第19話 危うい温もり
夜明け前。
淡い薄明が、静かな寝室の空気をうっすらと染めていた。
イエレナはゆっくりとまぶたを持ち上げる。
(……夢じゃ、なかった……)
熱の重さは消え、視界も嘘のように澄んでいたのに――
身体の芯に残る温度だけが、まだ昨夜の名残を伝えていた。
数日間の記憶が、断片の光となってよみがえる。
セスの手を握って離さなかったこと。
無防備に泣きつき、子どものように甘えてしまったこと。
そして――兄アズベルトを重ねて縋ってしまったこと。
(……っ、信じられない……)
思い返すだけで、顔が枕に沈んでしまいそうになる。
自分でも知らなかった弱さも、幼さも、全部セスに――
そっと距離を取ろうと、身をずらした瞬間。
ぐい、と。
温もりのある腕が彼女の腰を引き寄せた。
「っ……せ、セス……!」
驚いた声に反応して、すぐ隣で眠っていたセレストがゆっくりと瞼を上げる。
寝起きの瑠璃色がぼんやりとイエレナを捉え――
掠れた、甘い低音が落ちた。
「……イェナ、どこ行くの?」
あまりにも近い声。
夢と現の境界で揺れる響きに、胸が跳ねる。
「あ……いや、その……」
しどろもどろになる彼女をゆっくり見つめて、
セレストはふっと唇を緩めた。
その笑みはやわらかいのに、どこか意地悪くて――眠気も相まって艶めいて見えた。
「……体調は?」
「だ、大分よく……なりました……本当に、ご迷惑を……」
慌てて言葉を並べるイエレナを眺め、
セレストは困ったように、でも嬉しそうに目を細めた。
そして――わざと聞こえるくらいの声で囁く。
「……もう、甘えないの?」
「……っ!」
胸がぎゅっと縮まる。
逃げようとした頬にそっと指が触れ、顎のラインへと滑り、顔を正面に戻される。
「イェナが、引き止めたんだからね? わかってる?」
至近距離で絡む瑠璃の視線。
熱に浮かされていた数日の記憶が、否応なく胸の奥をかき混ぜる。
「……セス……」
かすれる声で呼んだ瞬間――
彼の影がふわりと近づき、額にそっと口づけが落ちた。
それは優しさだけじゃない、
ほんの少しの意趣返しのような、くすぐったい熱。
そして囁きは、静かに胸を射抜く。
「……兄にはなれないや。ごめんね?」
その囁きが落ちた瞬間――
イエレナの胸が、きゅっと跳ねた。
(……兄だなんて、思ったこと、ない……)
アズのように、温かくて、包み込む優しさ。
けれど、セスの瞳に宿るこの熱だけは――
決して“兄”にはなかったものだ。
そう気づいた途端、
胸の奥がざわめき、呼吸が浅くなる。
――雨の日。
あのとき向けられた、抑えきれない熱。
触れられそうになった距離。
触れようとした、あのぬくもり。
記憶が重なって、
まるで今もそこにあるみたいに、鮮明によみがえる。
戸惑いは、確かにある。
それでも、目を逸らすことができない。
むしろ――
その温度を、確かめたくなってしまう自分がいて。
その事実に、心がさらに揺れた。
セレストは、ゆっくりと身を屈める。
覆いかぶさるほど近くへ、距離が詰まる。
「……イェナ」
低い声が耳元を震わせるたび、
心臓が痛いほど強く打った。
逃げたい。
……けれど、逃げたくない。
その矛盾に耐えきれず、
イエレナは、きゅっと目を閉じる。
――その瞬間。
セレストが、首元に顔を埋め、
深く、息を吐いた。
熱を帯びた吐息。
それが、少しずつ落ち着いていき――
やがて、規則正しい静かな寝息に変わる。
(……ね、寝ちゃっ…た…?)
顔が、一気に熱を帯びる。
体の重みだけじゃない。
胸の奥まで覆いかぶさってくるような、この“存在感”。
どうしていいのか、分からない。
(……ど、どうしよう……!
このままじゃ、息も……心臓も……っ)
耳まで真っ赤。
指先は震え、布団をきゅっとつかむ。
――そんな時だった。
「……えぇ~っ……ちょ、ひ、姫さん?」
そっと開いた扉。
その先に広がっていた光景に、
ギウンは、ぴたりと固まっていた。
――イエレナに覆いかぶさるようにして、
すやすやと眠るセレスト。
「~~っ!!
ギ、ギウンっ!?ち、違うの!違うからね……!」
必死に身を起こそうとするが、
セレストの体は、まるで動かない。
「セ、セスが……寝ぼけて……っ!!」
涙目で助けを求めるイエレナを前に、
ギウンは、ゆっくりと頭を抱えた。
「……あー……
うん。うん、なるほどね」
状況は、完全に理解した。
理解したうえで――
どう処理すべきかは、まったく分からなかった。
「ぎ、ギウンっ...たすけて...っ!」
「……こりゃ、姫さんの身が持たねぇ……」
ため息まじりに近づいた、そのとき――
「……ん……」
セレストが眠ったまま身じろぎし、
落ちた吐息がイエレナの首筋をなぞる。
唇がかすめるほど近くて――
「ひゃあっ!」
イエレナは跳ねるように震え上がった。
耳まで真っ赤に染まり、布団に顔を埋める。
ギウンは完全に固まり、
「誰か助けてくれ……」と天を仰ぎながら頭を抱えるしかなかった。
そこへ――
「殿下、こちらにおられますか?」
冷静な声。
振り向いた先で、アウルが寝室に足を踏み入れ――
そして、ぴたりと止まった。
イエレナの上に覆いかぶさるように眠るセレスト。
首筋すれすれの距離。
腕は、抱き寄せる形のまま。
「...っ」
イエレナは言い訳を探した。
けれど喉が、ひゅ、と鳴っただけで声にならない。
その瞬間。
窓硝子に、すう、と白い霜が走った。
ギウンが思わず肩をすくめ、息を呑む。
イエレナの背筋にも、冷たいものが伝った。
アウルの瞳だけが、氷のように澄んでいる。
「……セレスト様、起きてください」
怒鳴り声ではない。
けれど――淡々と落とされたその一言は、
刃のように冷たい威圧をまとい、寝室の空気を瞬時に凍らせた。
冷気が床を這い、空気は白く曇りそうなほど冷え込む。
イエレナは思わず肩を震わせた。
その緊張の中――
覆いかぶさっていたセレストが、ゆっくりと息を吐く。
その吐息が、イエレナの首筋をかすめ――
「……っ」
声が詰まって、肩が跳ねた。
やがて、長い睫毛がふるりと揺れ、
眠気を含んだ瑠璃が開く。
半分夢の中にいるような仕草で身体を起こし、
寄り添っていたイエレナから身を離す。
その動きが、あまりに自然で――
あまりに、色っぽかった。
イエレナの心臓は、容赦なく跳ね上がる。
セレストは寝乱れた髪を指先でかき上げながら、
ようやくアウルへ視線を向けた。
「……何か、あった?」
寝起きの低い声、首を傾ける角度――
その全てが“油断しかない色気”をまとっている。
アウルはわずかに目を細め、深く息を吐いた。
背後のギウンも、あまりの光景に
「やれやれ……」と額を押さえていた。
そして、アウルの一言が落ちる。
「“まだ”婚約者の身です。節度を」
淡々とした声なのに、室内の空気だけが張り詰める。
イエレナは反射的に頬を赤くし、視線を逸らした。
「〜〜っ!!」
一方セレストは、眠たげな瞳のまま少し不機嫌そうに呟く。
「……イェナが嫌がることはしていない」
「そういう問題ではありません」
アウルの声はさらに低く、
周囲の温度がまた数度下がる。
ギウンが慌てて割って入る。
「え、えーっと……ほら!何事もなかったんだから……な?
な?姫さん?」
だが――
イエレナは真っ赤なまま布団に顔を埋め、沈黙した。
「……………」
ギウンの顔色が変わる。
「えっ!?いや、ないですよね!?ねっ!!?」
その横で、アウルの目がさらに冷える。
その空気を裂くように、セレストが寝台から離れた。
衣の裾を整え、肩越しに振り返る。
「……添い寝してただけだよ」
あまりに堂々とした笑みに、
ギウンは(言い訳にもなってねぇ……)と内心で頭を抱える。
その言葉を残し、セレストは静かに部屋を出ていった。
当然、アウルも怒気を孕んだままその背を追う。
寝室に静けさが戻ると――
布団に潜るイエレナの頬は赤いまま。
「……姫さんも大変っすね……」
ギウンが苦笑混じりに呟く。
「う、うぅ……」
顔を出す勇気もなく、イエレナは布団を握りしめる。
ギウンはやれやれと肩をすくめて立ち上がる。
「大事とって、朝食はここに運びますから。
……ゆっくり休んでくださいね」
扉が閉まる直前、
布団から見えたイエレナの耳は、真っ赤なままだった。
その赤さは――
熱のせいだけではなかった。
【 次回予告 】
朝の温もりは、まだ胸の奥に残ったまま。
けれど――
静謐王子の立つ場所は、
ゆっくりと、現実へ引き戻されていく。
次話、第20話「呼び出しの刻印」
――セレストside。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
物語の合間を綴った短編も、あわせて公開しています。
本編では語りきれなかった、ささやかな時間や想いを収めたものです。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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