第91話
「2011年11月19日
中学二年に進級してどこか浮ついた空気が教室の中を流れ、そして五月の連休が終わる頃には、教室の中はいつもの空気に戻っていた。
私は飛鳥から数学のノートを借りていた。数日前に風邪で学校を休んでしまい、数学の授業を受けられなかったからだ。ノートの貸し借りは、私と飛鳥と真由美との間で時々行われていたことだったので、その時も、そのようなありふれた日常の一つになるはずだった。
その日、私は休み時間に飛鳥に数学のノートを返そうと思った。その前日に家で、自分が休んだ授業の部分は自分のノートに写し終えていた。
一限目が終わって、二限目が始まるまでの休憩時間だったと思う。生徒は皆、次の授業に備えて教科書やノートの準備をしたり、また、隣同士でおしゃべりをしたりしていた。私は教室の窓側に席があり、飛鳥の席は廊下側だった。真由美の席は飛鳥の席のすぐ近くだった。私は飛鳥の席を見る。飛鳥は席にいなかった。何かの用事で教室の外に出ていたのかもしれない。
本来であれば、この休み時間にノートを返さなくても、次の休み時間でも午後からの休み時間でも問題はなかった。その日は数学の授業はなかった。だけど私は自分の席を立ち上がり、真由美の席に歩み寄った。
「飛鳥が戻ってきたら、これを飛鳥に渡してくれない?」
真由美にそのような言葉をかけながら、右手に持った飛鳥のノートを真由美の方に差し出した。真由美は特に気にすることもなく、「分かった」と私の手からノートを受け取った。
なぜそのときの私がそのような行動を取ったのか、今でも分からない。おそらく、ちょっとした気まぐれだったのだろう。その時の私は、自分のこの行動があんな未来に繋がるとはこれっぽっちも想像していなかった。
何事もなく数日が過ぎる。
その日も、私たち三人は教室でおしゃべりをしていた。
その時不意に飛鳥が私に、「そういえば、由貴に貸していたノート、写し終えた? 今日の午後に数学の授業があるから、ノート、返してくれない?」と言った。
私は驚いた。真由美がノートを飛鳥に返したものだと思っていた。
「ノートなら真由美に渡していて、真由美から飛鳥に返してもらったはずだけど……」
すると、真由美はさらに驚くべきことを口にした。
「由貴からノートなんて受け取っていないよ」
その表情は本当に怪訝そうなものだった。その言葉も、隣で聞いていた私自身が「真由美は本当に私からノートを受け取っていないのではないか」と思ってしまいそうになるほど、真に迫っていた。
私はうろたえながら、「何言っているの。三日前『飛鳥に返しておいて』と言って、ノートを渡したでしょ」と真由美に反論する。真由美は少し憤慨したように、「どうせ、飛鳥のノートを失くしたんでしょ。ノートを失くしたのを私のせいにしないでよ」と言った。
私と真由美。
二人の言い分は平行をたどり、交わることはなかった。
私は心の中では、飛鳥は私の言い分を信じてくれると思っていた。そのことを疑いもしなかった。だって、私の言っていることのほうが真実なのだから。真実は最後には必ず明らかになる。そんな幼い幻想をまだ抱いていた。
私と真由美の言い合いを横で聞いていた飛鳥が口を開いた。
「由貴。どうしてノートを私じゃなくて、真由美に渡したの?」
「それは……」
私は言葉に詰まった。なぜあの日、飛鳥のノートを真由美に渡したのか。私自身も分からなかった。
結局、飛鳥が信じたのは私ではなく、真由美のほうだった。
「いい? 失くしたのなら、死に物狂いで探して、何としてでも私に返してよね」
飛鳥は私にそう言い放って、真由美と二人で教室を出ていた。一人取り残された私は、どこか現実感を失ってぼんやりしながら教室に立ち尽くしていた。
なぜ、あのときの真由美が「ノートを受け取っていない」と言ったのか、今でも分からない。
私からノートを受け取った後に真由美はそのノートをどこかに置き忘れてしまい、真由美自身が飛鳥のノートを失くしてしまったのかもしれない。そして、そのことを飛鳥に責められることを恐れて、嘘で自分の罪を覆い隠そうとしたのかもしれない。あるいは、飛鳥を独占するために自分の地位をさらに確かなものにしたくて、私を陥れるためにわざと「ノートを受け取っていない」と嘘をついたのかもしれない。
結局、真由美自身の口からその真相を聞くことはなかったので、何が本当の理由だったのか、今でも分からない。」




