第98話
家に帰ると、家には母はいなかった。
今日は病院で夜勤だと聞いたような気もする。しかし、それが本当に今日のことだったのか、それとも昨日のことだったのかはっきりしなかった。玄関を上がるとそのまま階段を二階に上がり、自分の部屋に入った。椅子に座り、ぼんやりと目の前を見つめる。頭の中では先ほどの駅での出来事を思い出していた。
今日は「一歩」を踏み出せると思ったのに、結局踏み出せなかった。
私と同じような苦しみを抱いていたあの動画の中の女子高生は踏み出せたのに、今の私は踏み出せない。昨夜はあの動画を何度も見て勇気をもらったはずなのに、結局、彼女には乗り越えられた一歩を私はどうしても乗り越えることができなかった。
私は右手を目の前にかざし、自分の右手を見る。
ひどく華奢で小さな手だった。
だけど、私自身の手だった。
その手は、そしてその体は、私の意志とは別に、必死に生きようとしていた。
私は本当に自分の体と心をこの世界から消し去りたいのだろうか。せっかく父と母によって与えられた命をこんなことのために捨て去りたいのだろうか。
私の中を突然、怒りにも似た激しい感情が蠢く。
それは、私という人間を突然、このような理不尽な状況に追い込んだ「飛鳥」という存在に対する怒りだった。そしてそれ以上に、その「飛鳥」を生み出した学校という存在、この世界という存在に対する怒りだった。今までこのような感情を抱いたことがなかった。
たとえこの世界を敵に回したとしても、そしてどのような汚い手を使ったとしても、私は私の心を守るべきなのではないのだろうか。
そのような思いが、怒りの後に続く。
生きなければ……。
それは私の奥底から生まれた、根源的な願いだった。
なんとしても、この世界を生き延びなければ……。
でも、どうすればいいのだろう。どうすれば、この地獄の中を生き抜くことができるのだろう。そのことを考えると再び、私は暗闇に包まれる。どこにも光は見えない。
その時だった。
私の中の誰かが、私にそっと囁いたのだ。
「学校でいじめられているのは、杉原由貴ではないと思えばいい……」
そして私は、数日前に自分の身に起きた一つの出来事を思い出した。
教室で一人の男子生徒にゴミ箱のゴミをぶちまけられた時、私は心のなかでひたすら、「これは私ではないのだ。私以外の誰かなのだ」と言い聞かせていた。そうしていたら、少しだけ心が軽くなって気がした。ゴミにまみれてクラスメートから嘲笑されている人間は、私ではない。私以外の誰かなのだ。そう言い聞かせることで、私は「いじめられている人」から、「いじめられている人を外から見ている第三者」になることができた。
私は、この方法に救いを求めた。
そしてその方法をより確実にするために、一つの「工夫」を思いついた。
「いじめられている人」を自分以外の誰かにするのだとしたら、その誰かに「杉原由貴」以外の名前を与えてしまえばいい。そうすれば、私、「杉原由貴」と、学校で「いじめられている人」を私自身が全くの別人だと認識しやすくなる。
どのような名前をつければいいだろうか。
私は少し考えて、「杉原由貴」の名前を少し変えて「上原祐樹」と名付けることにした。「上原祐樹」は、私に与えられたいじめを引き受けるために作り出した、私の中のもう一人の私だった。2000年前にキリストが生まれた日と同じ12月25日に、「上原祐樹」は生まれた。」




