第73話
由貴は椅子に座り、改めて机の上のノートを見つめる。
日記帳は一日中、机の上に置かれたままになっていた。
午後十一時を回った一人だけの部屋はひどく静かで、由貴の微かな呼吸音だけがやけに大きく耳に聞こえる。平和な土曜日を遊び疲れたのか、窓の外の世界は寝静まってしまったかのように物音一つ聞こえなかった。
返事を書くと言っても、何を書くべきか……。
由貴はノートを前にして少し考えた後に、意を決して、ノートの横に置かれていたボールペンを握った。
「5月10日 土曜日
上原祐樹様。
あなたからの突然のメッセージを見て、驚きました。
そちらが私のことを『君』と呼ぶのであれば、私は『あなた』と呼ぶことにします。
あなたは私のこれまでの日記を読んでいるので、私のことはある程度は知っているのですよね。それでも、とりあえず自己紹介をしておきます。
私の名前は杉原由貴といいます。ライトメディアという会社で働いています。不思議なことに、私もレジデンス・ノアの1101号室に住んでいます。この日記の一番始めに書いているのであなたも知っているとは思いますが、私も今、困った状態にいます。そのため、K中央病院のメンタルヘルス科に通っています。
あなたがこのノートに書いた内容も、そして、このノートに書いたということ自体も、私にはにわかには信じられません。
今日一日、私なりに色々と考えてみました。
あなたは念写によってこのノートに文字を転写した。そんなとんでもない仮説すら考えていました。それくらいしか、このノートにあなたの書いた文章が突然浮かび上がった理由が思いつきませんでした。ただ、そのようなことをどうしても信じられない私も確かにいるのです。
一つ、教えてもらえないでしょうか。
あんたは、どのようにしてこのノートに文字を書いているのでしょうか。やはり、文章を頭の中で念じて、それを頭の中から発しているのでしょうか。
それを教えてもらえれば、今のこの状況を少しでも理解する手助けになるかも知れません。
あなたは私に『助けてほしい』と書きましたが、助けてほしいのは私の方です。
お返事を待っています。杉原由貴より」
書き終えると、由貴はボールペンをノートの横にそっと置く。そして自分が書いたばかりの文章を読み直した。
「これでいいのだろうか」という不安と、「私は何をやっているのだろう」という呆れが交互に喉元にこみ上げてくる。それでもそれらの感情を無理やり飲み込んで、由貴はノートを閉じた。机の横に置かれたキャビネットの一番上の引き出しを開け、ノートを入れる。そのまま引き出しを閉めようとした右手がふいに止まる。一つ、思いついたことがあった。
もし、このノートに「上原祐樹」の返事が書き込まれるのだとしたら、どのようにして書き込まれるのか。
念写のような超常現象によるものなら、ノートが開かれることはないだろうから、この引き出しの中に入ったまま書き込まれるはずだ。そうではなくて、実際に誰かがペンを持ってこのノートに書き込んでいるのだとしたら、一度ノートを引き出しから取り出して、そしてノートに書き込んだ後に引き出しの中に再び仕舞うはずだ。そのノートの物理的な移動を何かの手段で検知できないだろうかと思った。
少し考えた末に、ノートの上に目印となる物を置こうと思った。
引き出しの中を探すと、いくつかの色のペンが見つかった。それを取り出し、ノートの上に左から「赤」「黒」「青」「黄」の順で置いていく。「上原祐樹」がノートを引き出しから取り出すとしても、ノートの上のペンなんて気にもとめないだろうし、ペンをノートの上に戻すとしても、ペンの順序も気にはしないだろう。何も考えずにノートの上に戻したとして、同じ順序になる確率は二十四分の一だ。まず同じにはならない。
由貴はペンがノートの上から動かないように、慎重に引き出しを閉める。そして椅子から立ち上がり、最後に玄関ドアのチェーンと窓の鍵がしっかりとかかっていることを確認してから、部屋の電灯を消してベッドの中に入った。




