第66話
コツ、コツ、コツと足音が響いている。
左腕につけた腕時計を見ると、もうすぐ0時になろうとしていた。
コンビニからの帰り道を、由貴は一人で歩いていた。
小さな道路の両脇に住宅が並んでいる。それぞれ家の玄関上にある常夜灯も消されていた。由貴以外に誰の姿も見えなかった。いつもなら仕事帰りのサラリーマンが一人くらいは道を歩いていたりするのだけど、なぜか今日に限ってそのような人影は全く見当たらない。ただ、道路の両脇に等間隔に並んでいる街灯だけが、自分の存在を主張するようにさみしく夜の道路を照らしていた。背後から街灯の光を受けて、由貴の前に黒い影が長く伸びていく。そして再び別の街灯の下に入ると、それまでの黒い影が消えて別の黒い影に入れ替わるように、新しい影が前に伸びていく。
この道は、ゴールデンウィーク中に街の「探索」のときにも歩いた道だった。だけど昼と夜とでは全く違った顔を見せていた。今は、この世界に人間は由貴一人しかいないのではないのかと錯覚してしまいそうなほど、周りは静寂に包まれていた。
しばらく歩いていると、ようやく由貴が暮らすマンションが見えてきた。
ふと見上げると、由貴の部屋である1101号室のベランダが見えた。その奥の窓は当然のように明かりは点けられておらず黒く塗りつぶされている。その他の部屋も、住人はすでに深い眠りについているのか、その大部分は暗闇に包まれていた。
誰もいないエントランスに入り、オートロックのドアの横に設けられた機器に鍵を差し込んで回す。ドアは、コンビニのドアと同じように音もなく目の前で開く。由貴は自分の部屋の郵便受けを確認することもなく、右に曲がってすぐにあるエレベーターに向かった。自分宛てに何か郵便物が届いているのかを確認するのも面倒だった。一秒でも早く自分の部屋に帰りたかった。それにどうせ郵便受けに入っているといってもそのほとんどはチラシだ。見ても見なくても何も変わらない。エレベーターは運よく一階で止まっていた。小さな溜息を吐いて、エレベーターに乗り込む。
由貴の暮らす1101号室は、エレベータを降りて左側の突き当りの部屋だ。その玄関ドアの前にようやく辿り着くと、由貴はいつものようにショルダーバッグの内ポケットに左手を差し込んだ。いつも家の鍵はそのポケットの中に入れるようにしている。だけど、内ポケットの中に差し入れた由貴の手は何も掴むことができなかった。一瞬、何が起こったのか分からなかった。再び由貴の手はそのポケットの中を探るように動かす。それでもその手は空気しか掴むことはできなかった。
うそ……。
いつもは入っているはずの家の鍵が無かった。
由貴はバッグの口を大きく開いて、内ポケットの中を覗き込む。やはりそこには何も入っていない。バッグの中も漁ってみるが、鍵は見当たらない。
まさか、どこかで落とした……?
顔が青ざめる。
部屋の合鍵は、家にある引き出しの中に入れていて普段は持ち歩いていない。もし鍵をどこかに落としてしまっているのだとしたら、今の由貴には部屋の中に入る手段はなかった。
もし本当に落としてしまったのだとしたら、鍵屋を呼んで玄関の鍵を開けてもらわなければならない。確か身分証明証があれば鍵を開けてもらえるはずだ。だけど、今から鍵屋に電話をかけるとして、鍵屋がここまで来て、そして実際に鍵が開くようになるまで、いったいどれくらいの時間がかかるのだろう。
疲れ切った深夜の玄関前。これから自分の身に起こるだろうことを想像すると、その想像の中の出来事にすでに心の底からうんざりしていた。
落としたのだとしたら、先ほど寄ったコンビニの中だろうか。確かにあの時、バッグの中から財布を取り出した。まさか、あの時に鍵を落としてしまったのだろうか。と言っても床に鍵を落としたのだとしたら、何かしらの音がするはずだ。あの時、自分はそのような音は聞いていない。でも、疲れ果てていて、注意力が散漫になってしまい聞き落としたという可能性はある。
様々な考えが由貴の頭の中を駆け巡る。
とりあえず、一度、コンビニに戻ってみよう……。
由貴は自分の部屋のドアから踵を返して、再びエレベーターの前に戻る。エレベーターは誰かが一階のボタンを押したのか、すでに十一階から下に向かって動いてしまっていた。それによって由貴にちょっとした待ち時間ができた。そのままぼうと立っていることもできなくて、もう一度バッグの中を探そうと思いついて右肩に下げていたショルダーバッグの口を開ける。すると、財布の下に鍵が隠れているのが見えた。先ほどは慌てていて見落としてしまっていたらしい。
由貴は安堵と疲労が混じった小さな息を吐く。
そして地獄の底で救いの手を見つけた思いでその鍵をつかんだ。




