第85話
「おかえり」
「うん、ただいま」
「昼食の準備ができているから、食べましょう」
「うん」
由貴は朋子に小さく頷くと、朋子はすぐにキッチンの方に戻っていった。由貴は一年振りの実家に足を踏み入れる。玄関を入って右手に二階に上がる階段があり、玄関からそのまま真っすぐ行くと居間とキッチンに繋がっている。キッチンからは朋子が昼食の準備をしているのか小さく音が聞こえてくる。
一階には居間とキッチンと浴室があり、二階には由貴の部屋と両親の寝室と、あとは物置になっている小さな部屋があった。学生時代の由貴は二階の自分の部屋で寝起きをし、食事のときや風呂に入るときに一階に降りるという生活を送っていた。学生時代に自分が毎日過ごした場所に立つと、高校生の時の思い出が蘇る。場所と思い出は色濃く繋がっていて、その場所にいると、なんだか高校生の時に戻ったような気すらした。といっても多くの思い出や出来事があったわけでもない。平凡な一人の女子高生の毎日があっただけだった。それでも由貴にとっては泣きそうになるくらい懐かしい思い出だった。
由貴はそのまま階段を上がっていく。
とりあえず持っているバッグを自分の部屋に置いて、それから家族で昼食を食べるつもりだった。
階段を上がって突き当りが由貴の部屋だ。ドアは閉まっていた。ドアノブを握り、奥に押し出すようにドアを開く。そこにも高校の時の自分の日常があった。その自分だけの空間も懐かしくて、由貴は入口に立ち止まって部屋の中を見ていた。部屋の隅に学習机が置かれていて、その机を中心にして洋服ダンス、ベッドが配置されている。もはや誰も使うことが無くなった机もベッドも、高校の時のままの状態で置かれていた。
一年前に帰省した時もこの部屋を見たはずだったが、その時はこのような感情を抱くことは無かった。なのに今は懐かしさ胸がいっぱいになっている。その差は何なのだろう。由貴はその光景を見つめながら考えていたが、その答えを自分の中から見つけ出すことはできなかった。
そして、その部屋を見ても、自分の中学生時代のことは思い出せなかった。中学生時代の自分もこの部屋で過ごしていたはずだ。中学生時代の自分が過ごした部屋を見れば、何か思い出すことがあるかもしれないと心のどこかで期待していたが、何も思い出せなかった。期待は無惨にも裏切られたことを知った。
由貴はゆっくりと机に歩み寄る。中学生時代の自分の座っていたはずの椅子に座ってみる。だけど、中学生時代の自分はどこにもいなかった。小さく溜息を吐いて、椅子から立ち上がった。
由貴は持っていたバッグを机の上に置いて、そのまま自分の部屋を出た。階段を降り、キッチンに入る。キッチンの脇に置かれた食卓にはすでに色々な料理が並べられていて、さっきまで車を運転していた直樹もその食卓の椅子の一つに腰掛けていた。椅子は四つ置かれていて、それも由貴がまだこの家で暮らしていた頃と変わらない。三人が座る場所も決まっている。直樹と朋子が向かい合うように座り、由貴は朋子の横に座る。余っている一つの椅子は家に誰か客が来たときのためのものだったが、その椅子が使われることは滅多に無かった。
その三つの椅子のうち、由貴の座っていた椅子ももはや誰も座らなくなっている。今も朋子は直樹と向かい合って座っているのだろうか。朋子は今も看護師として病院に勤めているので、夜勤で家にいないときなどはこの食卓には直樹一人が座るのだろうか。
そのようなことを頭の片隅で考えながら、由貴は高校生時代の自分が座っていたいつもの椅子に腰掛けた。
テーブルの上には朋子の得意な料理が並んでいた。
肉じゃが、鮭ときのこの炊き込みご飯、だし巻きた卵。まだ由貴がこの家で暮らしていた頃は何度も食べた料理だ。特に由貴は、朋子の作るだし巻き卵が大好きだった。少し形は不格好だけど、出汁がたっぷり入っていて、噛むとじゅわっと味が広がる。忙しい朝でも必ず作ってくれていた料理だった。
「だし巻き卵か。懐かしい」
「そう。由貴が好きだったから、久しぶりに作ったのよ」
朋子は準備を終え、椅子に座る。
「いただきます」
三人は箸を取った。
食卓ではいつものように朋子が色々と自分たちの近況を話してくれた。勤めている病院での出来事、この家で起こった出来事などなど。父は黙ってその話を聞き、由貴はときどき「そうなんだ」や「へえ」といった相槌を打ちながら聞いていた。だけど頭の中では、自分が書いたはずの日記のことをずっと考えていた。日記はどこにしまってあるのだろうか。今でもその日記はこの家にあるのだろうか。中学生の自分が捨ててしまったりはしていないだろうか。そして日記が見つかったとして、自分は本当にその日記を読んでもいいのだろうか。今の自分が読んではいけない、中学生の頃の自分の秘密が書かれていたりはしないだろうか。色々な思いが由貴の頭の中を流れては消えていった。
不意に、食卓に沈黙が訪れた。
三人は黙って目の前の料理を食べている。
その沈黙は始めに破ったのは朋子だった。
「そういえば、由貴。探したいものって何?」
「え?」
「電話で、『探したいものがあるから実家に行く』って言っていたでしょ。何か必要なものでもあるの?」
「うん。ちょっとね」
由貴は電話と同じように誤魔化す。
朋子は、「そう」と言ったきり、深く追求しようとはしなかった。
ふと、由貴は、母は自分が中学生時代に日記を書いていたことを知っているのだろうか、と気になった。中学生時代の自分が朋子に日記のことを何か話していたかもしれない。もし朋子がそのことを覚えていたら、これから自分の部屋で日記を探すのに参考になるかもしれない。




