第11話 風精のささやき、芽吹く想い
「ねぇねぇ、ボクもセスって呼んでいい?」
朝の光が差し込む食堂で、リリュエルがひょいっとテーブルへ降り立ち、
金の瞳をきらきらさせながら声を弾ませた。
突然の言葉に、セレストは紅茶を口に含んだまま目を瞬く。
「イェナがそう呼ぶたびに、なんだか胸がぽかぽかするんだ!
響きもきれいだし、ボクも気に入っちゃった!」
無邪気に胸を張るリリュエル。
その声に、イエレナは耳の先まで赤くしてうつむいた。
自分の呼び方を真似されるのが、くすぐったくて――それでいて嬉しい。
セレストは息を小さく吐き、微笑を浮かべる。
「……好きに呼んでいいよ」
「やったー!セス、よろしく!」
ぱたぱたと羽を震わせて飛び回るリリュエルを、
セレストは肩をすくめながらも楽しげに見守っていた。
その優しい横顔に、イエレナもそっと微笑んでしまう。
――にぎやかさと温もりが、確かにこの屋敷に満ちていく。
◇ ◇ ◇
それからの日々は、本当に賑やかだった。
屋敷には小さな笑い声と羽音が絶えず、
庭では花に顔をうずめてはくしゃみをし、
時にはイエレナの髪の隙間に潜り込んで
「見つけられる?」とじゃれついてくる。
イエレナ自身も――
そんな無邪気さに引き出されるように、以前より表情が柔らかくなっていた。
リリュエルにくすっと笑い、
ときには唇を小さく尖らせて拗ねる。
その仕草のひとつひとつが、どこか自然で、あたたかい。
セレストは、その変化を少し距離を置きながら静かに見つめていた。
(……やっぱり、君には笑っていてほしい)
祝福がどうとか、立場がどうとか――
そんなことを抜きにして。
ただ彼女が笑っているだけで、
自分の胸の奥がそっと緩むのを隠せなかった。
そう思うたびに、胸の奥が穏やかな熱を帯びる。
――そんなある夕暮れ。
温室の中は、沈み始めた陽に照らされて、淡い金色をまとっていた。
イエレナは小さな剪定ばさみを手に、咲き疲れた花の先端をそっと整えていく。
植物の息づかいが感じられる静かな空間。
けれど――その静寂に、不意に胸の奥がざわりと揺れた。
(……今の、なに?)
ほんのわずかな魔力の乱れ。
自分でも気づかないほどの微細な揺らぎ。
そのとき。
「……イェナ」
優しい声が、背中越しにそっと降りた。
驚いて振り返ると、温室の入口からセレストが歩み寄ってくるところだった。
夕陽に照らされた銀白の髪が、柔らかく光を散らしている。
「もうすぐ夕飯だよ。……迎えに来た」
そう告げながらも、
セレストの瑠璃の瞳はまるで“何か”を確かめるように細められていた。
「……あれ……?」
イエレナが返事をしようとしたその瞬間――
胸の奥がふわりと揺れるような、微細な魔力の乱れが走った。
自分でも気づかないほどのわずかな変化。
けれど、剪定ばさみを握る指先がほんのり震えたのを、セレストは見逃さなかった。
そっと距離を詰め、温室の土の香りの中、静かに膝を折る。
「イェナ……少し、いい?」
呼びかけは驚くほど柔らかく、
押しつける気配はどこにもなくて――
ただ、誰よりも彼女を気にかける “優しさ” だけが滲んでいた。
イエレナは思わず瞬きをし、顔を上げる。
理由なんて分からないのに、名前を呼ばれただけで胸がぎゅっと熱を帯びた。
差し出された手の意味を悟り、
自分の指先をそっと重ねる。
触れた瞬間――
ふわり、と温室の空気がきらめいた。
夕陽の光と混ざり合い、あたたかな魔力が静かに満ちていく。
(……あったかい)
祝福と魔力のせめぎ合いが、
春風に撫でられるみたいにふっと溶けて消えていく。
胸の奥で揺れていたざわめきは澄み、
深いところまで軽くなっていく感覚に、イエレナは小さく息をこぼした。
「……前より、ずっと落ち着いてるね」
「え……?」
見上げた瞳に素直な驚きが宿る。
そのあまりの無垢さに、セレストの胸がまたひそかに熱を抱いた――そのとき。
宙でくるくる回っていたリリュエルが、
にやり、とわざとらしく近づいてくる。
「些細な変化なのに気づくとか……すごいねっ!
これは――あれだよ、愛だよ、愛!」
「っ……!」
思いがけない一撃に、イエレナの顔は一瞬で熱く染まった。
慌てて視線をそらすが、胸の鼓動は隠せないほど跳ねている。
セレストは言葉を飲み込もうとした。
けれど――イエレナの頬に淡く差した紅を見た瞬間、
こらえていた想いがふとこぼれる。
「……大切な人だから。気づかないはず、ないよ」
その声はひどく穏やかで、
けれど紛れもない“本音”だけが静かに滲んでいた。
イエレナの胸を深く震わせた。
「……っ」
胸が大きく波打つのに、言葉は出てこない。
唇を噛んだまま、どうしようもなく息が詰まってしまう。
――セレストは、どうしてこうも優しいのだろう。
距離も。
声も。
ふと触れる手先の温かさも。
全部が、心を乱してくる。
からかっているだけなのか。
それとも――本心なのか。
彼の胸の内は、まだ掴めない。
……そもそも私は、書類の上だけの婚約者。
セスにとって私は、
兄アズベルトに託された“責任”でしかない――
そう思おうとしてきた。
この契約が、いつか終わってしまう可能性だってある。
そう自分に繰り返し言い聞かせても、
それでも――
彼と過ごす時間が、心のどこかを優しく溶かしていく。
この屋敷で過ごす日々。
彼の優しさに触れ、皆の温かさに守られて、
気づけばその時間が、
静かに、かけがえのないものへと変わっていた。
安らぎと不安、そのどちらも抱えながら――
今はただ、彼の隣で過ごせるこのひとときを、
そっと胸に刻むしかなかった。
物語の合間を綴った短編もございます。
よろしければ、そちらもお楽しみください。
▼短編集はこちら
『【短編集】亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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