第70話
初めのページには、「5月2日」と書かれている。
この日記を書き始めた、五月二日の日記。記憶の喪失を診てもらうためにK中央病院に行ったこと、そこでメンタルヘルス科の田口医師の診察を受けたこと、そして日記を書くのを勧められたことが簡潔に書かれている。
「5月3日」、「5月4日」、「5月5日」。一枚、一枚、ページを捲っていく。ゴールデンウィークでの出来事、その中で読んだ本のこと、ゴールデンウィークの最終日には「見知らぬ街の探索」を行ったこと。過去の自分自身が書いた文字を見つめながら、由貴はゆっくりとページを捲り続けた。
由貴の指が止まる。
ページには「5月7日」と書かれている。ここまでは特に異常はない。問題の記載があったのは、一昨日に由貴が書いた「5月8日」の日記だ。昨日見たときは「5月8日」の日記の一番最後に、誰が書いたかも知れない書き込みがあった、気がする。本当にその書き込みはあったのか。次のページを捲れば全てがはっきりする。
由貴は、「お願い。昨日見たあの書き込みは、私の見間違いであって」と心の中で祈りながらページを捲る。だけど、由貴の祈りは簡単に打ち砕かれた。
「5月8日」の日記。
由貴が書いた文章の最後には、「あなたは誰ですか? なぜ、私の夢に出てくるのですか?」という文字が無情にも書き込まれていた。明るい陽光の下で見るその見慣れない文字は、やけに禍々しく由貴の眼に突き刺さった。
由貴は小さな溜息を吐く。
やっぱり、私の見間違いなんかではなかった……。
確かに私以外の誰かがこの日記を開いて、「あなたは誰ですか? なぜ、私の夢に出てくるのですか?」という文字を書いたのだ。目の前の文字は、その現実を冷酷に由貴に突きつけていた。この文章の意味もわからないし、これを書いた人の目的も分からない。だけど、その見知らぬ誰かがこの部屋の中に入り、そしてこの日記を開いたということが事実なのだとしたら、もう他に選択肢はない。これから管理会社に電話をして鍵交換の許可を得て、できるだけ早く玄関ドアの鍵を交換する。その「誰か」がどのようにしてこの部屋の合鍵を手に入れたのかは分からないが、鍵を交換してしまいさえすれば、その「誰か」はもう二度とこの部屋には入れない。
由貴は腹を決めて、スマホで管理会社の電話番号を選択し、発信ボタンを押す。鍵を交換する理由は「鍵を無くしたから」にしようと思った。何か管理会社の担当者に訊かれても、「鍵を無くしたから」で押し通そう。
「はい、アーバン・アセット・レジデンスです」
電話口から、若い男性の事務的な声が聞こえる。
「あ、あの、私、レジデンス・ノアの1101号室に住んでいる杉原と申します。土曜日の午前中にお電話をお掛けしてしまい、申し訳ありません。実は……」
由貴は、鍵をどこかに落としてしまい、仕方なく昨夜はビジネスホテルに泊まったという架空の話をひどくたどたどしく説明する。1101号室の玄関ドアの鍵を新しい鍵に交換したいと伝えると、電話口の男性は特に疑うことなく、逆に、「それは大変だったでしょう」と由貴に同情すらした。鍵交換についても「鍵を交換していただいても、問題ありません」と簡単に了承してくれた。由貴は、どこか拍子抜けしたような気持ちと、それでいて嘘をついてしまった後ろめたさを抱きながら、「本当に申し訳ありませんでした」と謝ってから電話を切った。鍵を落とした話は嘘だったが、「申し訳ありません」と謝った言葉は、由貴の本心だった。
小さく息を吐いて、スマホを机の上に置く。
再び、日記に書き込まれた「あなたは誰ですか? なぜ、私の夢に出てくるのですか?」という文字を見つめる。その文字に重なるように、ページの裏面に書かれた文字が薄っすらと透けて見えている。この次の日、つまり昨日、この書き込みの存在に気付かずに由貴が書いた日記の文字が透けているのだろう。
ふと、何か違和感を感じた。
裏面に透けて見える文章が明らかに長いのだ。昨夜は時間も遅かったし、仕事で疲れ切っていたので数行しか日記を書かなかったはずだ。それなのに、裏面に透ける文字は、それ以上の範囲に続いている。裏面なのでその内容までは読み取ることができないが、文字が書き込まれた跡がページいっぱいに広がっている。それに、その文字が書かれた筆圧が強いのか、紙が微かに凸凹している。今までに由貴が書いてきた日記にはそのようなことは無かった。嫌な予感を感じながら、そのページをそっと捲った。
裏面に書かれた文章を見て、由貴は言葉を失う。
「5月9日」の由貴が書いた日記。コンビニでのことや、家に帰ったときに鍵をなくしたと勘違いしたことが簡単に書かれている。その文章に引き続いて、前日の日記にもあった殴り書きのような文字で、次のような文章が書き込まれていた。
「突然、こんなことを書いてしまい、申し訳ありません。
驚かれたかと思います。
ですが、今の私にはこの日記しか手がかりがないのです。
いきなりこんなことを書いても、なかなか受け入れることができないと思います。私自身、今、私が陥っている状況を受け入れる事ができないのですから。
まず、私自身のことについて自己紹介させてください。
私の名前は上原祐樹といいます。




