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亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる  作者: Tsuyuri -露-


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第12話 触れた温もりに揺れて


【セレストside】



イエレナを迎え入れてからの日々は、

指折り数えるたびに、彼女の表情が少しずつ柔らいでいくのがわかった。


最初のうちは――ただ、それだけで十分だった。


癒えぬはずだった傷が、ようやく薄い皮膜を張り、

やがて“痛みの記憶”へと姿を変えていく。

そのかすかな過程を共有できることが、何よりの喜びだった。


ギウンやアウルと穏やかに言葉を交わし、

村の人々の前ではぎこちながら微笑み、

リリュエルが傍にいる時には、声を上げて笑うことさえある。


最近はリリュエルのからかいに乗って僕を困らせ、

楽しそうに頬を紅くすることもある。


――きっとこれが、本来のイェナの姿なのだろう。


その笑顔を見るだけで、胸の奥がほぐれていく。

けれど気づけば、その感情は静かに質を変え始めていた。


自分でも、もう誤魔化せない。


優しく揺れる声。

ころころ表情を変える仕草。

いつの間にか自然に僕を“セス”と呼ぶ、その距離の近さ。


(……愛おしい。どうしようもなく。)


手を伸ばしたいと思う瞬間が増えるたびに、

胸の奥にあった衝動が、ゆっくりと輪郭を持ちはじめる。


イエレナには穏やかな日々を過ごしてほしい――

ただそれだけを願っていたはずなのに。


いつからだろう。

彼女と目が合うたび、

その願いが“守りたい”を超えて、“触れたい”へと変わったのは。


意識せず伸びてしまう手を、慌てて引っ込めることもしばしばだった。


――日常の、ほんの些細な一瞬すらも。

気づけば、イェナが僕の心を攫っていた。



 ◇ ◇ ◇



それは、本当に些細な瞬間にさえ顔を出すようになった。


ある午後。

柔らかな陽射しが応接間に差し込み、

ソファではイエレナが小さく身を丸めて眠っていた。


セレストはそっと近づき、

肩から滑り落ちかけた毛布を静かにかけ直す。


「……」


その寝顔を見た瞬間、胸の奥にひとつ熱が灯る。


柔らかな光に揺れる髪。

呼吸に合わせて静かに上下する肩。

眠りの中で無意識に緩む唇――


そのすべてが、

あまりにも無防備で、あまりにも静かに心を掴んでくる。


視線を離せない。

見つめるほどに、胸の奥の熱が じわりと満ちていく。


――そんな顔を見せられたら……もう目を逸らせなくなる。


気づけば、胸の内には静かな波紋が広がっていた。

その中心に沈んでいるのは、

自分でも持て余すほどの―― 愛しさ だった。


触れてはいけないと理解している。

それなのに、触れたい衝動だけが音もなく膨らんでいく。


セレストの手は、ごく自然な動作のように髪先へ伸び――

光を受けて淡く揺れるミスティ・ブロンドに、指先が触れかけた。


その瞬間。


「セレスト様」


びくり、と肩が跳ねた。


振り向くと、扉口にギウンが立っている。

訝しげに眉をかすかに寄せながらも、表情は崩さない。


「あ、ああ……どうかした?」


平静を装って視線を逸らす。

だが伸ばしかけた手は、熱が残ったまま微かに震えていた。


「いえ、巡回の報告を」


「……そうか。なら――場所を変えようか」


そっと袖口を握りしめるように、手を後ろへ隠す。

触れそうになった――いや、触れたかったのだ。


その事実が胸の奥をざわつかせる。


悟られたくない。

彼女にも、誰にも――この衝動だけは。


セレストは息をひとつ吐き、

胸の奥へ静かに押し戻すように感情を沈めた。




ある時は、朝のキッチンで。


焼きたての甘い香りが、ぼんやりと部屋を満たしていた。

小さなフライパンを両手で支え、

イエレナが少し背伸びをするようにして生地を返す。


くるり――


予想以上にきれいな円になって、彼女はぱっと顔を輝かせた。


「できた! ほら、ちゃんと丸くなった!」


粉が頬に付いているのも気づかず、

笑顔だけがまっすぐこちらに向けられる。


その一瞬で――

喉の奥が、じりっと渇いた。


(……危ういな、本当に)


視線をそっと逸らし、深く息を吐く。

こんなささいな仕草だけで胸がざわつくなんて、以前の自分なら考えられない。


フライパンを抱えて無邪気に笑う少女。

焦げる匂いを警戒して慌てて火加減を見直す横顔。

小動物みたいにころころ変わる表情。


その全部が愛しくて、目が離せなくて――

気づけば心の方が追いついていなかった。


守りたいと思っていたはずなのに。

それ以上に――触れたいと願ってしまう。


その境界線が、

日を重ねるごとに静かに、しかし確実に溶けていく。


イエレナがこちらを振り返る。

頬に粉を付けたまま、誇らしげに笑って。


「セスの分も焼くから、一緒に食べようね!」


ただその一言だけで、胸の中心がふっと熱を帯びる。


――あぁ。

いつの間に、僕の気持ちはこんなにも危うく形を変えてしまったんだろう。


「美味しそうに焼けたね」


悟られないように。

自分自身にさえ悟られないように。


静かに微笑む――

それだけが、今の僕に残されたかろうじての“防壁”だった。



またある日の昼下がり。


柔らかな陽光を受けて揺れるイエレナの髪。

ただその光景だけで、胸の奥がきゅうと締めつけられる。


「セス、ルディアと……その……また、お散歩したいんだけど……」


遠慮がちな声。

少しだけ頬を染め、上目遣いで見上げてくる仕草。


たったそれだけで、胸の内側へ静かに熱が流れ込んでいく。


「なら――午後に、行こうか?」


自然と頬がゆるみ、隠しきれない。

そんな自分に苦笑しつつ、二人はルディアに乗って外へ出かけた。


背後から彼女の腰を支え、手綱を取り、馬がゆるりと歩き出す。


その近さに、ふわりと触れる体温。

はらりとかかる髪の香り。


(……近い)


意識をそらそうとすればするほど、逆にそこだけが鮮明になる。


「……風が気持ちいいね」


振り返った声が耳元で揺れ、胸の奥がかすかに跳ねる。


「うん。君と一緒だから、なおさら」


口にした瞬間――

理性の奥がぎし、と軋んだ。


イエレナが驚いたように瞬きをする。

頬に触れた風が、彼女の髪を柔らかく揺らしてセレストの頬をかすめた。


それだけで、胸の奥がざわめいて苦しくなる。


最初は、ただ守りたかった。

この距離にいてくれるだけで、十分だと思っていたのに――


――なのに、今は。


触れずにいられる自信の方が、日に日に薄れていく。


(もう少しだけ……君の隣にいられたら)


その想いを胸の奥に押し込んだまま、セレストはルディアを止めた。


イエレナが降りる前に、彼は先に軽やかに地面へ下り、

馬の横へ回り込んでそっと手を差し伸べる。


「イェナ、ゆっくりでいいよ。足をこちらへ――」


――触れたい気持ちを悟られないように、声色だけはいつも通りに。


だが次の瞬間。


イエレナの足が、あぶみを踏みそこねて滑った。


「わっ――」


反応より先に、身体が動く。

落ちかけた華奢な身体を、セレストは腰ごとしっかりと受け止めた。


腕の中にすっぽり収まる形で抱きとめてしまい、

思った以上に近い距離に息が詰まる。


イエレナが驚いたように胸元でふわりと息を漏らした。


「びっくりした……セス、ありがとう」


その震えた声が、服越しに胸へ伝わる。

セレストはハッと我に返り、慌てて腕をゆるめた。


だが――指先にはまだ、彼女の体温が残っている。


「……怪我は、ない?」


「うん、大丈夫」


頬を染めて、照れたように微笑む。

夕陽がその横顔を淡く照らし、胸がぎゅうと締めつけられた。


ほんの数秒。

ただの偶然の触れ合い。


――それなのに。


ふと気づけば、

心の距離は確かに、また一歩だけ近づいていた。


避けようのない流れの中で。

まるで自然に結ばれていく糸のように、静かに、確かに。


誤魔化しも、言い逃れもできないほどに――

胸の奥で疼く熱だけが、確かにそこに残っていた。




物語の合間を綴った短編もございます。

よろしければ、そちらもお楽しみください。


▼短編集はこちら

『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』

https://ncode.syosetu.com/n4783lg/


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