第86話
「ねえ、一つ、訊いてもいい?」
由貴の問いかけに、朋子は特に訝しむこともなく「何?」と問い返す。
「私が中学生のときのことについてなんだけど……」
「中学生?」
「そう。中学生。……私、中学生の時に日記を書いていたと思うんだよね。そのこと覚えている?」
「日記? お母さんは、知らないけど。
だって、そもそも日記って誰かに話すようなものじゃないでしょ。ましては中学生なんて思春期真っ只中なんだから、親にはそんな話は普通はしないでしょ。
お父さんは知っている?」
「いや、知らないよ」
直樹がぼそっと答える。
由貴は目の前に座る直樹と、自分の横に座る朋子の様子を盗み見るようにして観察する。嘘をついているようには見えなかったし、何かを隠しているようにも見えなかった。やはり中学生の自分は親に隠して日記を書いていたし、そのことを自分の母親にも父親にも話すことは無かったのだろう。確かに朋子が言ったように、中学生の娘が親に自分が書いている日記のことについて話すのもおかしいか。
「急にどうしたの? 今回の突然の帰省と何か関係があるの?」
「ううん。なんでもない」
由貴は首を横に振る。
「久しぶりに実家に戻ってきて、ふと過去のことを思い出しただけ」
「そう」と朋子は答える。
由貴はもう少しだけ、自分の中学時代のことについて探ってみることにした。
「ねえ、中学時代の私って、どんな子だった? 中学時代の私について何か覚えていることってある?」
「どんなって言われても……」
朋子は言いにくそうに言葉を濁す。由貴は「何かあるのだろうか」と朋子の言葉の続きを待ったが、朋子の口から出てきたのは予想外の言葉だった。
「親の私が言うのも変だけど、至って普通の子どもだったと思うけど……。反抗期で親に反抗するということもなかったし、『学校に行きたくない』と言って学校を休むこともなかったし……。毎日真面目に学校に通っていて、特に親の手を煩わせるような子ではなかったことは確かよ」
「そうなんだ……」
上原祐樹は中学生時代の私に何かの「きっかけ」が起こって、それによって世界線が二つに分かれたと言っていた。もしそれくらいの「きっかけ」だとしたら、自分のすぐ近くにいた朋子や直樹が何かの異常に気付くはずだと思ったが、朋子の口ぶりでは、そのような出来事が中学時代の自分に起こったということも無さそうだった。
「あ、そうだ」
朋子が突然口を開く。
「え?」
「中学生時代のあなたのことで、一つ思い出したことがある」
「……何?」
「突然、男の子のような口ぶりで話し出したことが一度だけあった。お父さん、覚えていない?」
「ああ、そう言えば、そのようなこともあったな」
「そう。突然、あなたが男口調で喋りだしたから驚いてあなたに聞き返したら、すぐにいつもの口調に戻って、『あ、ごめん。学校の友だちの間で男口調で話すことが流行っていて、その癖が出ちゃった』と言っていた。あなた、覚えていない?」
中学時代の記憶が欠落している由貴には、そのような記憶は無かった。だけど、由貴は「……うん。そんなこともあったかもしれない」と誤魔化すように答えた。頭の片隅で、今、朋子が口にしたエピソードについて考える。だけど、それが「きっかけ」に関係しているのかどうかは分からなかった。
食卓を再び沈黙が覆う。
その沈黙に耐えきれなくなったかのように、朋子が「あ、そうだ」と口にする。そして再び、自分が勤める病院で起こった出来事の続きを話し出した。由貴はその話を聞くともなく聞いていた。
昼食を終えると、由貴はすぐに自分の部屋に戻った。
再び自分の部屋を見回す。
学生時代の自分が使っていた学習机。机の下側には大小二つの引き出しが付いている。その机の横には、三段の引き出しが設けられた小さなキャビネットが置かれていた。
とりあえず、日記を隠しておくのに一番可能性の高いそれらの引き出しを探してみることにした。机の前に置かれた椅子に座る。その椅子に座ると、高校時代の自分にタイムスリップしたような不思議な感覚がした。始めに机の右側の引き出しを開ける。中には、シャープペンシルや替芯、インクが殆ど入っていない蛍光ペン、消しゴムの欠片、付箋メモ、小さな手鏡、コンビニで買ったリップクリームなどが入っていた。特に帳面のようなものは入っていない。ここではないようだ。次に左側の引き出しを開ける。その中にも日記のようなものは入っていなかった。引き出しには、点数が悪くてしまい込んだ模試の結果や読みかけの文庫本、古い携帯電話などが入っているだけだった。机の横のキャビネットも同様だった。三段の引き出しには、教科書、高校時代に使っていた授業用のノート、大学案内のパンフレット、受験用の赤本、好きなアーティストのCDなどが入っているだけで日記らしきものは入っていない。授業用のノートについては表紙だけではなく念のため中も一冊一冊開いていったが、やはり日記のようなものはどこにも書かれていなかった。
「ここでもないか……」
幸先が悪い。本当にこの部屋に日記帳があるのか不安になる。それでも由貴にはこの部屋しか心当たりは無いのだ。この部屋を探すしか無かった。




