑が浮かんでいた。
ほんのひとときでも、
帝国の影を忘れさせてくれる存在。
(……守りたい)
その想いは、まだ言葉にならないまま、
胸の奥に静かに灯り続ける。
冷たく澄んだ朝の光の中で、
セレストはゆっくりと目を開けた。
◇ ◇ ◇
王城。
転移陣の光が消えた直後から、
セレストはレオニスの執務室に通されていた。
机の上には、書簡と報告書が幾重にも並べられ、
氷晶色の魔導灯が淡く室内を照らしている。
「……帝国の密偵が、数名確認されている」
レオニスの低い声が、淡々と事実を告げた。
国境付近での動き。
情報の流れ。
王城内部にまで及ぶ可能性。
一つひとつを精査し、
仮定を重ね、否定し、
慎重に結論を削り出していく。
静かで、長い話し合いだった。
やがて――
「今日は、ここまでだ」
ようやく区切りがついたように、
レオニスは背もたれへ体を預ける。
セレストもまた、
小さく息を吐いて肩の力を抜いた。
その時だった。
思い出したように、
レオニスが書類から視線を外さぬまま、付け足す。
「……ああ、それと」
わずかに混じる、疲労のため息。
「ラファエルの呼び出しにも、応えてやってくれ。
拗ねてな……仕事にならん」
一瞬だけ、セレストは瞬きをする。
それから、苦笑が零れた。
「兄上の“呼び出し”は、
基本的に私的なものが多いので」
「……わかっている」
レオニスは額を押さえ、
今度こそ、はっきりと息を吐いた。
「まぁ、業務のついででいい。
顔だけでも出してやれ」
その言葉に、
セレストは一瞬だけ思案する素振りを見せ、
やがて、穏やかな笑みを浮かべる。
「……戻る先に、気がかりな者がいますから。
長居は、避けたいですね」
一切の迷いを含まない声音。
レオニスは一瞬、言葉を探し――
やがて、諦めたように深くため息をついた。
「……まったく。
本当に、めんどくさい兄弟だな」
その呟きに、
セレストは小さく肩を揺らし、
くすくすと笑った。
【 次回予告 】
守りたいと願った、その裏で――
祝福は、静かに目を覚ます。
セレストの不在に、
イエレナの内なる力が揺らぎ始める。
次話、第21話「祝福の残響~前編~」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




