第18話 離れたくないから
白いカーテンが、風もないのにわずかに揺れた。
その隙間から差し込む光が、ベッドの縁へとすべり落ちる。
イエレナはゆっくり瞬きをし、
霞んでいた視界が少しずつ輪郭を取り戻していく。
そして――目の端に映り込む“銀色”。
眠気の残る視線がそちらへ向いた瞬間、
胸の奥がふわりとほどけた。
そこには、彼がいた。
セレストはベッドの背に寄りかかるように座り、
膝の上には読みかけの本。
けれど本人はうつむく形で眠り込んでいて、
長い睫毛が頬にやわらかな影を落としていた。
静かで、穏やかで――少しだけ疲れた寝顔。
(……ずっと、そばにいてくれたんだ)
その事実がじんわりと広がって、
身体が自然と彼の方へ傾く。
そっと腕に触れたとき、
自分の指先が微かに震えているのが分かった。
「……セス……」
名前を呼ぶ声は、まだ夢の名残を含んでいた。
セレストのまぶたがゆっくりと震え、
瑠璃色の瞳がのぞく。
イエレナを見つけた瞬間、表情がふっと緩んだ。
「……イェナ? 体調はどう?」
掠れた、低く柔らかい声。
そのまま自然に、
彼の手がイエレナの額へ伸びる。
頬――首筋――
体温を確かめるように滑る指先。
触れられるたび、胸が熱くなる。
「……っ……セス……」
名前を呼んだだけで、頬が一気に火照った。
その反応に、セレストははっとしたように動きを止め、
気まずそうに手を引っ込める。
「あ……いや、ごめん。つい……」
触れたい衝動を抑えるように、
微かに眉を寄せた。
――そのとき。
コン、コン。
控えめなノックが寝室に落ちる。
「セレスト様、代わります。休まれてください」
扉から顔を出したアウルの声は冷静で、
視線は――完全に仕事のそれだった。
「……後は任せるよ」
セレストは静かに立ち上がる。
けれどイエレナは、
背が離れていくのを見た瞬間、条件反射のように手を伸ばした。
「……いっちゃうの……?」
か細く、喉が震えるほど弱い声。
セレストの足が、ぴたりと止まる。
ゆっくり振り返り、迷いと愛しさを滲ませた微笑みを浮かべた。
「……また後で来るよ」
朝の光のように柔らかい声。
その笑みを最後に、扉が静かに閉じる。
――扉の音が消えた瞬間、
胸の奥がすぅっと冷えていった。
(……昨日から……なんだか、距離がある……)
嬉しかったはずの指先も、
囁かれた声も。
いまはどこか、届かない。
その不安が、
あの日の言葉を呼び起こす。
『……アズみたいに……
セスも……いなくなるのかな……』
治りきっていない傷が、
冷たい風に晒されたみたいに疼いた。
だからこそ、気づけば探してしまう。
「……セスは?」
「今は書類を確認中です」
アウルの答えに、胸がきゅっと縮む。
しばらくして、また。
「……まだ、来ない?」
「す、すぐ戻られますよっ」
ギウンがわざと明るく言うけれど、
その明るさは、イエレナの不安をかき消さない。
やがて、熱に浮かされた声がぽろりと落ちる。
「……セスが、いい……」
その瞬間、アウルとギウンは目を合わせ――観念した。
「……呼んできますか……」
「誤魔化すのは無理だな」
ふわり、とリリュエルが舞い降りる。
「イェナはセスが大好きなんだね~」
その無邪気な声に、
布団に半分埋まっていたイエレナが、ゆっくり顔を出す。
頬は赤く、まぶたはとろんと重い。
けれど瞳だけは、どこか遠くを探すように揺れていた。
「……アズみたいで、落ち着くの……」
ぽつりと零れたその言葉が、
薄い空気の中に溶けていく。
――ちょうど、その瞬間。
きい、と。
音を忍ばせるように、扉が開いた。
「…………」
戻ってきたのは、セレストだった。
その姿を視界に捉えた途端、
イエレナの瞳がわずかに揺れる。
張りつめていた表情がほどけ、
霞んだ顔に、ほっとした色が滲んだ。
指先が、無意識に小さく浮き上がる。
「……セス……」
掠れた声。
けれど、そこに滲んだ安堵と嬉しさは、
はっきりと、隠しようもなく伝わってしまう。
アウルとギウンは、同時に息を呑んだ。
(……聞かれた)
視線だけでそう察する間もなく――
セレストは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
ほんの一瞬。
けれど、その短い沈黙の中で、
今の言葉の意味を、きちんと受け取ってしまったのだと分かる。
それでも彼は、何事もなかったように歩みを進める。
口元に浮かべたのは、穏やかな微笑み。
ただし、その奥には――
抑えきれない喜びが、わずかに滲んでいた。
寝台の傍まで来ると、
セレストはいつもの柔らかな声音で告げる。
「イェナ。……そろそろ、薬の時間だよ」
「……飲まないと、ダメ?」
「まだ熱あるでしょ?……飲んでほしいな」
押しつけではなく、ただ真摯な心配。
その響きに、イエレナはきゅっと唇を結び、
小さく頷いた。
セレストが差し出した水と粉薬を、
イエレナはぎゅっと目をつぶって飲み込む。
「……ん……にが……」
ぷるっと肩を震わせ、涙目になる。
その表情を見た瞬間、
セレストは思わず手を伸ばしていた。
「えらいね。よく頑張った」
髪を撫でる指先は、信じられないほど優しい。
触れられた途端、イエレナの顔がとろんと緩んだ。
「……もっと、褒めて……」
半分甘える声に、セレストは小さく笑う。
「ふふ……偉かったね、イェナ」
その一言で、イエレナは安心したように微笑んだ。
部屋の空気が、
ふっと柔らかく溶けていく。
それを見ていたギウンとアウルは同時に肩を落とし、
視線を交わしてため息をついた。
(……結局、殿下の一言が一番効くんだよな……)
まるで部屋そのものが、
二人の温度に合わせて呼吸しているような――
そんな静かな温もりが満ちていた。
◇ ◇ ◇
セレストは、横になったイエレナの隣に腰を下ろし、
背もたれに軽く寄りかかりながら静かに本を開いていた。
ページをめくる指はゆっくりと落ち着いている。
けれど意識の大半は――隣で息をする少女へ向いていた。
「……セス」
か細く呼ぶ声。
イエレナは布団から手を伸ばすようにして身を寄せてくる。
甘い仕草だった。
セレストは苦笑しつつも、距離を取らない。
寄り添われるだけで、胸のざわめきが少しずつ静かになっていく。
やがて、呼吸がゆったりと寝息へ変わった。
その寝返りの瞬間――
ふわり、とイエレナの頭が滑り落ち、セレストの太腿に乗る。
「……これは……」
本を閉じ、困ったように眉を寄せる。
けれどその表情はすぐに、諦めと愛しさが混じった微笑みに変わった。
そっと手を伸ばし、淡い髪を指先で梳く。
細い髪がすり抜けるたび、
胸に温かさが染みこむ。
膝に残る重みが、静かな幸福そのものだった。
「……愛らしくて、困るね」
小さく落とした声は、夜気に溶ける。
――けれど。
昼間の言葉が、刺のように胸に残っている。
“アズみたいで、落ち着くの”
彼女の中で自分が、“誰かの代わり”として安心できる存在なら。
それは嬉しいはずなのに。
どうしても、針のような痛みが走る。
撫でる指が、わずかに震えた。
「……僕は、アズの代わりにはなれないよ」
かすれた独白は、
誰に届くわけでもなく――
枕元の闇へ吸い込まれていく。
代わりにはなれない。
なれるはずもない。
分かっているのに、胸が痛む。
それでも――
膝の上で静かに息をする少女の温もりは、
指先までじんわりと沁み込んで離れなかった。
どうしようもなく、愛おしい。
苦しいほどに、そばにいたい。
こんな僕でも――君の隣に、いていいだろうか。
声にならない問いだけが、
夜の深さの中にそっと沈んでいった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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よろしければ、そちらもお楽しみください。
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◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇




