第67話
「ただいま」
由貴の声が、誰もいない玄関に虚しく響く。
その後に口にした「おかえり」という言葉は、なおさら悲しく響いた。いつもの習慣で帰宅時に自分自身に掛けている「おかえり」の言葉は、今日はやけに白々しく聞こえた。ふう、と一つ溜息を吐く。とりあえず家の中に入ることができた。それだけでもよしとしよう。何とか自分の気持ちを立て直して、玄関で靴を脱ぐ。
部屋の中に入り電灯をつけると、手にしたコンビニのポリ袋を、いつも由貴が使っているデスクの上に置く。そして左肩に掛けているショルダーバッグはデスクの横に立て掛けるようにして置いた。
何も考えずに、帰宅後のルーティーンをこなしていく。
帰宅後にすぐに夕食を食べてしまうと、その後の作業が面倒になる。面倒になってそのまま風呂にも入らずにベッドに潜り込んでしまい、その次の日の朝が大変になることは目に見えていた。何度もそれで痛い目にあっているので、夜にできることは夜のうちにするようにしていた。
台所に溜まっていた食器を洗うと、次にシャワーを浴び、簡単にスキンケアをする。そこでようやく夕食の時間だ。夕食と言ってもコンビニで買ってきた「ツナと大根おろしの和風パスタ」を電子レンジに入れてボタンを押すだけ。簡単なものだった。
温まったパスタをデスクの上に置き、同じくコンビニで買ってきた飲むヨーグルトと一緒に胃の中に流し込む。何も考えなかった。何も考えたくなかった。ただ目の前にパスタがあるからそれを口に運び、そしてそれが口に入ったから咀嚼する。それをひたすら繰り返す。
食べ終えたパスタの包装紙やパックをボミ袋に入れる。そのまま洗面所で歯を磨いてから居間に戻る。これでやっと眠ることができる。デスクの上の時計を見るともう深夜一時半になろうとしていた。由貴は電灯のリモコンを手に取り、電灯を常夜灯に切り替える。そのままベッドの中に入ろうとしたところで、今日は日記を書いていないことを思い出した。K中央病院の田口医師から日記を書くように勧められてから、律儀に毎日、寝る前に日記を書くようにしている。
今日くらい日記を書かなくてもいいよね……。
由貴の心の中のもう一人の自分が囁いてくる。ただ、由貴はそのもう一人の自分のささやき声に耳を塞ぎ、ベッドから這い出た。一度あることは二度ある。一度、書くことを怠けてしまうと、いずれ二度目に怠ける日が必ず訪れる。そしていつの間にか日記を書くことすらしなくなってしまう。そんな強迫観念にも似た思いが、由貴の重たい背中を押していた。もしかしたら、中学時代に日記を書いていたことが心のどこかに残っていたのかもしれない。どのような内容の日記を書いていたのかは思い出せないが、中学時代の自分も、どこかでその日記を書くことを止めてしまった。なぜ止めてしまったのか。きっと、今の自分と同じように、自分自身に甘えを許したからだろうと由貴は自己分析をしている。だからこそ、今の由貴は日記を書かない日を作らないようにしていた。その代わり、どうしても書くことがない日であったり、ひどく疲れていて書く気力が無い日は、日記は二、三行でも構わないと、自分に対するハードルは下げている。
由貴はデスクの上に置かれたリモコンを手に取り、部屋の電灯を再び点ける。
さすがにこの時間から日記を書くのだとしたら、簡単なものでいいだろう。そうだ。家に帰ったときに部屋の鍵を無くしてしまったと勘違いしたことを書こう。そのときの自分の中の圧倒的な絶望感を書こう。
そのようなことを頭の片隅で考えながら、デスクの横に置かれたキャビネットの一番上の引き出しを開ける。ペンやメモ帳などと一緒に、青色の表紙のノートが入っていた。それは、昨夜、由貴が日記を書き終えた後に引き出しにしまった状態のままだった。由貴は黒のボールペンと一緒にそのノートを掴み出す。ノートを机の上に置き、自分が書いた最後のページを探すようにパラパラとページを捲っていった。
始めは、その異常に気付かなかった。
そのまま真っ白のページに「5月9日 金曜日」と書き込む。そして、会社帰りにコンビニに寄ったこと、自分の家に着いたときに部屋の鍵を無くしてしまったと勘違いしたことを簡単に書いていく。それこそ五行も書いていなかった。いつもだったらそのままノートを閉じて引き出しの中にしまうところなのだけど、その日は、前日の日記を読み返してみようと由貴は思った。本当に気まぐれだった。
「え……?」
由貴の口から小さな声が溢れた。
目の前の現実を理解できず、一瞬混乱する。そこでは、通常では起こるはずのないことが起こっている。そのことだけはかろうじて分かった。
昨日の日記。その最後に次のように書かれていたのだ。
「あなたは誰ですか?
なぜ、私の夢に出てくるのですか?」
由貴は、その文章を書いた記憶が無かった。
そもそもとして、それ以前に書かれている由貴の文章の筆跡と、この文章の筆跡は明らかに違っていた。似ても似つかない。由貴が書いた文字は女性の文字らしく丸みを帯びた文字だったが、その最後の文字は、男性が書いたかのような乱暴になぐり書きされた文字だった。




