第74話
暗闇の中で目を閉じる。
しかし、昨夜と同じようになかなか眠りは由貴のもとに訪れてくれなかった。昨夜からの出来事が走馬灯のように頭の中を流れていく。それと同時に、様々な考えが頭の中を嵐のようにぐるぐると回り続けていた。
上原祐樹とは何者なのか。
なぜ上原祐樹は由貴の日記にメッセージを書き込んだのか。
そもそもどのようにして書き込んだのか。
考えても答えのない疑問ばかりだった。それでも考えずにはいられなかった。
自分は「上原祐樹」なる人物に、過去に会ったことがあるのだろうか。
自分のこれまでの記憶を呼び起こしていく。
依然として中学生の時の記憶は薄闇の中に沈んでいてはっきりとしない。しかしそれ以外の記憶の中に、「上原祐樹」という名前は見つからなかった。小学生の時も、高校の時も、そして大学生の時もそのような名前の同級生はいなかった。もちろんライトメディアの同僚にそのような名前の社員はいない。
駄目だ……。
こんなことを考えていると本当に寝られなくなる……。
由貴は毛布を顎の下まで引き上げ、自分に「何も考えるな、何も考えるな、何も考えるな」と呪文のようにひたすら言い聞かせる。そのようなことをしているうちに、浅い眠りが由貴の元を訪れる。自分が起きているのか寝ているのか分からないような曖昧な時間が流れていき、気がつくと、カーテンの向こう側がぼんやりと明るくなっていた。
由貴は寝るのを諦め、ベッドから起き上がる。
机の上の時計を見ると、まだ午前六時半だった。平日でもこのような時間に起きることはない。だけど、それ以上ベッドの中にいても眠れそうにはなかった。
そのまま窓に歩み寄り、カーテンを開ける。まだ早朝の街は動き出していないのか、誰の姿も見えない。なんとなく黙って、眠ったままの街を眺めていると、突然、道路の角から犬のリールをもった初老の男性が現れた。男性は由貴に見られていることに気付くこともなく、そのまま次の角を曲がって由貴の視界から消えていく。すると、もともとそのような男性なんて存在しなかったかのような静かな街が再び目の前に広がっていた。
由貴は眠ったままの街を見ながら小さく息を吐く。
昨夜はほとんど睡眠が取れていないせいなのか、頭の中に霞がかかったような感覚だった。窓の外から部屋の中に視線を戻す。ふと、机の横に置かれているキャビネットが目に入った。
まさか、日記帳に「上原祐樹」からの新しいメッセージが記載されていることはないだろう。昨夜由貴が日記を書いてから六時間程度しか経っていない。そもそも昨夜はうまく眠れなかったので、ベッドの上で半分起きているような状況だった。その間、このキャビネットに何も異変は起こらなかったし、誰かがキャビネットの引き出しを開けてノートに何かを書いたのだとしたら自分が気付かないはずがない。
だけど、一度気になってしまうと、どうしても確かめずにいられなかった。何も起こっていないはずだと確信している自分の片隅に、「もしかしたら……」と考えてしまう自分も見え隠れしていた。それくらい、ここ数日、由貴の身にはおかしなことが起こっていた。
由貴は窓の前を離れ、机の前に置かれた椅子に静かに座る。右手でキャビネットの引き出しの取っ手をつかみ、慎重に引き出しを開けた。昨夜、日記を書いた後に、目印としてノートの上に四色のペンを置いている。それをまず確かめたかった。
次第に引き出しの中が見えてくる。ノートの上に置かれているペン。それは、左から「赤」「黒」「青」「黄」の順で置かれている。昨夜、由貴が置いた順とも変わらなかったし、置かれ方も全く同じように見えた。由貴は小さく息を吐く。ノートの上の四本のペンを端によせ、ノートを掴んだ。そのまま静かにノートを開き、ページを捲っていく。由貴の指がピタリと止まる。
「なんで……?」
口から小さな呻きのような言葉がこぼれ落ちた。
昨夜書いたばかりの由貴の文章。その文章に引き続くように、新しい文章が書き込まれていた。すでに何度も目にしていた、なぐり書きのような「上原祐樹」の文字だった。
いつ、上原祐樹はこのノートに文章を書いたのか。
昨夜は誰もこの部屋に侵入してくることはなかったし、引き出しの中のノートも、ノートの上のペンも昨夜と全く変わらなかった。誰かがこのノートを開いて書いたとは思えない。そうなると、やはり「念写」のような形で誰かが自分の思いを発信し、このノートに転写したとでも言うのか。そのようなことがこの世の中に本当にあると言うのだろうか。しかし、何度その文字を見ても、実際に誰かが力を込めて書き込んだものとしか見えなかった。
上原祐樹の返事は、次のような文字で始まっていた。
「5月11日 日曜日
杉原由貴様」
引き続けて、長い文章が書き込まれている。
由貴は黙ってその文章を読む。読み終えると、再び頭に戻って始めから読み直した。何度も何度も読んだ。
そこには、今の上原祐樹と由貴の状況を踏まえた、上原祐樹なりの仮説が書かれていた。にわかには信じられなかった。だけど、他に今の状況を説明してくれるものがあるわけでもなかった。
由貴は立ち上がり、再び窓に歩み寄る。
日曜日の朝の街は静かに動き始めていた。朝の散歩をする人やランニングをする人が、街の覚醒とともに活動を始めている。由貴と、そして上原祐樹を置き去りにして、穏やかで平和な土曜日の次に、同じように穏やかで平和な日曜日がこの世界には訪れていた。
その日から、由貴と上原祐樹との、一冊の青いノートを介した不思議な交換日記が始まった。




